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ゆゆうた騒動当時の恒心教においては、[[面白い愛の戦士]]が語ったように、当時の教徒の状況を考えればゆゆうたと戦争状態になるのはどの道避けられなかったというほど主戦派が多数派であり<ref>宗教史的にも、数多の宗教団体が「本来戦うべき敵である異教徒よりも、同じ団体の中で少し意見が違うだけの異端を叩くこと」に熱を上げ、結果的に教団の団結力が一時的に上がったものの、最終的には不寛容を招いて先鋭化・弱体化してしまう事例は枚挙にいとまがない</ref>、穏健派・厭戦派は少なかった。厭戦派は騒動末期に急速に力をつけたものであり、それまでは教団内は常に主戦派一色であったし、厭戦派は問答無用で包皮民認定されていた。そのため結果的にこうした「暴走」をとがめる流れも起こらなかった<ref>事実、騒動期間中には、Wiki、カラケー共に「氏に制裁を加えるべき」という意見は見受けられなかった</ref>。こうした当時の教団内の空気感にも問題があったと言える。 | ゆゆうた騒動当時の恒心教においては、[[面白い愛の戦士]]が語ったように、当時の教徒の状況を考えればゆゆうたと戦争状態になるのはどの道避けられなかったというほど主戦派が多数派であり<ref>宗教史的にも、数多の宗教団体が「本来戦うべき敵である異教徒よりも、同じ団体の中で少し意見が違うだけの異端を叩くこと」に熱を上げ、結果的に教団の団結力が一時的に上がったものの、最終的には不寛容を招いて先鋭化・弱体化してしまう事例は枚挙にいとまがない</ref>、穏健派・厭戦派は少なかった。厭戦派は騒動末期に急速に力をつけたものであり、それまでは教団内は常に主戦派一色であったし、厭戦派は問答無用で包皮民認定されていた。そのため結果的にこうした「暴走」をとがめる流れも起こらなかった<ref>事実、騒動期間中には、Wiki、カラケー共に「氏に制裁を加えるべき」という意見は見受けられなかった</ref>。こうした当時の教団内の空気感にも問題があったと言える。 | ||
無論こうした空気を作ってしまった事自体は教訓としなければならないが、これについても特定の誰かが悪いわけではない。彼の起こしたこれらの問題行動は、彼のみではなく恒心教徒全体の問題でもある。当時は期待の路線とされていたが、その後空気が変わったことで関与した人物が一転して炎上する事案は後の[[飯塚騒動]]、[[学術路線]]でも発生した。 | |||
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