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恒心文庫:さよなら愛着

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

 雨の隙間から十月の風が吹き込んで、俺はコートの前をきつく閉じた。合鍵で二重のオートロックを解除し、彼の部屋に足を踏み入れる。ノックしてから寝室に入ると、既にベッドに横たわる彼がいた。
「来てくれたの」
 ゆっくり顔を傾けて、俺を見る視線は定まっていない。眠る直前だったようだ。ぼうっとして力が抜けている。俺が去年の誕生日に贈った間接照明の灯りが、堀の深い顔に濃い影を作っていた。
「今日は来ないかと思ってた」
「仕事が終わらなくて……俺今度の事務所慣れないんだ。ごめん」
「謝るなよ。ねえ、こっちに来てよ。僕もう薬飲んだんだ。眠っちゃうかもしれない、だからその前にセックスしよう」
 山岡さんは俺に手を伸ばした。
「シャワー浴びなきゃ……俺、汗臭い」
「かもね」
 キスや抱擁もそこそこに彼は性急な愛撫を求め、そのまま服を乱し合った。まともに食事をとらない彼の身体はあばらが浮いて痛々しく、外出もあの一件以来殆ど出来なくなって肌が白くなっていた。次第に汗ばむ身体を無意味によじらせ、快楽から逃げようとするさまを俺は見下ろしていた。

 三ヶ月前のあの日、唐澤さんが死んだ。法廷で殺された。
 山岡さんは見ていた。唐澤さんの眼球が、鋭く尖った鉛筆で一突きされるさまを。凶器が脳に達し、血を流しながら絶命していくさまを。その犯人もすぐに自殺した。
 意外だったのは、通夜でも告別式でも彼が一度も涙を流さなかったことだ。耐え難い苦しみを外に出さないでいると、感情は別の場所に捌け口を探し出してしまう。怒りの行き場を失った彼は弁護士をやめ、ほどなくして心的外傷後ストレス障害と診断された。一年前から続く俺たちの関係もどこかゆがんできてしまったように思う。不安を持て余す彼は俺を根本的なところで信じてくれなくなった。いつもいつも、俺がいなくなる不安に駆られている。
 外に出ると吐いてしまう彼は、カーテンの締め切られた部屋で一日を過ごす。入院や療養施設の入所も彼は拒んだ。人と接したくない、と彼は強調した。
 何も考えない時間が必要なのだ。頭をまっさらにする時間。考えすぎると人はいかれてしまう。天才がすぐに自殺するのは、頭がよすぎて脳みそがヨーグルトみたいになったからだ。俺は週に二、三回彼の部屋に訪れている。安否確認だ。そんなことに意味がないのも、俺にはわかっている。ネットで買ったロープをドアノブに引っ掛けるのを、俺に防ぐことはできない。
 涙で顔をぐちゃぐちゃにした彼が掠れた喘ぎ声を上げ、全身を震わせてイッた。射精はしなかったようだ。キスをしながらもう何回か突いて射精した。虚脱感と共にベッドの上でぼうっとしていると彼はもう眠っていた。朝までそばにいてやりたい。だが彼が嫌がる。……明日早いので帰ります、そう書き置きしてから、頼まれていた食材を冷蔵庫に詰め、俺は部屋を後にした。こんなんじゃ、ただ穴に何かを入れに来ただけみたいだ。
 
 漠然とした虚しさが朝まで続き、ミスを連発して何度も頭を下げる羽目になった。俺は新しく入所した事務所で、いわくつきみたいな扱いをされていた当初から精一杯努力をした。最近になってようやく信頼を獲得してきたのに、このざまだ。喫煙所でコーヒーを飲み、メッセージアプリを起動した。
>今日行ってもいい?
 すぐに既読がついたが、一時間経ってからようやく「ごめん」と返事が来た。
>今日は会えない
>文字うつのもしんどい
>ごめん
 わかった大丈夫、薬飲むの忘れるな、と返信した。
 俺は彼の病気が治ってくれることを切に望んでいる。もう一度自由に笑って自由に外に出られたらいい。一方でこのままならいいのにと感じた。彼が家にこもって臥せっているあいだ、他の男に抱かれる心配はない。司法修習の頃から募らせた狂気は俺の心を少しずつ蝕んで、彼のいない外の世界になんの意味もないから二十四時間ずっと肌を触れ合わせて、一センチでも一ミリでもいいもっと近くにいたいそばにいたい一秒だって離れていたくないと俺を病ませる。
 しかし彼を抱きしめたときの幸福感は、一度離れないと味わえないものだ。彼が執着している対象が俺じゃないことの苛立ちを騙し騙し、日々を過ごした。大人になりきれない俺にできることなんて、あるんだろうか?

彼とは会うたびにセックスばかりした。彼は乱暴にされることを好む。俺は排泄しているだけみたいになっていくのが嫌で、彼の自傷行為に付き合っているような感じも嫌だった。せめて朝までずっと優しくしたくて俺はいつも言う。
「泊まっていっちゃ駄目か」
「やめたほうがいいよ」
 このやり取りはもう何回も繰り返されている。話したくないこともあるだろうから聞かなかったが、俺はついに「どうして?」と尋ねた。
「僕、夜中に叫ぶらしいんだ。寝てる間に絶叫して、隣の部屋から苦情が来た。悪い夢ばかり見てるからかな……僕は君に迷惑かけたくない」
 俺は夜中にたたき起こされたって迷惑だなんて少しも思わない。だけど彼が嫌がるなら従うほかない。夜中に目を覚ますことがあったら電話してくれと言った。悪夢の後はどうしようもなくひとりだから。

 十月と十一月が流れるように過ぎ去り、十二月になった。今年もあともう僅かだ。年末が近づくにつれ仕事が忙しくなった。今月に入ってから俺は一度も彼の家に行けていない。連絡も、まともにできないほど毎日疲れ果て床に就いた。長く彼の部屋を訪れていないという罪悪感が、ますます俺を彼から遠ざけていく。そうやって最後の連絡から二週間が過ぎた。
 久しぶりに休みが取れた日の前の晩、
>ずっと都合つかなくてごめん。明日行く
 とメッセージを送り、次の日の午後、彼の部屋に行った。しかし、彼はいない。電話をかけたがそのたびに留守電に転送された。どこへ行った? ……俺のせいか?
 スマホを確認すると、送ったメッセージはまだ既読になっていない。寝室に行き触れたシーツは冷たい。いや当たり前か、くそ、冷静になれ。コーヒーマシーンには充分に豆が入っているし、冷蔵庫にも食べ物がある。ごみもそのまま、灰皿の横には買ったばかりの煙草。大丈夫だ、ちゃんと生活してた。大丈夫だ、自分で死を選んだりしてない……でも、一体何処へ行ったんだ、教えてくれよ、お願いだ連絡をくれ。俺は三秒おきにスマホを確かめ、彼が帰ってくるまで玄関の前にへたり込んでいた。
 夕方、彼は帰ってきた。俺は三時間も床に座り続けていたらしい。
「どこへ行ってたんだ」
「病院だよ。家の前にタクシーを呼んだ」
「病院……?」
 ほっとする気持ちと、連絡をくれない怒りがごちゃまぜになって混乱した。感情的になっている俺の横をすっと通り過ぎる。その背中に向かって大声が出た。
「連絡しろよ! ここ来たらあんたが消えてて、電話してもかけなおしてこねえし、お、俺がどんだけ、」
「心配した?」
 脱いだコートをハンガーにかけている彼に「当たり前だろ!」と俺は声を荒げた。彼は帰ってきてから一度も俺に視線を向けなかったが、少し俯いたあと、俺をじっと見つめた。

「僕もそういう気持ちだった。きみが僕に愛想を尽かして、二度と会いに来てくれないんじゃないかと、そればっかり考えてた」
 責めるような目つきじゃない。まるで捨てられた犬みたいに、さみしそうだった。
「……悪かったよ」
「ううん。嫌味ったらしいね、僕」
「いいよ……て言うかお前、外、平気だったのか」
「うん。きみが来てくれるって知ってたから大丈夫だった」
 こいつ。着信を無視してたのか。馬鹿にしやがって。
 彼の手を掴み「やりたい」と言うと「疲れてるから……」と彼は顔を背けた。すぐに引き下がった俺を見て彼は「冗談だよ」と苦笑して手を握り返された。
「そんな泣きそうな顔するなよ」
「してねえよ」
 深夜、また明日、と言って別れた。俺はその言葉を守った。俺と彼は、毎日一緒にいるようになった。セックスする日も勿論あったし、しない日は抱き合って眠った。彼の笑顔が心なしか増えていく。俺自身も、彼がいつか離れていく恐怖から、徐々に解放されていくのを感じていた。彼の笑顔は俺に自信をくれた。けして無力なんかではないのだと。そしてそれは彼も同じだ。何もしなくたっていい。ただ存在して、呼吸をするだけで、十分すぎるほどの価値がある。生きていてくれればいい。欲を言うなら、そばにいてくれればいい。ずっと一緒にいられたらいい。

 雪の日だった。晩飯の後、俺はテーブルにファイルを出した。
「今日、不動産屋回ったんだ。セキュリティのしっかりしてるマンションを探してきた。俺、なんもできないけど、一緒にいてやることはできると思う。一緒に暮らさないか」
 目を丸くした彼を見て俺は心臓を吐いてしまいそうになった。これはプロポーズと同じだ。永遠に思えた沈黙の後、彼は囁くような声で、「今朝、雪が降ったろ」と言った。
「あの雪のこと、きれいだと思った。ただ雨が凍っただけのものをきれいだと思えるようになった。毎晩ちゃんと眠って、ちゃんと食事を取って、普通のことなのにすごく怖い。たぶん、僕は今すごく幸せなんだよ。きみと一緒にいるうちに罪悪感から解放されて、僕はきっと幸せになる。からさんはもういないのに、僕だけ……それはすごく怖いことだよ」
 俺はたまに、彼が何を考えて何を思っているのかわからなくなる。でも、あのひとが死んだことに少しの責任もないことだけは、分かる。悼むのはもう充分だ。
「お前のせいじゃないよ」
「なんで、そう思うの」
「お前は悪くないから」
 すると俯いて何も言わなくなってしまったので、俺はあわてて話を変えた。
「そういや、墓参りってもう行ったか?」
「まだだよ」
「落ち着いたら行こう、二人で」
 彼は頷いた。
「僕さ、きみがいてくれて嬉しいんだ、ほんとに、本当に……」
 初めて彼と朝までずっと一緒にいた。彼は朝までたっぷり眠って、一度も叫んだりなんて、しなかった。

約束が果たされたのはそれから四ヵ月後、引っ越しを終えた春だった。
 その日はよく晴れていた。車を出すと言ったが彼は拒んだ。自分の回復を知るために、電車に乗ってみたいと。窓から見える桜が横に流れていく。
 東光院の緑の中で彼は言った。
「さっき花屋に行った時思ったんだけど、花ってきれいなんだね。ただのひらひらした植物かと思ってた」
 墓前にしゃがみ、彼は刻まれたあのひとの名前をなぞりながら何かを言っていた。
 からさん。あなたは僕の居場所でした。あなたを見つめていた日々は本当に楽しかった。でも、もうお別れです。今までありがとう……さようなら。
 その呟きは鳥の鳴き声と混ざって空気に溶ける。
 すべて大丈夫だという気がした。なにが大丈夫なのか俺には分からないけれど、なにもかも大丈夫なのだという確信があった。これから先、俺たちはどこへだって行ける。
 帰り道、駅のホームの白いベンチで、なにも話さずふたり座っていた。彼の手を握った。見上げた空の色は透き通っている。春の匂いと日差しが眩しかった。

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