恒心文庫:名刀 唐澤貴洋(とうたくきよう)

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本文

かつての唐の猛将、貴洋が弟を自らの覇道のために斬り捨てた際に使った刀とされる。
その由来、また、後に貴洋は皇帝武則天に覇道を断たれた末に、屋敷に火を放って自殺したという経緯からいわくつきの刀として当時から名を残した。当時は唐貴洋と呼ばれていた。
この弟斬りの妖刀としての評判は後世更に増すこととなる。
一方で武器としての価値、工芸品としての価値は後の時代に名高い日本刀の大業物にも引けを取らず、そして非常に高い歴史的価値も相まって中華の至宝と賞されることもあった。
唐代では貴洋の自殺後、皇帝の手に渡るも、唐崩壊からの五代十国時代の混乱の最中で失われてしまう。
次に歴史に登場するのは宋の時代半ば、海上商人が中国大陸から持ち出そうとしていた時であるが、当時の倭寇、陳飛とその一味に襲われ以降海賊の所有物となってしまう。
しかし、陳飛もまた中華の至宝に畏敬の念を抱いたのか、一度兄弟で倭寇の棟梁の座をかけた争いを行った際に使われたきり保管されたままであった。この争いでもやはり弟が斬られ、その船は業火に包まれたまま沈没したため、妖刀としての名声を増すこととなった。
その160年後、一部倭寇は末期高麗の討伐で大きく勢力を削ることになるが、かつて陳飛が棟梁を務めていた海賊団も例外ではなかった。
唐貴洋の所有者は高麗の将軍李成桂が直接率いる軍に敗走して日本にたどり着き、その地で亡くなったとされる。
その後価値を知らない農民によって拾われ、用水路に打ち捨てられていたところを、武家である河野家家人が拾い献上した。
これより新たに、用水路を表す一字を加え唐澤貴洋と名付けられる。
以降河野の家宝として保管されていたものの、幕末の動乱の際に再び持ち出された後、公には行方不明とされている。
こうして様々な遍歴を辿ってきた妖刀であるが、現在は虎ノ門に安置されている。
4人目の犠牲者を探して。

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