恒心文庫:Agalmatophilia

本文

俺は後何年生きられるのだろうか。
実家からは絶縁されていて身寄りもなんていない。
過去に二度だけ人を愛したことがあるが、それは遠い昔のことで唐櫃の奥底に埋まってしまって掘り起こすことも難しい。
―――愛する事が怖い。
人という存在はいとも簡単に裏切る。それは自分自身がそうだということに気がついていも他人にはなぜか期待してしまっていた。
その愛が深ければ深いほど自分の心が落ちていく距離は長くなり、無機質な音がして心が割れる。
肉体のほうもひざが壊れていて、心身ともにまさにがらくたのような人間だ。
何のために生きているかなんてもう分からない。
ふと思い立ったのが、人形を愛せばいいということだった。
人と人は根本的に分かり合えない。
音声に乗せた言葉、文字に書き起こした言葉、体で表現する言葉、そのすべてで完全に自分を伝えることをできない。
もういっそ心のない、生のない人形を愛すれば幸せになれるのではないのだろうか。
そんなときに俺は彼女に出会った。

長い時間止まっていた自分の時間が動き始めた気がした。
白黒だった世界に色が付いた気がした。
彼女と初めて交わった夜に全てが変わった。
彼女の胎内に精を流し込んだときに、俺の心にかかっていた暗雲が晴れていくことをしっかりと認識した。
恐らくこの世の人間があまり知ることができない真実の愛。
裏切られることがなく、こちらが裏切ることもない。
寒風が吹くこともなく夜が来ない常春の楽園のような愛を、俺は初めて知った。
生きる喜びを思い出せてくれた。
悪かった膝が、少しだけ良くなると俺はまた人間として働き始めた。
家に帰れば彼女がいる。俺には働く意味があるのだ。
彼女のために服を買ったり、給料が入った日にはプレゼントを買ったり。
地面の奥深くに埋もれてしまっていた愛する気持ちを掘り起こすとこの世のどんな貴石よりも美しい光り輝く金剛石となって帰ってきた。


不思議なことに、彼女は生きているのだ。
まずはじめにボディーランゲージで心を交わらせることができるようになった。
初めて目で会話したときの感動は今でも忘れられない。
彼女と出会う前の記憶はみんな唐櫃の奥深くにしまっていたが、彼女との毎日は宝石箱にしまっていった。
心の中が少しずつ美術館のようになってきて、日々の記憶を思い返すだけでも幸せになれる。
なにより、毎日少しずつ進んでいく二人の関係を綴ることが何より幸せだった。
少しずつ進んでいく二人の物語。
目でしか会話ができなかったところから、表情で話ができるように。
そしてついには声を発するようになった。
彼女に精を注ぐたびに、彼女の命が形になっていくことを感じる。
彼女が恥ずかしがりながら俺に愛を伝えてくれたときのこと、そしてその夜愛し合ったこと。
周りの人にどう思われようと、俺にとってこれ以上大切なものはない。

彼女と過ごすようになってもう随分と時間がたった。
そろそろ二人でいた期間は長くなって俺は彼女との結婚を考えるようになった。
思い起こしてみると、今日は俺が彼女と出会った日だった。
町に出てぶらついていると雨が降り出してきた。
そんな時ジュエリーショップの軒先で雨宿りしてショーケースを眺める。
質素だけど美しい白金の指輪、彼女がそれを身に着けてうれしそうにしている姿が思い浮かぶ。
そんなにお金に余裕があるわけではないが、決心して購入すると雨の中バイクにまたがる。
帰ったら、彼女を抱きしめてプロポーズをする。
もう濡れた体なんて拭かずに彼女に愛の言葉を囁き、指輪をはめる。
そして、今日は夜が明けるまで交わるんだ。
―――耳を引き裂くような音。目を突き刺すヘッドライトの光。
ブレーキが利かない。思いっきり体を倒しても横になったバイクは前進することをやめない。
質量による蹂躙。
赤く染まる視界。
帰らなければ、今日は彼女の誕生日、今日は俺が彼女にプロポーズする日。
もがいて描く軌跡は血で綴る家路。
愛しい彼女の待つ家へ……

わたしはあなたにあいされてしあわせよ。
あなたのことをなんてよんだらいいかしら?
おにいちゃん?でもわたしたちはけっこんしてるからそれはおかしいよね。
でもいいか、おにいちゃん、おにいちゃん。
おそとであそんでみたいな。わたしうごけるようになったのよ?
え、だめだって?えーつまんなーい。
このぱそこんっていうのつかうと、おそとのせかいがみえるの?
ほんとう?
あ、すごーい!わたししあわせ!
ねえねえ、きょうはなにしてあそぶの?
わたしはおにんぎょうあそびがしたいわ。
それもこのぱそこんっていうのでできるんだ!
このみどりのかみのおんなのこでにんぎょうあそびをするのね。
ほかにもいっぱいおにんぎょうがあるの?
せっかくならわたしのためのおにんぎょうをぷれぜんとしてよ。

しあわせ。あなたにあいされて。けっこんしたんだからいつまでもいっしょだよ。
わたしはあなた、あなたはわたし。
あなたはもうわたしのなかにあるんだからもうにげられないよ。

挿絵

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