東急グループ

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東急グループ
東急グループ
基本資料
名称 東急グループ
別名・通称 東急電鉄(中核企業)
田園都市株式会社(前身母体企業)
分類 大手私鉄・不動産グループ
代表者 野本弘文
設立年 1918年9月[1]
所在地 東京都渋谷区南平台町5番6号
騒動との関連 河野一三河野典男河野光次など
公式サイト 東急グループ
関係者
  • 渋沢栄一 - 創設者
  • 畑弥右衛門 - 尾崎行雄書生、渋沢栄一に荏原郡(現・世田谷区、目黒区、大田区)開発を提案したことで田園都市株式会社設立のきっかけをつくる
  • 河野光次 - 畑弥右衛門の同僚
  • 河野一三 - 五島慶太と親しかったらしい
  • 五島慶太 - 会長、中興の祖
  • 河野典男 - 東急建設取締役社長、世紀東急工業会長

東急グループ(とうきゅうグループ)は、東京急行電鉄株式会社(東急電鉄)を中核とする企業グループである。 本項目では東急グループおよびその母体企業である田園都市株式会社による田園調布目蒲線沿線(旧・荏原郡玉川調布、東急目黒~多摩川線沿線)地域開発史と唐澤貴洋の母方一族、河野家との関わりについて記載する。

年表

 
旧武蔵国荏原郡
  • 1903年8月 - 河野光次、畑弥右衛門と共に朝鮮・京城龍山地区(現・ソウル特別市龍山区)へ渡航。土地開発事業に携わる。
  • 未詳 - この頃、兄・光次に呼び寄せられる形で光次の弟・河野一三が朝鮮京城へ渡航(1915~1920年頃まで京城にいたことが確認されている)、平田百貨店京城店へ就職。このとき一三は当時朝鮮龍山水産取締役であった村井啓助の妹・房を娶り、長男・一英が誕生した。村井啓助の属していた三協商会店主、萩原六三郎は荏原郡の大地主であったとされる。
  • 1909年 - 河野光次、朝鮮での事業に失敗し日本へ帰国。東京府荏原郡馬込村1341(現・大田区馬込)に移住。
  • 1915年2月 - 畑弥右衛門が小林一三(阪急東宝グループ創業者)の都市郊外田園都市構想実現に感化・影響されたことから、尾崎行雄の紹介で渋沢栄一を訪問して郊外鉄道の計画及び同鉄道路線沿線郊外住宅地の分譲開発事業による荏原郡(現・世田谷区、目黒区、大田区)開発を提案、渋沢は中野武営に相談し欧米の都市を念頭に置いて田園郊外住宅地開発とそれにともなう鉄道など諸般設備の整備を構想する
  • 1916年11月 - 渋沢栄一によって「田園都市株式会社」創立
  • 1919年8月25日~ - 渋沢の四男・渋沢秀雄が田園都市視察のため欧米11カ国訪問
  • 1918年頃~ - 河野光次、田園都市株式会社に関与[2]
  • 1920年 - 河野一三、当時生後1ヶ月の河野一英を連れて朝鮮京城(現・ソウル特別市)から東京府下荏原郡東調布町字下沼部(現・田園調布)に帰国・移住[3]
  • 1922年 - 東京実業学校(現・東京実業高等学校、後に蒲田へ移転)設立、同学出身の河野典男によると設立者にして校長を務めた上野清は河野一三の弟分であったらしい。
  • 1922-1923年 - 田園都市株式会社の子会社として目黒蒲田電鉄が設立し五島慶太が専務取締役に就任。翌年、目黒~蒲田間に目蒲線(現・東急目黒線~多摩川線)を開通させたのに合わせて、荏原郡玉川調布(現・田園調布)の田園都市・大規模分譲開発が開始。
  • 1929年 - 河野一三や当時の横浜・川崎市長らによって「大多摩川愛櫻会」発足。一三は同会の幹事として多摩川河川敷に桜の木を植樹する運動を主導した。
  • 1933年 - 五島慶太の目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道(現・東急池上線)を買収・合併
  • 1935年 - 河野一三が建設を計画し、鉄道会社[4]に土地を寄付させて東京側から着工した丸子橋(東急東横線多摩川橋梁に隣接する橋)が完成する
  • 1938年 - 五島慶太の目黒蒲田電鉄が玉川電気鉄道(東急新玉川線を経て現・東急田園都市線 渋谷~溝の口間)を買収・合併
  • 1938年 - 河野一英、東京府立第一商業学校(現・東京都立第一商業高等学校、渋谷区鉢山町)を卒業
  • 1939年10月 - 五島慶太の目黒蒲田電鉄が旧東京横浜電鉄(現・東急東横線)を合併し、目黒蒲田電鉄が名称を逆に「東京横浜電鉄」と改称、現在の東急電鉄の原型が完成する
  • 1939-1948年 - 私鉄統合政策(陸上交通事業調整法)による戦時中の「大東急」時代を経たのち財閥解体により五島の「東京横浜電鉄」が「東京急行電鉄(東急電鉄)」となる
  • 1953年 - 河野典男、父・河野一三が五島慶太と親しかった縁で東急電鉄に入社
  • 1966~1977年 - 五島自らが渋沢栄一の田園都市構想を継承して提唱した「多摩田園都市構想」に基づき、路面電車であった東急玉川線を高架・地下化のうえ通勤電車線路に改軌し「東急新玉川線」として開通させた上で溝の口から中央林間に向けて延伸し「東急田園都市線」を建設
  • 1967年 - 東急建設が道路部門を分社し、東急道路(後に「世紀東急工業」と改称)を設立
  • 1961年 - 河野典男、東急建設に出向
  • 1977年 - 河野典男、東急精機工業株式会社の社長に就任。「月間建設人」で典男の半生と父・一三に関することが紹介される
  • 1978年 - 河野典男、東急建設の常務兼、東急道路の取締役に就任
  • 1991年6月 - 河野典男、世紀東急工業株式会社社長に就任
  • 1992年6月 - 田園調布サティアン建造
  • 1995年8月 - 唐澤厚史、地元の悪いもの達に恐喝され多摩川の河川敷で集団暴行に遭い自殺
  • 2003年~ - 唐澤洋東急建設の会計監査業務を執行
  • 2011年7月4日 - 東急池上線の始発駅がある五反田アイオス五反田駅前)にて唐澤貴洋・唐澤洋によって恒心綜合法律事務所公認会計士唐澤洋事務所設立

田園調布

今日の世田谷区から大田区にかけての地名として存在する「田園調布」は東急田園調布駅周辺の田園都市株式会社が開発し分譲を行った地域と、この分譲に合わせて周辺の地主が土地区画整理組合を結成して宅地造成した地域に名付けられた地名である。

猪瀬直樹「土地の神話」

なぜ猪瀬直樹なのか? - 唐澤貴洋文学館
唐澤先生が港区虎ノ門に事務所を移されたそうですね。
そこで新しい試みとして、本日は文章自体の検討とはまた別の観点から文豪・唐澤貴洋先生の姿にアプローチしていきたいと思います。

先生は次のように述べられています。

“変わっているけどノンフィクションが好きな少年だった。立花隆、猪瀬直樹、沢木耕太郎、山際淳司の著作をを読んだことは血となり肉となっている。” 〔註:「著作をを」となっているが原文ママ〕
 ――Twitterのつぶやきより

これを読んで、皆様も一度は「なぜ猪瀬直樹なのか」と疑問を覚えたことがあるのではないでしょうか。
先生がここで述べているうち立花隆、沢木耕太郎、山際淳司については、恒心綜合法律事務所公式ホームページで「好きな本」として彼らの著作が挙げられ、さらにご自身のFacebookページでも「いいね!」がされていることから特に疑問はありません。(先生が「いいね!」された本は沢木耕太郎『一瞬の夏』、松原耕二『勝者もなく、敗者もなく』、山際淳司『スローカーブを、もう一球』、立花隆『青春漂流』『二十歳のころ』)
しかし、猪瀬直樹についてはそれがない。他の箇所で彼の具体的な著作を挙げるなどして言及されているわけでもありません。
ではなぜ、先生は猪瀬直樹をここで持ち出しているのでしょうか。なぜ、「血となり肉となっ」たという作家の著作を、他の三人については挙げているにもかかわらず、猪瀬直樹のものは挙げないのでしょうか。
猪瀬直樹といえば『ミカドの肖像』などに代表されるノンフィクション作家で、現在は政治家に転じ東京都知事も務める有名人です。
そんな彼と唐澤先生の間にいかなる繋がりがあるのか。例えば猪瀬直樹の近年の意欲旺盛な政治活動と結び付け、そこから先生が抱く政治的野心を読み取ろうとする方もおられるかもしれませんが、さすがに現時点でそう言い切ってしまうのは難しいでしょう。

では、「なぜ猪瀬直樹なのか?」

この謎を解く鍵は、やはり彼の著作にあります。
それが猪瀬直樹の代表作の一つ、『ミカドの肖像』の続編として書かれた『土地の神話』です。
この作品では、東急電鉄の創始者・五島慶太を中心にした「田園都市」開発の物語、すなわち現在の東京都田園調布の成り立ちが緻密な筆致で描かれています。

さて、勘の良い皆様ならここで「田園調布」というワードにピンときたのではないでしょうか。
田園調布は、先生の外祖父と目される河野一英氏、そしてご尊父洋氏の自宅がある、唐澤先生とは非常に関係が深い土地だからです。
先生は事務所公式ホームページで「世田谷区で幼少を過ごし」と述べておられますが、大田区田園調布は田園都市株式会社により世田谷区側とも一体になって開発が行われましたし、「田園都市」の名を冠する東急田園都市線はその世田谷区を通っています。そして何より、ご祖父の家が田園調布にある。
先生が「田園調布」「田園都市」という土地・言葉に強い愛着を持っておられることは大いにあり得るはずです。
ゆえに、唐澤先生と猪瀬直樹を結び付けるものは、この『土地の神話』と考えてほぼ間違いないものと思います。
先生がこの作品の主人公・五島慶太をFacebookの「尊敬する人」に登録していることからもそれは窺えます。

「なぜ猪瀬直樹なのか?」

そう、自らに縁のある田園調布草創期の歴史を描いた彼の著作『土地の神話』が唐澤先生を惹きつけたのです。
ここから読み取れること――それはおそらく先生の、田園調布に対する深い愛郷心ではないでしょうか。
目を閉じれば、自分の故郷を愛する暖かい心を持った優しいお方、人間・唐澤貴洋の姿が浮かんでくるようではありませんか。
また、唐澤先生がなぜ「好きな本」として猪瀬直樹の著作を直接挙げなかったのかという理由についても述べておけば、それは『土地の神話』、すなわち自己の出自に深く関わる本を挙げることについての気恥ずかしさからだったのではないかと思います。

それでは、先生の事務所移転という一大事に気が動転し、論の運びがかなり粗雑・強引になってしまいましたが、今回はこれで締めさせて頂きます。
皆様もこの機会に、先生オススメの本や映画にあたってみてはいかがでしょうか。

註釈

  1. 田園都市株式会社として
  2. 東京横浜電鉄沿革史」(1943年)
  3. 一英紳士録
  4. 典男によると「東急電鉄」とあるが目黒蒲田電鉄か東京横浜電鉄のいずれかは不明

関連項目

外部リンク