恒心文庫:うつろい/象牙の塔の瓦解

本文

▼1

「胸のシリコンが痛むナリ」
 Kが言ったので、ズボンを履きながら彼の方へ目をやった。
 Kは生まれたての赤子のように、全裸で横たわっていた。
 カーテンのすき間からさしこむ夕陽が、その裸体をベッドの上に赤く染めて浮かび上がらせていた。
 まだ潤んでいる瞳、涎まみれになった唇、寝転んでいてもぽっこりと出ている腹、うっすら生えた陰毛と縮んだペニス。
 Kは僕と目が合うと、「とっても、とっても痛むナリ」と繰り返した。
「豊胸手術がうまくいかなかったのかな。医者に行った方がいいかもしれないね」
「ちがう」
 Kは首を横にふった。
「そういう痛みではないナリ。ちくちく、ちくちくと痛む感じナリ」
「鎮痛剤を飲んで少し休めば、きっと落ち着くさ」
僕はYシャツのボタンを留めながら言う。
「まだチェック・アウトまでは時間がある。一眠りしたらどうだい」
 Kはこたえず、乳房に手を当てたまま天井を見つめている。
 僕は洗面所でネクタイをしめ、乱れた髪をくしで整える。
「もう、行っちゃうナリか」
 かすれたKの声がする。行為の最中は僕の一部を痛いほどぴんと張り詰めさせた声。今では耳障りで仕方ない声。
「しょうがないだろ。Hさんに頼まれた事務所の仕事はまだ残っているんだ、今日中に済ませないと」
 三文ドラマのセリフみたいだ。仕事にかかりきりな男と、それをなじる女。
 ひとつ違うのは、どちらも男ということくらいか。 
「ねえ、Y君」
 ドアに手をかけたとき、Kの声が飛んできた。
「なに」
 僕は振りかえらずにこたえる。
「クリスマス、どうしてもダメナリか。Hのコネでよい景色のレストランを予約できるナリが……」
「すまない。埋め合わせは必ずするから」
 返答は、ない。
 遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
 サイレンがやがて聞こえなくなってしまった頃、Kが小さく言う。 
「当職のこと、愛してる?」
 自覚するほどに間を空けてしまってから、僕はこたえる。
「当たり前だ」
「ちゃんと言ってほしいナリ」
「……愛してるよ、K」
 ふふっと小さな笑い声。
「当職もナ――」
 その言葉を最後まで聞き届ける前に僕は部屋を出た。
▼2

 Hに頼まれていた仕事はちょっとした書類の作成だったので、さほど時間もかからずに終えることができた。
 この程度のことなら、Kにだってできるだろうに、どうして僕に押し付けるんだ。
 大きく伸びをしたとき、事務所のドアが開く。
「Y君、調子はどうだい」
 振り向いた僕に、白いもみあげの男が取って付けたような笑みを浮かべて言う。
「ちょうど終わったところですよ」
「そうか、助かった。きみは本当に有能だ」
 Hは言うと、僕の肩を軽くぽんぽんと叩く。親しさを確認するように。共有しようとするように。
 汚らわしい!
 そう怒鳴って振り払いたいのを我慢して、僕は表情筋を操作して笑顔を作る。
「君のような有能が入ってきてくれて大助かりだよ……どうだい、コーヒーでも一緒に。いい豆をもらっていてね」
「いただきましょう」
 そうこないとな。Hは相変わらずバカげた笑みをくっつけたまま言うと、事務員にコーヒーを淹れるよう指示を出す。
 薄い笑み、ぺりぺりと音を立てて剥がれ落ちそうな笑み。できるものなら引きはがしてやりたいもんだ。
 黒い感情を胸の中ですり潰して、僕はソファに座る。
「Y君はこんなに頑張っているというのに、まったくうちの息子はどこをほっつき歩いているんだか」
「さあ……また映画でも観に行ったのかもしれませんね」
 おそらく部屋で眠っているだろうKのことを考えながら僕はこたえる。
 給湯室からコーヒーメーカーのコポコポとした音が聞こえる。柔らかな香りがこちらまで漂ってくる。
 ひどく安全な香りだ。すべてを保証してくれるような香り。
 向かいに座ったHはもみあげを撫ぜながら窓の外を見ていたが、やがて僕の方に向き直った。
「なあ、Y君」
 老人の顔から薄い笑みはもう剥がれ落ちている。
「なんでしょうか」
「これで何度目の話になるかな……つまり、ワシのいなくなった後のことなんだが」
 だろうと思った。心の中でつぶやく。
 こいつに僕とコーヒー片手に世間話する気などさらさらないのだ。家名の威厳を守ることに必死な、婿養子。
 黙っているとHは身を乗り出して言う。
「ワシが死んだあとこの事務所は、君に任せたい。ワシはそう考えておるんじゃ」
「まだまだお元気なのに、気が早いですよ」
 僕は肩をすくめてみせる。
「それに僕にはそんな大役、つとまりそうもない」
「いや、君しかいないんだ。息子は見てのとおり、到底1人でやっていけるとは思えない。誰か有能な右腕がいないと心配なのだよ」
 僕はうつむき、間合いを測る。
 幾度も話を持ち掛けられ、迷った末にOKを出したのだと思えるような、もっとも適切な瞬間まで黙る。
「……そこまでおっしゃるなら」
「ありがとう」
 安心したよ。Hは微笑んだあと、不意にひどくせき込む。こんこんという不吉な咳の音色が事務所にこだます。
「風邪ですか?」
 僕はいかにも心配したふうにたずねる。
「どうも最近、よく咳が出てなぁ」
「寒くなってきましたからね。お体を大切にしてください」
「そうやってワシを心配してくれるのは君だけだ。妻も息子も何一つ気にかけてくれん」
 僕は微笑んで、運ばれてきたばかりのブラックコーヒーに口をつける。
 頻繁な咳は末期症状。そうあの男は言っていたっけ。
 あと少しの辛抱だ。あと少しですべてが終わる。
▼3

 くしゃくしゃに踏み潰された落ち葉が、跳ねるようにアスファルトの上を転がっていく。
 ティッシュ配りのアルバイトやカラオケ屋のサンドイッチ・マンが次々と道行く人に声をかけている。
 眠らない街。それが東京だ。忌々しい僕の地元とはわけが違う。
 僕は繁華街における信号待ちが好きではない。
 名前も知らない人間たちと、団子のようにまとまって赤い光が青くなるのを待つのは、好きではない。
『当職たちは、これで弁護士の仲間入りナリ。他の連中とは違うんだ』
 信号待ちをしていると決まって、同期のメンバーが初めて顔を合わせたとき、Kが嬉しそうに言っていたことを思い出す。
 僕以外の奴はあきれ顔だったっけ。クスクス笑ってる女もいたな。
 でも、僕はその言葉を聴いたとき、おおいに心の中で賛同した。
 僕が望んでいたのは、他の奴とは別の人間になることだったのだから。
 僕の性癖をバカにした地元の連中を、田舎者だと陰で笑っていた大学の連中を、いつか見返してやろうと思ってあれだけ必死に勉強したのだから。
 信号が青になった。頭の悪そうな若者が大声で卑猥な話題を語りながら前を歩いていく。
 プラカードとスマホを持った男が通行人に何やら妙な質問をしている。
 能面のような表情でスマホをいじりながら歩く若い女がいる。
 どいつもこいつもだらしない口元をして、脳みその大部分が死んでしまったような顔つきをしている。
「……お前らとは違うんだ」
 つぶやいて、胸元のバッヂに目をやる。
 努力の証明。有能の証明。この鈍い光は、自分にとって心の安定剤のようなものだ。
 おそらく、Kにとっても。
 ポケットの携帯電話がバイブレーションしていることに気づいたのは、信号を渡り切ったときだった。
 もしもし、と応答した瞬間に電話の向こうから大声が飛んでくる。
「Y! 大変ナリ! パパが、パパが……!」
 電話越しの会話でよかった。
 まずそう思った。
 もし面と向き合ってこんなことを言われたら、口元がほころんでしまうのをKに見とがめられてしまうだろうから。
▼4

 Hの告別式は一週間後におこなわれた。
 表向きは脳梗塞、ということになっているらしい。どうやればそう偽装できるのか、僕には見当もつかない。
 わかるのは、世の中には逆らってはいけない人間が存在しているということだ。
 流石に生前人望があっただけのことはある、告別式には多くの人間がやってきた。
 だがこの中で本当に彼の死を惜しんでいる人間は、何人いるのだろうか。
 少なくとも2人は違うな。僕と、もう1人。
 喪主のKがあいさつ回りをしている最中、僕の隣にその「もう1人」がやってきた。
「Y君、調子はどうだい」
「上々、と言ったところですね。これであの事務所は僕のものだ」
「そりゃよかった」
「あなたのおかげですよ」
「礼には及ばないさ。我々には利害関係の一致があった、それだけなんだからな」
 僕はこたえず、曖昧に笑みを浮かべる。
「怖い笑顔だな。今度は私を潰す算段でも立てているのかい」
「まさか。身の程はわきまえてますよ」
「賢明な判断だ。……なかなかうまいもんだろう?」
 式場を見渡し、男は軽い調子で言う。手際よく一仕事終えたビジネスマンの顔。
「今まで何人、こうやってきたんです?」
「そんなものをいちいち数える必要があるかい? 私は合理主義者だ。数えるのは金だけだよ」
「なるほどね」
「Y君、君の頼みは叶えてやったんだ。くれぐれも例の件の口外は――」
「わかってますよ、会長」
 僕は男の言葉をさえぎってこたえる。
「僕だってあなたの「仕事」の対象になるのはごめんですからね。それに僕は欲深い方じゃない。事務所さえ手に入れば十分だ」
「安心したよ」
 僕らは軽く笑った。遠くのKがちらりとこちらへ目をやるのが見えたが、特に気にもとめなかった。
 あいつはもう用済みだ。
▼5

 真っ白な紙を見るような目で、Kは僕を見ている。
 自分が今どんな顔をしているのか、わからない。残酷な笑みでも浮かべているだろうか。案外無表情かもな。
「今、なんて」
 かすれた声でKが言う。普段は血色のよい顔が白く染まっている。少しやつれているのは流石に父親の死が応えたか。
「聞こえなかったかな? 今月中に事務所を退職してくれ、と言ったんだ」
「でも、この事務所は当職のパパが当職のために……」
「いいかいK。今、ここの責任者は誰だい」
「……Y君、ナリ」
「そうだ。そしてここには事務員もいる。経営者としての立場で、僕は物事を判断しないといけない」
「当職が、足手まといだと?」
「君の能力がどう、というのではないさ。しかし、君がネット上でどういう扱いかはわかっているだろう。どこの業界でもそうだが、イメージは大切だ。
 サジェストで不穏な言葉が出るような会社は信用されない。そう最初に言っていたのは君だったと思うが、何か違ったかな」
「でも」、そこまで言うとKは言葉を切ってうつむく。
 その後に続く言葉が見つからないのかもしれない。
 何を言っても無意味なことを悟ったのかもしれない。
 僕は立ち上がり、オーディオのスイッチを入れる。Kの好きなアーティストの楽曲が流れ出す。
 この場にはふさわしくもない、「愛してる」という言葉を水で10倍に薄めたようなラブ・ソング。
 とても安全な、飲み干してしまえばあとには何も残らない、水のようなラブ・ソング。
「この曲をかけながら君と愛し合ったこともあったな」
 僕は誰にともなく言う。最初は本当に純粋な愛情があったはずだった。
 いつしかそれは欲望に飲み込まれた。黒々とした、底の見えない沼のような欲望の中へ。
 どちらが正しいか、なんて考えてはいけない。もうすべては動き出してしまったのだ。崩れた塔は元には戻らない。
「Y君は、どこで、変わってしまったナリか」
「すまないとは思っている」
 心にもないことを。誰かがそう言ったような気がした。
「Y君」
 3分半の曲が終わったころ、Kが弱弱しく言った。
「なにかな」
「当職はこれから、どうしていけばいいナリか。ひとりではやっていく自信がないナリ」
 僕は立ち上がって彼の肩を軽くたたく。Hと同じようなことをしているな、と頭の片隅で思う。
「大丈夫、君なら立派な弁護士になれるよ。Hさんの息子だろう? もっと自信を持たないと。
 それに大阪の君の先輩が、君の面倒を見ると言っているそうじゃないか」
「ちがうナリ。当職の言いたいのは……そんな意味じゃないナリ」
 知ってるさ。知ってるよ、それくらい。
 僕はそれは言わない。口にするのは上辺の義務的な言葉だけで、あまりにも十分すぎる。
 やがてKは立ち上がる。
 父を、恋人を、職場を失った男は、ふらふらとした足取りで事務所を去ろうとする。
 その背中に、なんとはなしに尋ねてみた。
「なあK、胸のシリコンはまだ痛むのかい」
 返事はなかった。
 代わりに事務所の扉が閉まる重々しい音が宙をさまよい、それはやがて空調の効いた空間に吸い込まれて跡形もなく消えた。

‐了‐

挿絵

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