「BC級戦犯60年目の証言と日本の戦争」の版間の差分

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>津島蓮生
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[連載]語り継ぐ戦争体験者の証言⑥<br>
BC級戦犯60年目の証言と日本の戦争<br>
河野 一英<br>
〈写真〉中央が河野一英さん。左は故森英一「隼」艇長の弟、森明久さん。戦艦「三笠」の士官室にて。<br>
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 東京・港区芝五丁目、国電田町駅の前、彼の事務所(彼はセンチュリー監査法人の元会長)を尋ねたのは九月十八日の昼であった。開口一番、彼は「俺は、今年は米寿だよ。君も元気だな」。彼と私は海軍各科予備学生第三期の同期である。館山砲術学校、基礎教程(昭和十八年十月一日~翌年一月三千日)は同じ区隊で、彼は学生長であった。<br>
                  (聞き手・小渾一彦)<br>
<br>
―お元気のようですね、河野さん。基礎教程まで同じで、その後は選ばれて特殊教程に移られ、任官されて最果てのアンダマンヘ。軍令、軍政、戦略との軋轢や、貧弱な日本の兵器・装備。補給が絶え餓死寸前の孤島、増える病兵、島民との亀裂、それらに起因するBC級戦犯問題などをお伺いします。<br>
 海軍予備学生とは、さきの大戦で、前線の指揮官が不足し、それを補うため、大学・高等専門学生を志願させ、半年余程度の短期教育の末、予備士官に任命し、前線に送り出した制度。術科は、砲術、陸戦、水雷、航海、対潜、工機、通信、教育、飛行整備などにわかれ、三期のうち千葉県の館山の砲術学校が最も多く、昭和十八年十月から十二月まで、兵科第三期予備学生教育を受けた同期生は一二〇六名でした。<br>
<br>
 では、兵科予備学生の制度からお話します。第一期の学生は二八〇名のうち二三〇名は帝大や国立大学の卒業生で、第二期は四〇〇名のうち三〇〇名が帝大か国立大学の卒業生で、これらは海軍省人事部好みで選んできましが、私ども兵予一二期になると、戦局がおかしくなって来たこともあり、私立大学の優秀な者も含め、三六〇〇名も選ぶようになったのです。<br>
 私たち一二期までは、予学の試験に合格して館山の砲術学校に入った途端、いきなり少尉候補生と兵曹長の間の身分(准少尉候補生)が与えられました。娑婆(軍隊のそとの社会)から、いっぺんに水兵や下士官の地位を飛び越え、士官服着用と短剣を吊すことが許されのです。さて、私たちは、基礎教程の一二ヶ月がおわり翌十九年一月になると、術科がわかれ、砲術、陸戦、航海、通僧などにわかれた。そのうち、私は優秀なトップーグループ(陸戦)の二〇名に選ばれ、「山岡部隊」という特殊部隊要貝になったのです。<br>
 予備学生と言えば、本誌の前号、第一二六号の「戦争体験者の証言」(硫黄島玉砕の真実)の大曲覚さんも予備学生の同期です。彼は飛行整備ですね(私も今年一二月十四日に硫黄島で日米共同慰霊祭があり、参加してきました)。「山岡部隊」(司令・山岡大二少佐)という特殊部隊ができた理由は、こういういきさっがありました。海軍の将校も入っていた「神兵隊事件」があったのです。この神兵隊という集まりが、海軍省に「イ号潜水艦を一〇隻用意しろ。アメリカ本土に、われわれ神兵隊が攻撃に行く」という上申書を出したのです。その結果、海軍は神兵隊の上申に刺激されたかどうか分かりませんが、特殊部隊を編成して、これをやろうと決めました。その特殊部隊に、私たち二〇名(陸戦)の予備学生が特別選抜されたわけです。だから私の場合、残った予備学生たちとは違い、特別の馴練を受け、任官も進級も早かったのです。終戦近くには大尉になっていました。<br>
■ 山岡部隊は特攻特殊部隊<br>
 山岡部隊はどういう部隊なのか、それを話しましょう。<br>
 大変な部隊でして、イ号潜水艦を八隻、それに五〇名ずつ特殊攻撃部隊を乗せまして、この四〇〇名でシャトルでB29を製作しているボーイング工場を占領して爆砕する。それと、ロスアンゼルスのロッキードの工場も攻撃し破壊するという任務を持っていたのでした。<br>
 しかし、前大戦中、日本軍が米本土で破壊活動を行った事実はない。「イ号潜水艦」は開職後すぐほとんどやられたからです。優れた米軍の音響探知機に捕捉されてしまったのです。<br>
 (注) イ号潜水艦とは、艦の排水量など性能によって、それぞれ伊号・呂号と区別されていた。伊号四百号型になると、水上排水量三五一二〇トン、全長一二二メートル、速力水上一九ノット(水中六・五ノット)、発射管八門搭載。これら四〇〇型潜水艦は潜水空母とよばれ飛行機を数台搭載していた。<br>
 だが、事実、私たちのように、この山岡部隊要員として編成され、訓練を受けた者たちが実在したのです。その名はS特(エスとく)。S特のSはサブマリン(潜水艦)の頭文字をとったものです。S特は、任務上、高度の機密保持を要求された。選抜基準も厳しかった。「当隊は生還を期せざる必死隊なり」と編成表に書かれていた。<br>
 しかし、戦況は、本土各地がB29の猛爆にさらされていた。米本土攻撃など行う実力は、日本軍にはなかった。だが、せっかく特別に編成したこの特殊部隊を使わないわけにはいかない。<br>
「イ号潜水艦」が駄目なので、次に考えたのは昭和二〇年七月末ごろ、一式陸攻六〇機を一二沢と北海道に持っていき、その六〇機に一五人ずつ特殊攻撃隊員を乗せるというもので、この九〇〇名、このうち海軍は山岡部隊の六〇〇名、陸軍が一二〇〇名がテニアンの飛行場に胴体着陸をして地上のB二九を破壊するというもの(陸軍の三〇〇名のなかに後の外務大臣・園田直が陸軍大尉として入っていた)。<br>
 (注) 一式陸攻とは、一式陸上攻撃機のことで、乗員七名、  最大時速四一二七キロ、二〇ミリ機関砲二門、七一七ミリ機銃四挺、二五〇キロ爆弾四個搭載。<br>
 「山岡部隊」の陸攻によるテニアン島攻撃計画はアメリカの機動部隊に発見されてしまい、一二沢と苫小牧に集結した一式陸攻六〇機のうち五四機が集中攻撃され破壊、たった六機が残った。不可能と断定され、「山岡部隊」の攻撃は以後中止になった。山岡司令から種々攻撃の意見具申があったが、採用されなかったようです。<br>
 また、私がアンダマンの司令部で無線通信傍受で知ったのですが、いわゆる「マリアナ沖海戦」です。日本軍が昭和十九年六月、マリアナ諸島の上陸作戦を支援する米機動部隊を攻撃する「ア号作戦」の大航空決戦の計画が実施されたが、出撃した日本軍約一二〇〇機が途中で待ち伏せされ大半をうしなったのです。かろうじて到達した日本側攻撃機は米軍機の投下した「熱センター」爆撃を浴びて全滅したようです。これによって、日本側は搭乗員一二五〇〇人を失ってしまったといわれています。開戦二年半、科学技術とそれを最産できる国力の差がはっきりあらわれ、惨敗したのです。学んだものは「プラグマティズム」です。哲学と科学を融合した合理的な思想はアングロサクソン流のグローバルスタンダードの理解に不可欠だと思います。<br>
■ 最果てのアンダマンに赴任<br>
 では、私の生い立ちから……。 私は、大正九年八月に朝鮮京城市で生まれ、一ヶ月後に広島県を経て東京の田園調布に移り、そこで成長しました。昭和十一二年に東京府立第一商業を卒莱、明治大学に入り、十八年九月繰り上げ卒業。同年十月海軍予備学生となって館山海軍砲術学校に入隊しました。四ヶ月の基礎教程を終わって翌十九年一二月、恩賜優等賞を受け卒業し、海軍少尉になり、そのさい特別攻撃隊要員に選ぱれたのです。<br>
 二〇名の私たち特別攻撃隊要貝(陸戦)はニケ月問も佐藤清忠少佐という猛烈教官によって、朝から晩まで叩かれ訓練をうけました。山岡部隊が編成されたのは昭和十九年一二月、私たち二〇名は陸戦班の少尉になり実戦の戦場へと任地が決まりそれぞれ出発しました。同期の小洋さんたちはその後、五月三十一日少尉任官したのです。<br>
 私はインド洋、アンダマンの第十二特別根拠地隊にいちおう赴任することになりました。「海軍兵学校の特殊部隊担当教官に採用する」という辞令が、昭和十九年十二月一日に来ました。しかし、根拠地隊司令部で先任参謀の副官という作職参謀みたいな仕事をさせられていたのです。司令部で放してくれないのです。こうして、私はついに終戦までインド洋にいました。<br>
 では、館砲(館山砲術学校)出発から司令部勤務になるまでをまとめます。<br>
 私は、戦況悪化のなかを海軍の輸送機で羽田、雁ノ巣、喜界島(不時着)、シンガポール、インド洋のカーニコバル島を経てアンダマン島・ポート・ブレアの第十二特別根拠地隊に着任しました。<br>
 ただちに都子林とジャングルに囲まれた北端にある北辺隊(十センチ砲二門)に配属になりました。驚いたことに隊員二〇〇名のうち、過半数はマラリアやアメーバ性赤痢になっていました。この病気に罹ると下痢は止まらない。この地は水が非常に悪く、飲めば死を意味し、そして、一度この病気に罹ると、たやすくは治らない。<br>
 だが、私の北辺隊配属は、すぐ司令部勤務になり、先任参謀・島崎繁一大佐付副官として迎えられました。早朝から深夜まで二十四時間執務。仕事は作戦、訓練、実戦指導と、インド洋の英軍基地特殊攻撃が主任務。<br>
 第十二特別根拠地隊は、ニコバルの第十四警備隊、ナンコウリの第十五警備隊を傘下に持っていた。ビルマからスマトラまでの問の二五〇〇キロです。要するに北海道から台湾まで担当していたのです。司令官や先任参謀はおりますが、作戦担当で各地に出かけるのは私でした。「特攻部隊」のほうは、兵学校教官赴任が不能で、インド洋に最後までいたわけです。<br>
 アンダマンは、もともとはビルマ領でした。ビルマ人はチベット族で山岳民族です。それがインドによって占領されたのです。この島は、北アンダマン島、中アンダマン島、南アンダマン島という一二つの島が、細い川みたいな海峡でつながって、大きさはおよそ日本の九州や四国くらいです。これをペチャンコにして長さを約五〇〇キロに伸ばした格好がアンダマンです。そのビルマ側に大ココ島といラ少し離れた島があります。この島には同期の寺前章少尉(京都大学卒、第一二期予備学生・横須賀通信学校電測班)が電探隊長として派遣されていました。<br>
 ポート・ブレアにはインドの政治犯を収容する刑務所がありました。大きな赤レンガ建て、八本のタコの足が伸びたような長い星型の大きな建物が、港に近い丘の上に建っていました。刑務所の周りに、警察官、刑務所の役人、囚人の子孫たちが、アンダマンに住む人たちの祖先になっていました。さらに、二〇〇キロくらい南下したところにカーニコバル島がありました。<br>
 カーニコバル島は、コーヒーの皿のような平たい島で、ここに日本軍は十文字に二〇〇〇メートルの飛行場を作りました。何のために作ったかと言いますと、航空研究所で作った航研機(当時の青少年を沸かした長距離飛行の単発大型機)を二機持ってきて、ここからドイツに無着陸飛行をさせようとしました。乗っていたのは有名な塚越操縦士ともう一人の機関士だったが出発後に行方不明になってしまったのです。滑走路が二〇〇〇メートルないと、石油を満タンにして離陸ができないのです。さらに、スマトラに近付きますと、ナンコーリ島があり、ここに海軍第十五警備隊がいました。この島は海賊島と言われ、現在でもインド洋の海賊がいるそうです。<br>
 これらの島々が、アンダマンのポート・ブレアを中心に、北端の電探基地・大ココ島までを包括した、海軍・陸軍のラバウルみたいな基地が第十二特別根拠地隊なのです。私は担当である大ココ島に四回、スチュワード・サンドにも四回、その他の島々も何回か巡回しました。<br>
 私がアンダマンに着任してから二ケ月くらい経った頃、後発の少尉たち一二十名が、それぞれに、いろいろな赴任コースを採ってこの第十二特別根拠地隊に着任して来ました。ほとんどが陸曹隊要員でした。しかし、小滞少尉のみが水警隊の分隊士に選ぱれました。ほとんどが海で活躍したい連中だったから羨望の的だったね。同君はまず高速哨戒艇の「隼」の艇長になった。ついで、シンガポールから新造船二隻の回航指揮官を命ぜられて、これも任務を達成した。いってみれば一二期予備学生で一番活躍した士官かもしれない。<br>
 だが、不幸なことがあった。小渫少尉がマラッカ海峡やペナン、インド洋で苦労の航海をやっているとき、君の後任「隼」艇長になった森英一少尉(東農大卒、同期)が翌二十年二月、大ココ島スチァートの近くで英軍機四機と交戦、戦死した。<br>
 小渫、お前はまったくついていた男だよ。<br>
■ 運命を握る軍令承行令<br>
 アンダマン海軍部隊の編制(終戦時)は次のようでした。<br>
 海軍司令部に司令官・原鼎三中将、先任参謀・島崎繁一大佐、次席参謀・高野正好海軍少佐(機関学校出身)、軍医長・福田医中佐、主計長・内田主少佐。陸警に司、中岡、神山、白浜、峯浦、港、小島、北辺隊。防空部隊に空守、天守、中空の諸隊。水上部隊に水曹隊。付属部隊に機関隊、工作隊、通信隊、特務班。民政部に城地良之助司政官。これに作戦上、ニコバル島の戦略価値が増大するにともなって、海軍第十四警備隊(上田光治大佐)があった。この方面の陸軍部隊は独立混成第一二五旅団・アンダマン(兵団長・佐藤少将、参謀田沢中佐)、独立混成第一二六旅団・ニコバル(兵団長・斎少将、参謀斉藤少佐)、独立混成第三七旅団・ナンコウリ(兵団長・皆伝大佐)で、大半は関東地方出身の近衛師団の人たちだった。<br>
 英国の支配下時代には政治犯や凶悪犯を収容する流刑島であり、インド人住民の多くは囚人とその末裔でした。農耕による生産活動は乏しく、食糧は近隣のビルマやインドから運ばれていたのです。英軍の海上封鎖が強まるにつれて兵粗攻め、スパイ・ゲリラの送り込みも激しくなった。<br>
 軍政方針で自給自足を促進して農耕指導を行っても、配給になれてしまった島民には受け入れられず、敵軍の来襲を避けての「部落民移動」も理解されなかった。<br>
 戦争の末期、アンダマン島にいたインド人六〇〇名ほどを、陸海軍が別けて一二〇〇名ずつ隔離するすることになったのです。海軍は実施する二日前まで、そのインド人をアンダマン島の東側にある、ヘプロック島という無人島に移送する指揮官に私と末吉(予備学同期の一二期)と決っていました。この島民隔離の移送が、後にいう「ヘプロック事件」なのです。<br>
 ところが、ここで問題が起きたのです。海軍には「軍令承行令」というものがあって、海軍兵学校出身者は下位の少尉にいたるまで、他の全ての将校より優先する指揮権規定があったのです(昭和十九年半ばで海軍機関学校出身者もこれに加わる)。これが軍の中の天皇制です。アンダマンには前にお話ししたように、兵学校出の司令官と先任参謀がおられ、その下で私が中尉で作戦の補助業務をやっていたのです。<br>
 その移送作戦の二日前、司令官の原中将から呼ぱれ、こういわれました。<br>
 「高野参謀から、この作戦は対象が原住民だ。イギリス、アメリカ兵ではない。だから作戦ではない。情報・補給である。したがって、高野参謀がこの移送を所管したいと、こういってきたが、どうする」「参謀のおっしゃるとおりだと思います」と答えました。即日、私たち河野と末吉は移送指揮官を解任され、これに代わって水警隊の特務士官であった谷岡義照中尉、鶴田壮市少尉が、ヘブロック島への移送指揮官になった。<br>
 そして実施した結果が、昭和二十一年、シンガポールのチヤンギー刑務所で谷岡中尉ほかの絞首刑です。軍令承行令がなかったら、私や末吉は、この世にいません。<br>
 そうだ、小澤さん。貴方だって、この事件にかかわる可能性があったのですよ。この時の移送に使った大型舟艇は、小澤少尉がシンガポールから二隻運んだあの新造船なのですからね。収容容積が大きかったから住民移送に適しており、君がマラリヤにならず、そのまま水警隊に残ってたとすれぱ、艇の航行や指揮にはなれているし、君は水警隊の先任士官だったこともあり、この移送指揮官に当然なって少しもおかしくもない。チャンギーの道へ歩いていたかもね。とにかく運というものは分からないものだよ。<br>
■ 原田中尉と柳本中尉の憤死<br>
 スチュワードーサンド戦犯裁判事件について、私たち予備学生出身の同期の原田国市中尉(法政大学卒・三期予備学・陸戦班)と柳本清一中尉(慶応大学卒・三期予備学・対潜学校衛所斑)の憤死があるんだよ。小澤君も良く知っている人たちだ。君の書いた「インド洋職記」や「実録・あるBC級職犯たち」「アンダマン・ニコバル島の悲劇」などに出てきていたね。また、同期の末吉博(中央大学卒、一二期予備学・対空班)の「アンダマンの終戦記」にも書いてあるので、まとめて簡約してみよう。<br>
  〈判決〉事実要旨「一九四五年八月上旬、「中アタマン島」ニ於テ其ノ頃同島警備ノ任ニアリタル被告人等ハ。所属海軍部隊所有ノポート並ビニ糧食ヲ窃取シ「ラングーン」ニ向テ逃走セント企テタル「ビルマ人」九名ヲ逮捕シ、同人等二対シ正当ナル法律手続二依ラズシテ殺シタルモノナリ」(適条・陸戦法規第四六条違反)<br>
 昭和二十年八月上旬、中アンダマン島のビルマ人九名はビルマ本国へ逃亡を企て、海軍の舟艇と糧食を窃取し、逃亡中、スチュワードーサンドの海軍分遣隊に捕まった。隊長の原田中尉はその処置を第十二特別根拠地隊司令部に報告し、指示を乞うた。同司令部においては、原司令官が軍法会議を招集した。原司令官自身が軍法会議の審判長として判事を兼ね、先任参謀・島崎大佐を判事に、特務班長・豊島大尉を検事に命じた。こういう経過です。当時は敗戦間近かで、シンガポールの第十方面艦隊司令部より法務官を呼ぶことは不可能だし、犯人たちをアンダマン島へ護送することも不可能だったので法務官不在の裁判が行われた。日本軍は十七年一二月下旬、アンダマン上陸占領と同時に、日本軍の配置防備の秘密保持上から次のような軍布告を公示していた。<br>
 「アンダマン島より逃走又は逃走を企てんとしたる者は厳罰に処す」という布告を繰り返し公示し、喚起していた。<br>
 戦犯裁判で、英国側においても、この事件に関しては処罰する正当な根拠がなかった。しかし、起訴した以上、犠牲者を作るのが彼らの目的であったのであろうか、「原田、柳本らの三名には前述主文のように犯人を銃殺によらず日本刀をもって切る斬首処分したことは人道に反するもので、しかも被告三名は各きの日本刀の切れ味を試し、戦後日本に帰った際は戦功の自慢の種にせんと企てたものであるから」という理由で一二名とも絞首刑が宣告されたのである。<br>
 日本の軍法会譲の法規には犯人死刑執行には、『死刑は銃殺とす。但し、その他方法により死刑を執行することを得』とあり、日本刀をもって為すも何らの違法とするところではなかったのである。逃亡ビルマ人九名の欠席裁判の判決は、高野参謀より原田中尉たちの隊に無電で「逃亡ビルマ人九名処刑せよ」との命令が届いた。そこで、原田、柳本両中尉らは、司令部の命令どおり九名の逃亡ビルマ人たちを各自の軍刀や銃で処刑した。<br>
 原田たちは「司令官の命令どおり逃亡の九名を処刑」したのである。上官の命令は天皇陛下の命令である。したがって、天皇はどこにもいた。命令は天皇に帰一し、すべてが天皇のなかに一元化された。そういったメカニズムの中で、上級者の命令は絶対性が形成されていったのです。つまり絶対服従である。人間の首は切れない、が通らない。<br>
 かつて見た映画「私は貝になりたい」で、フランキー堺が扮する善良な初年兵が捕虜の刺突を命ぜられ、戦犯になっていくシーンを見たが。私は忘れられない。<br>
■ 田中師が引きつけられた木村久夫の歌<br>
―原田とは、呉の軍港から戦艦「大和」に乗り、シンガ  ポールから苦労してアンダマンに赴任した仲です。また、原田も柳本も、彼らの赴任航海は、私がそのころ水警隊にいたので、艇指揮をして送ったものです。<br>
 最後に、もう一つのBc級戦犯、木村久夫のことについて、お願いします。<br>
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 木村久夫さんは、岩波文庫の「きけ わだつみのこえ」に載っていたあの方ですね。今年の八月十五日に売り出された田原総一朗監修の「日本の戦争・BC級戦犯、六十年目の遺書」(アスコム)を読んだのですよ。東京の池上本門寺貫主、日蓮宗管長の田中日淳さんが、シンガポール・チャンギー刑務所で処刑される日本軍人の教誨師だったとき、受刑者たちが故郷に残した父や母、そして家族や友人たちに書かれた遺書を持ち出して毎晩ねずに筆写し続け、それを持ち帰った。この九十二歳の高齢な田中さんから貴重な証言を田原総一朗さんは聞かされたのです。<br>
 田中日淳師は、一九一四年生まれ、立正大学仏教科を卒業、徴兵で入隊、四五年、シンガポールの陸軍第一二航空軍司令部で終戦、四六年十二月から四七年八月までチャンギー刑務所で日本人BC級戦犯の教誨師を務めた。師は八八年に日蓮宗大本山池上本門寺貰主、管長になられた方です。<br>
 私は、シンガポール・チャンギー殉難者、アンダマン海軍部隊を含む慰霊祭を毎年四月第二日曜日に、世話人会長を海軍の同期の豊田猛(明大卒、第二期予備学生、横須賀海軍砲術学校対空班、第十二特根)さんと二人でくみ、池上本門寺で田中日淳師を中心に開いています。田中日淳師の「BC級戦犯、六十年目の遺書」では、ぐっと来るものがあります。運命が確実に田中氏をチャンギーの刑務所にいた、木村久夫上等兵に引き寄せられたのですよ。京都大学出のBC級戦犯だった彼が作っていた壁新聞「東京ニュース」が田中氏を捉えたのですから。<br>
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  眼を閉じて母を偲べば幼な日の<br>
       耐し面影消ゆる時なし<br>
  友のゆく読経の声をききながら<br>
       われのゆく日を指折りて待つ<br>
  朝かゆをすすりつつ思う故郷の<br>
       父よ嘆くな母よ肝せよ<br>
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 師は、この歌を読んで。衝撃を受けたという。彼の詠んだ短歌はすべて今でも覚えていると述べられています。<br>
 「死刑囚がいる、すぐ側に十三階段があるんですよ。死刑囚がいるPホールの隣に、死刑囚が十一二階段を登って処刑されていく、その音が一部始終、全部聞こえてくるんです、監獄にね。そんな音を聞きながら自分の番を待っているんだという、そういう心境なんですよ。わたしは、この歌がこころに沁みこんで抜け切れないんです。そういうことがずっと気持ちのなかに沈みこんでしまって、木村久夫さんの名前が心から消えなくなってしまった。……木村さんだけではない、他にもたくさんいたんだ。名も知られないままの人だってたくさんいた。死刑囚房のなかに入って、そういう人たちの顔が今でもひとりひとり浮かんできますけどね。……一人の二十八歳の上等兵が、日本の戦争責任を背負って処刑されないといけないなんて、こんな残酷なことがありますか。」<br>
 と、老師は証言されていました。<br>
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(編集部・注)〈英領地区の戦争裁判〉<br>
 シンガポール、マレー(ジョホール、クアラルンプール、タイピン、アロールスター、ペナン)、英領北ボルネオ、ビルマ、香港の英領および濠州(オーストラリア)の戦犯法廷において行われた。ただし、濠州法廷は、これらと別にシンガポールと香港のみに開廷された。被告のなかには、軍属がふくまれる。このうち、俘虜監視員であった日本人にさせられた韓国人に、死刑十、終身刑十二、有期刑三十九、計六十一名。また、通訳および商社社員であったが、日本人にさせられた台湾人に、死刑四、終身刑一、有期刑十三、計十八名をだしている。<br>
 敗職、昭和二十年九月六日、最初の戦犯容疑者がシンガポール、オートラム刑務所に収容されていらい、タイ国ハンコック刑務所、オートラム刑務所、アンダマンのロス島収容所をはじめスマトラ、サイゴン、ジャワ、巣鴨などの刑務所とか収容所に収容されていた容疑者は、つぎつぎと、シンガポール島チャンギー刑務所に集められた。その数は七千二百名に達した。壕州関係を除くシンガポール地区での起訴事由の大略はつぎのとおり。<br>
● 昭南憲兵隊、ボルネオ憲兵隊、サイゴン憲兵隊、タイ国憲兵隊=反日、抗日・通敵の原住民や抑留の敵性人、スパイなどの検挙取調べ中の虐待、拷問とその結果による傷害致死、反日暴動鎮圧封鎖のために軍命令による粛正工作、搭乗員処刑(サイゴン)<br>
● 昭南警備隊、近衛師団=昭南粛正<br>
● 昭南軍政監、とくに政庁警察、第七方面軍特務機関、海軍第十特別根拠地隊、潮機関―原住民の検挙取調べ、拷問、スパイ処刑<br>
● 昭南軍刑務所、マライ軍抑留所、タイ軍第十八軍拘禁所=敵性抑留者、受刑者の管理と取扱の不当と虐待および、それにもとづく傷害と死亡など<br>
● タイ、マレー、パレンバン、ジャワ、仏印などの俘慮収容所I俘慮の居住、休餐、衛生などの管理不当、病人俘慮、将校俘慮に対する作莱強制、俘慮の輸送および行軍間の取扱、個人的な殴打、暴行、虐待、俘慮スパイの調査での傷害、死亡、逃亡俘慮の処刑、タイ俘慮収容所とマレー俘慮収容所は泰緬鉄道関係<br>
● スマトラ近衛師団歩兵部隊-スパイ俘慮の処刑<br>
● 鉄道隊および配属工兵隊(棄緬線)、タイ国独立工兵隊など=俘慮使用上の取扱不当、作業強制など<br>
● サイゴン陸軍病院、ジャワ方面軍司令部、航空隊第十方面歓待、セレター’第十特別根拠地隊、仏印海軍など=搭乗員の処刑<br>
● アンダマン諸鳥の諸部隊など=俘慮処刑一件を除き、すべて島民に対するもの。窃盗、その他、犯行者、通敵容疑者、逃亡企図者の取調べや処罰、処刑、浮浪者、強制移住での殺人、拷問など。シンガポール初期の裁判で、原住民の証言でより犠牲者が特に多かった。<br>
● アンボン陸警ドポ、第四二六連隊=搭乗員処刑<br>
● ナウル海軍部隊=原住民に対する虐待など
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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