恒心文庫:生きづらい世の中

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本文

「もしもし。き、きみちゃんかのう?」
夜中の一時すぎにひろくんから電話があった。妻には隠している第二の携帯電話のほうにである。
「こんな時間にどうしたんだひろくん」
「落ち着いて聞いてほしいんじゃ!」
ひろくんの声は上ずっている。こころなしかすこし震えているようにも聞こえる。
「私は落ち着いているよ。どうしたんだい。話してごらん」
書斎で仕事用の資料に目を通しながら私は答えた。ひろくんは数度深呼吸をしてから言った。
「できちゃったみたいなんじゃ……」
「で、できちゃったってなにが……まさか……」
僕の額を汗が流れる。
「そうじゃ、妊娠したようなんじゃ」
それを聞いて僕の目の前は真っ白になった。
「生理が来なくて妊娠検査薬を使ったら陽性だったんじゃ」
私は無理やりに自分を落ち着かせひろくんに言った。
「産夫人科には行ったのかい?検査薬の間違いってことも」
「病院には行って確認したんじゃ」
「わかった。とにかく今から会おう。いつもの場所にきてくれ。すぐにいく」
「うんわかった。ワシもすぐにいくからのう」
私は電話を切ると家族を起こさないように静かに家を出て車に乗り、私達の愛の巣であるマンションへと急いだ。
面倒なことになった。妊娠するなんて。避妊には気をつけていたはずだ。
私には家庭も地位もある。愛人を孕ませたとなれば今の地位から逐われるかもしれない。
妻とはもちろん離婚だ。子どもたちの顔を見ることもできなくなる。一体どうすれば。
そんなことを考えているうちに私はマンションに到着した。部屋の鍵はすでに開いており、ドアを開けるとひろくんの靴が見えた。
私はいつもは整えて置き直す靴をぬいだままにしリビングへ急いだ。
ひろくんはいつものように全裸で三角木馬に座っている。
「きみちゃん!」
私の顔を見るとひろくんは抱きついてきた。粘着質の液体を常時放出しているひろくんの肩を持って引き離し私は再び尋ねた。
「それで、妊娠って……」
「先生が言うには8ヶ月らしいんじゃ。
人間が6体、ダチョウが2羽、コオロギが102匹、にしんが7尾、すき焼き用牛肉が500グラム、紙粘土が68グラム、砂鉄が320グラム、100ドル札が2枚、原油が2ガロン、ワシの子宮のなかにはあるみたいじゃ。
みんなすくすく育っているそうじゃのう」
ひろくんは笑顔でそう言った。なぜひろくんは笑顔でいられるんだ。私達には互いに家庭があるというのに。
「でも避妊をしたのにどうして」
「きっとワシがきみちゃんの精液をビールジョッキでごくごくと飲んだ時、ワシの胃に穴が開いていてそこから漏れ出たきみちゃんの精液がワシの第三子宮に到達してしまったらしいんじゃ」
「そうなのか」
迂闊だった。ひろくんの子宮はアナルから手を突っ込んですべて取り去ったつもりだったが、まだ残っていたのだ。
「8ヶ月ということは堕ろすことは」
「堕ろす?そんなことは無理じゃ!それにもし出来たなら堕ろせというつもりだったんか!きみちゃん!おこりゅ!おこりゅよ!」
ひろくんは勃起しながら顔を真っ赤にして私に叫んだ。堕胎が無理ならもう他に手段はない。
「じゃはひろくん、流産してくれ」
そういうと僕はひろくんの腹部を殴った。ぐびぃいという声を上げひろくんは倒れる。
キッチンから包丁を持ってくると、私はひろくんの腹部に突き刺し開腹した。
瞬間、ひろくんの子宮から胎児たちが我先にと飛び出してくる。近くにあった箒で部屋を這い回るそれらを叩いて殺し、ちりとりで集める。
「な、なにをするんじゃ!きみちゃん!ワシの子どもたちを、ワシらの子どもたちを返してくれ!」
ひろくんはそう叫びながら私からちりとりを奪い取り、その中の胎児たちをずるずると口に入れて飲み込み始めた。
しかし、腹が開いているので飲み込んだその瞬間から胎児たちは床に散らばってしまう。そして、その散らばった胎児たちをまたひろくんは飲み込む。
その光景を見ながらこれから一体どうすればいいのかについて思いを巡らせていると、私の身体に振動が走った。
お腹の内側から、私の子宮を蹴り飛ばす感覚がある。
私は恐る恐る自分の腹部に手を当てる。皮膚の下、無数に蠢く命を感じた。
ああ、厄介なことに私も妊娠をしてしまったらしい。
人々が際限なく出産するものだから、物と生物に溢れてしまい、蠢きそのものになってしまった世界を、部屋の窓から眼下に眺め、私は一人困った。
さて、一体どうすればいいのだろうか。
まったく生きづらい世の中になったものだ。

(終了)

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