→弟殺しの歴史
*>いちえいこうの (→弟殺しの歴史) |
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*1389年 バヤズィト1世が弟・ヤクブらを殺害<ref>その後、オスマン帝国では兄弟殺しが後継者争いを防ぐため仕方ない行為として慣行化し、16世紀にはこれが法制化されるにまで至っている。</ref> <br> | *1389年 バヤズィト1世が弟・ヤクブらを殺害<ref>その後、オスマン帝国では兄弟殺しが後継者争いを防ぐため仕方ない行為として慣行化し、16世紀にはこれが法制化されるにまで至っている。</ref> <br> | ||
*1497年 チェーザレ・ボルジアが弟・フアンを殺害 <br> | *1497年 チェーザレ・ボルジアが弟・フアンを殺害 <br> | ||
*1557年 | *1557年 織田信長が弟・信行を殺害<ref>手を下したのは配下の者とも、自害とも言われる。</ref><br> | ||
*1634年 徳川家光が弟・忠長を殺害 <br> | *1634年 徳川家光が弟・忠長を殺害 <br> | ||