恒心文庫:酷評作品/厚志と貴洋

本文

川の辺に花束を手向け、手を合わせる。
弟の無念に思いを馳せ、安らかにと祈る。
夕日が揺れる多摩川は、あの日の様に穏やかだった。
弟はここで悪い者たちに集団暴行を受け、独りで悩み、苦しみ、自ら命を絶った。
おとなしく、丁寧で、礼儀正しく、自分が傷付いてもそれを打ち明けず、一人で抱え込んでしまう、そんな弟だった。
らしい。
「そろそろ行くぞ貴洋。」
「●はい。」
らしい、というのも当職は弟と過ごした日々をほとんど覚えていない。父に尋ねても「優しい子だった」とだけ話し、それ以上訊くと決まって、不機嫌そうに白いもみあげを弄り、はぐらかしてしまう。
きっと、弟をむざむざと死なせてしまった事に責任を感じているのだろう。当職が覚えているのは、弟の顔と、この夕焼け空の多摩川だけだ。
駅を出るとすっかり夜だった。父と別れた当職は、弟の分まで精一杯生き、悪い者を裁き、父の悔恨を晴らす事を改めて決心し、タクシーで帰路についた。河川敷を歩いた疲れもあってか、その日はロリドルを観るのも忘れ、ソファで眠ってしまった。
水の音がする、顔全体に息を飲むような冷たさを感じる、慌てて目を開けると辺りは川の底、水面からは夕陽が射し込んでいた。
驚き、咄嗟に顔を上げると、すぐさま何者かに髪を掴まれ水中に押し戻された。必死にもがくが、相手の膂力は凄まじくビクともしない、このままでは死ぬ、抵抗する術は無い、苦しい、息が続かない、あまりの恐怖に僕は絶叫し、失禁した。
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! )」
それにたじろいだのか、途端に頭上からの圧迫は止み、僕は顔を上げる事が出来た。水を吐き、嗚咽混じりに息を吸い、吐く、ひとまず、ひとまずは助かったのだ。
しかし、その微かな希望は一瞬で絶望に変わった。揺れる水面に映った僕の顔、

紛れもなく、厚志であった。

「汚ねえヤツだなあクソッタレ!くっ付いたらどーすんだよボケが!」
呆気に取られた僕の脇腹を鋭い蹴りが抉る、横隔膜が潰れる猛烈な痛みに声なき声を上げ転げ回る。
「勉強も運動もできてハンサムなお前でもクソを漏らすんだな、ははは!」
「やり過ぎるなよ小番くん、ホントに死んじゃうぞ。」
「だいじょぶスよ和田さん、そんなやすやすと死なせまんって。」
夕焼け、川、集団暴行、僕は、厚志は、この時、この場所で、こいつらにやられたのか。
「運動も勉強もそこそこしかできん俺達をクソだと思ってるんだろ、な?調子付いてっと殺すぞ!」
小番が、もたげた僕の頭目掛けボールの様に顎を蹴り抜く、目の前に火花が散り、グラリと世界が揺れた。歯が口の中で転がり、首は曲がったまま動かない。
「僕達のプライドを打ち砕いておきながら、慇懃に接してくれる貴方が、僕は大嫌いでしたよ!」
仰向けで悶える僕に、和田が馬乗りになり、手近に掴み取った石で、べらぼうに顔を殴り付けた。ガッ、ガッ、ガッ、バキッ、パキッ、ズチャッ、ズチャッ。殴られるたび思考が掻き乱され、痛みは温かさに変わった。もう、何も考えられない。
「何か言ったらどうなんですか?頭が滅茶苦茶で、もう喋れませんか?」
「うわっ!何か見えてるしブクブク言ってて気持ちわりいスね!」
「もうマトモに歩けないし、マトモに考える事もままならない、当然の報いさ。」
「和田さん、もう飽きてきたし、仕上げしちゃいましょうよ、もう俺、待ちきれないスよ。」
「よし、手伝ってくれ。」
真赤に染まった視界に、一瞬白くきらめくものを捉えた、あれは、ナイフだろうか。
「これで君は全てのプライドを失います、おしまいですね、貴洋くん。」

貴洋?

次の瞬間、意識を劈く様な痛みを股間に感じた。どうやらアレを切り取られたらしい。
「うげえええ!すげえ血!どうするんですかソレ!」
「こんま粗末な芋虫は魚のエサさ、見てろ!」
僕の当職のモノが弧を描き、川に投げ込まれるのが見えた、どういう事だ僕は当職は厚志ではないのか厚志は誰なのか存在しないのか貴洋が厚志なのか父は知っていて話さなかったのかだから花を川に向かい手向けたのかいや、そんな事今はどうでもいい、まだ、まだ間に合う、まだ元に戻せる。アレを取り戻すため川岸に這い寄り、身を乗り出した。血が滴る赤い水面に自分が映る。
髪は捲くし上げられ、顔は腫れ上がり、眼は虚ろ、首が横に曲がり、潰れた肺からは無能の吐息、切り取られた愚息。

紛れもなく、当職であった。
いつも通り始業準備を終えた事務所に、いつも通りではない男が飛び込んできた。
「おお貴洋!今日はやけに早いじゃないか、普段は重役出勤を満喫しておるのに。ただ、なんだ、服装はもう少し整えた方が良いぞ。」
「洋、質問があるナリ。」
「な、なんだ貴洋!親を名前で呼び捨ておって!」
「厚志はどこナリ。」
「おっ、おお何だ、まーた厚志の事か、いつも言っとるだろう、弟はいつもお前の中におると。」
「嘘ナリ、厚志はいるナリ。」
「貴洋?」
「当職は僕は優秀な当職の弟の厚志ナリ。無能で、悪い者に壊された貴洋なんかじゃないナリ。」
「た、貴洋…違う、よく聞け、お前は厚志じゃない、貴洋だ!」
「当職は悪い者に当職の厚志の僕を返して貰いに行くナリ。」
「待て、待つんじゃ!貴洋!」
洋は机から注射器を引っ張り出すとスーツの男の首筋目掛け突き立てた、刹那、注射器は粉々に砕かれ、洋の顔面に内容液が飛散した。
「麻酔ナリか、どっちにしても当職には効かないナリ。」
「貴洋、厚志、待て、待ってくれ…。」
洋は朦朧とする意識の中で貴洋と厚志の混ざった様な声を聞いた。
「洋、今までありがとうナリ、でも、お別れナリよ。」
スキンヘッドの男が、サンドバックに鋭敏にジャブを繰り出した。およそ法科大学院生という肩書きが思いつかない様な早業である。
不意にパンチの音を掻き消す音量で、ジム内に拍手が鳴り響いた。
「いやはや実にいいパンチナリ、しかし、これは、なに、実にいい準備運動ですなあ。」
入り口に立っていたのはスーツ姿の男性だった、しかし、ネクタイは曲がり、靴は便所サンダル、ひどくマヌケな声質と、まともな人間には見えなかった。
「はあ?なんなんスか、いきなり来といて失礼な事…怪我するから帰った方が良いスよ。」
「いやはやこれは失礼、実は当職はいくつか、失礼ながらお願い事がありまして。」
叩きのめして放り出そうかと思ったが、面倒事も厄介なので、それでコイツが出て行ってくれるならと用件を聞く事にした。
「良いスよ、聞いたらとっとと出てって下さいね。」
「当職は当職の弟を探しているナリ、知りませんか。」
「ええ、ウチでは見てませんよ。どっかではぐれたんスか?」
「多摩川で。」
驚愕し振り返るとスーツの男は同じ姿勢のまま、表情一つ変えずこちらに近付いていた。
「小番くん、お答えください。当職の弟を知らないナリか?」
思い出した、コイツはあの時のアイツだ、何故ここにいる、何も出来なくなるまで壊したハズだ。
「し、しらな」
狼狽えるあまり一瞬眼を逸らした内にスーツの男は眼の前まで近付いていた。小番は思わず悲鳴を上げ仰け反った。
「た、助け」
「それなら直接訊くナリ。」
言うが早いか、逃げようと駆け出した小番の頭を鷲掴むと、親指を眼孔から上部にねじ込み掻き回した。小番は絶叫し死に物狂いでのたうちまわったが、すぐに収束し、脳を弄られるたび嬌声を漏らすだけとなった。
スーツの男が脳を捏ねくりながら尋ねる。
「当職の弟はどこナリ。」
「ゴボゴボ、ししら、ない。」
「参ったなあ、本当に知らないナリか。それじゃ、和田くんの場所を教えるナリ。」
「港区と虎ノ門の、べ弁護士事務所。」
「いい子ナリ、今から君の家に行って、君の奥さんも、君と同んなじにしてあげるナリ、そしたら一緒に和田くんのところへ行って、多摩川でした事と同じ事を和田くんにするナリ、そしたらきっと、当職の弟のこと、思い出してくれるナリ。」
そんな事を言いながら、スーツの男は小番と手を繋ぎジムを出た。
東京都港区虎ノ門で8月13日午前、弁護士の男性が局部(性器)を切り取られる事件が起きました。

この事件で警視庁は、東京都中野区上高田に住む大学院生・小番一騎容疑者(24)を傷害容疑で逮捕。小番一騎=こつがい いっき

発表によると小番一騎容疑者は8月13日午前7時40分ころ、港区虎ノ門にある弁護士事務所で、男性弁護士(42)の顔面を複数回殴った上、男性の意識がもうろうとしたところでズボンを脱がし、刃渡り約6cmの枝切りばさみを使って男性器を切断した疑いが持たれています。

(小番くん…一体、なぜこんな…僕達は共通の敵を打ち倒した、掛け替えの無い仲間だったじゃなかったのか…。)
ガチャッ
「あっ…先生、先程の再生手術について質問が…」

「その前に当職から質問ナリ。」

(終)

この作品について

題名よりATSHUSIの墓誌間違いをネタにした作品かと期待した読者が多かったが、全く関係がなかったための落胆の声が感想に寄せられた。
また前半のATSUSHIの部分と後半の弁護士局部切断事件を題材にした部分との関連が不明な点も酷評の原因である。

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