ラヒケーノヒケー騒動を受け表現を変更
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編集活動が停止しゆゆうた・サウプロ騒動も沈静化する中で騒動の振り返りとして、他の意見を許さないような編集姿勢や余計な[[炎上依頼]]的記述を加える傾向があったことで批判も受けることとなる。最も大きな問題としては、11月にゆゆうたの実家が間違いであると報道されたが、Wikiでゆゆうたの実家特定を確定情報のように扱っていたのがこの人物であり、誤爆事件の深刻化を招いたことが挙げられている。 | 編集活動が停止しゆゆうた・サウプロ騒動も沈静化する中で騒動の振り返りとして、他の意見を許さないような編集姿勢や余計な[[炎上依頼]]的記述を加える傾向があったことで批判も受けることとなる。最も大きな問題としては、11月にゆゆうたの実家が間違いであると報道されたが、Wikiでゆゆうたの実家特定を確定情報のように扱っていたのがこの人物であり、誤爆事件の深刻化を招いたことが挙げられている。 | ||
== 福山紘基との[[同一人物説]] == | == 福山紘基との[[同一人物説]] == | ||
{{See also|福山紘基#他教徒との同一人物説}} | {{See also|福山紘基#他教徒との同一人物説}} | ||
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自分一人で間違えていたならともかくwiki上で確定を宣言し、万が一の誤爆時の安全策であった中立表現を許さなかったという弊害は大きく、誤爆発覚後に責任を追求された。 | 自分一人で間違えていたならともかくwiki上で確定を宣言し、万が一の誤爆時の安全策であった中立表現を許さなかったという弊害は大きく、誤爆発覚後に責任を追求された。 | ||
== 教訓 == | == 教訓 == | ||
上記のOstrich師やwikiに加筆した厭戦派のように氏をやんわりと諭すものもいたが、彼はついに声を傾けることはなかった。彼は「戦犯」のひとりとも言える人物である一方、ゆゆうた騒動における失敗点の責任をリプシッツ構造に強い弁護士1人に被せるわけにもいかない。 | |||
ゆゆうた騒動当時の恒心教においては、[[面白い愛の戦士]]が語ったように、当時の教徒の状況を考えればゆゆうたと戦争状態になるのはどの道避けられなかったというほど主戦派が多数派であり<ref>宗教史的にも、数多の宗教団体が「本来戦うべき敵である異教徒よりも、同じ団体の中で少し意見が違うだけの異端を叩くこと」に熱を上げ、結果的に教団の団結力が一時的に上がったものの、最終的には不寛容を招いて先鋭化・弱体化してしまう事例は枚挙にいとまがない</ref>、穏健派・厭戦派は少なかった。厭戦派は騒動末期に急速に力をつけたものであり、それまでは教団内は常に主戦派一色であったし、厭戦派は問答無用で包皮民認定されていた。そのため結果的にこうした「暴走」をとがめる流れも起こらなかった<ref>事実、騒動期間中には、Wiki、カラケー共に「氏に制裁を加えるべき」という意見は見受けられなかった</ref>。こうした当時の教団内の空気感にも問題があったと言える。 | |||
無論こうした空気を作ってしまった事自体は教訓としなければならないが、これについても特定の誰かが悪いわけではない。彼の起こしたこれらの問題行動は、彼のみではなく恒心教徒全体の問題でもある。 | |||
== 註釈 == | == 註釈 == | ||
<references /> | <references /> |