恒心文庫:哀しみの青年

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本文

僕の心はすっかり闇に呑まれていた。
あの日から、僕の日常は崩壊していった。大学、高校、名前、住所...全てを知られた。他人を欺き続けた自分は、過去、現在、未来を悉く失った。

奴らは僕の日常を壊した。滅茶苦茶にした。全てを奪った。

奴らを本気で殺したくなったことは何度もあった。画面の向こうで自分を嘲る奴らが、心底憎かった。復讐したかった。死んでほしかった。殺したかった。自分の日常を奪った代償を払わせたかった。



だが、あの日は今は遠いものとなった。
今なら言える。全てを失ったのは、他の誰のせいでも無い。

半分は諦めに近かった‐奴らは一人や二人ではない。全員に復讐するだなんて、出来る筈が無かった。出来る訳が無かった。
そんなことはすぐに分かることだ。

あの日の僕が憎い。あの男に力を借りたのが間違いだった。
そう、特定された日ではない。真に僕の日常を壊したのはあの男だ。



唐澤貴洋。奴が僕の全てを奪った。


あの日は未だに覚えている。
五反田のあの思い出すのも忌まわしいあの部屋。
親と共に、奴らを倒すための依頼を唐澤に頼んだ。
あの時はまだ信じていた‐弁護士の力があれば何とかなる、と。
平和な日常が戻ってくると。

唐澤は開示の効果について、何も言わなかった。
結果はすぐに分かった。ますます炎上を加速させるだけだ。
あの無能弁護士は、金だけを毟り取って逃げていった。
僕は日常を取り戻すことはできなかった。
学部と学科名まで開示され、この上からさらに失っただけだった。

僕が煽った奴らのおかげで唐澤の無能さが分かる、皮肉なものだ。
このことを知っていれば、僕はあいつになんか頼まなかった。
スレッドの立て方も知らない無能弁護士。
私刑を認めるモラルの欠片も無い悪徳弁護士。
依頼人をなおざりにして胡坐をかく害悪弁護士。

この男‐唐澤が、すべての真の元凶だ。


計画を立てたのはかなり前のことだった。
恒心教徒とかいうのだろうか、奴らが腰抜けなのはすぐ分かる。
誰も実行しようとはしない‐あの言葉を。

僕はそれを達成する。
あいつらより上位の存在であることを、改めて認識させてやる。
あの低学歴ゴミカスニート共とは違う。
僕はやる。

計画を実行すれば、本当に全てを失うのは知っている‐奴らと違いそこまで馬鹿ではない。
だが、あの男に壊された僕の人生は、失うほどの価値があるものなのだろうか。

もう僕には何も残されていない。最期にあの男を殺す。

僕は掲示板にアクセスした。
言ったらやる、当然のことだ。奴らとは違う。
僕はあの言葉を書き込み、部屋を出た。



すっかり遅くなってしまった。もう夜の6時だ。
後は彼に任せておけばどうとでもなるだろう。
当職は手をあげ、止まった車に乗った。

当職‐この一人称はなかなか気に入っている。
弁護士としての威厳と風格を感じさせる、良いことだ。
社会の底辺である奴らがこの一人称を使うのはなかなか気に食わないことではあるが、当職はそれごときで怯むような男ではない。
まさに当職のアイデンティティーがこの一人称には込められており、奴らに屈しはしないという固い意志が込められているのだ。

車の中で、半ば日課となりつつあるスレッドの監視を行う。
いつものことだ‐殺害予告されている。今回はシンプルに、唐澤貴洋殺すとしか書かれていない。

この5年間で学んだ‐そんなことは起きない。奴らは単に当職をストレスのはけ口としているだけだ。一流大学を卒業し、世間でいうところのリア充でもある当職への僻みでしかない。奴らを相手にすることはない。そう気がついたこともあり、最近はこの手の書き込みには何も感じなくなっていた。

あの頃はひどかった。毎日のように殺害予告され(今もされているが)、嫌な単語が検索したら出てくる、地獄のような日々だ。
あの少年を思い出してしまった‐てっきり親が素直に払ってくれるかと思えば、支離滅裂な論理を並べ立てて、結局逃げてしまった。
当職のアイデンティティーは完全に否定されていた。
なぜ社会にはこうも弁護士を軽く見る連中が多いのであろうか。
それこそが、弁護士制度への重大な挑戦である。
親の庇護のもと甘やかされている彼らには解らないのだろうか。
嫌な思い出を押し殺し、スマートフォンを閉じて当職は流れる外の景色に目を向けた。


料金を払って車を降りた。車代は父に頼んで出してもらえばよいから懐が痛むことはない。
この場所は未だに知られていない。かつて住んでいたマンションは確かに知られてしまったが、それも過去の話だ。当職の城を落とすことはできない。8階建ての建物の入り口に入ろうとして、ふと人の気配を感じた。

向こうに、フードを被った男がいた。年齢のほどはわからないが、そう歳を取っているということも無さそうだ。

奴らのうちの一人か。まさかここまで来たというのか。いやそんなはずはない。当職は個人情報を厳重に管理しており、ここまで知られるはずがない。気のせいだ。奴らとかかわってからは毎日が地獄のようだ。いつだって強迫観念に襲われており、気の休まる時がない。

しかし当職は弁護士だ。悪い者に唯一立ち向かえる力、法の力の番人なのだ。奴らとは違う。当職は嫌な気持ちを押し殺し、入口へと進んだ。

「唐澤弁護士だよね?」
気が付くと男がすぐそこに立っていた。
顔はよく見えず、目は俯きがちである。
突然に声をかけられ当職は戸惑った。
「君は誰だ」

「唐澤弁護士だよね?」
男は同じ質問を繰り返した。
あきれたことだ、きっとこの男の親は彼にろくな教育をしていないに違いない。怒鳴りつけられたこともないのだろう、怒鳴りつけてやろう。
「当職は君の名前を聞いているんだ。まずは自分が名乗ることが先じゃないのか。当職は弁護士だぞ。もっと敬意をもって接しなさい。人は人を愛さなくてはならない。今君は何を考えているんだ。当職は君の20年後を」
「唐澤弁護士なのかって、聞いているんだ。」
「そうだ。君より何年も長く生きている。君の人生の先輩だ。君は親の愛を知ったことがないのか。当職の弟は当職が十八のときに」

突然、腹部に激痛が走った。どういうことなのか。

なんと男はナイフを持っている。
「探したよ。唐澤。」

当職は返す言葉もなかった。

「僕の日常を奪ってくれたのはほかの誰でもない、あんただ。」

手の中で何かが動いたが、よく見えない。当職がこんなところで倒れてたまるものか。当職は声を振り絞った。
「一体君はだ」

全身に激痛が走る。目の前が痛みで真っ赤だ。
突然に中学生の思い出がよみがえる。一人だけクラスに残され、緊張してしまった当職は‐

なぜ今思い出したのだろう。そうか、今当職が緊張しているからだ。緊張してしまうと‐




これだけ刺しておけば、確実に死んだに違いない。
僕は確信した。

長年の敵の死骸は糞まで撒き散らかしている。
死ぬ時まで無様な野郎だ。

血にまみれた手をふいた僕は、スマートフォンの画面を呼び出した。

書き込んだ‐唐澤貴洋は死んだ。

さて、これからどうするか。死刑になるには、二人以上殺さなくてはならない。こいつの夜の相手でいいだろう。同罪だ。

僕は再び歩き出した。

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