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恒心文庫:唐澤牧場

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

昔の春、人生が崩壊した。
インターネット掲示板が原因だ。
私の人生において、あの日の以前と以後には、絵の表裏ほどの差がある。
自殺も考えた。
だが、それをしたくなかった。
生を営み続ける方便として、田舎町の小さな牧場に就職した。
ここなら私の素性を知るものは居ないから、だ。
賃金はたいへん少なかった、だが怪我人は間に合わせの包帯が必ずしも清潔であることを要求しない。

私は何も知らない青年時代にこの魔境に入った。けれども、ここを去るときには最早考え深い大人になっていた。

勤務初日、私は牧場の敷地内にいくつもある内の、ある一つの畜舎に案内された。
畜舎というと通風性のある解放的な建築を想起するだろうが、案内されたそれは全く密閉された掘っ立て小屋だった。
外から見ていても、内部のじめじめさ、陰鬱さが容易に予想できる。

コケと水垢で濡れた扉に手を掛け、引いて開けてみた。
その瞬間、酷く生ぬるい風が一斉に私の頬を撫でる。
酷いにおいで、これから毎日ここで働くと思うと憂鬱になるほどのものだった。
しかし私はお金をもらって働くのだ。職業人としてこのくらいで怯んではいけない。
自分の鼻を袖で乱暴に押さえ付け、予想通り暗く暑い畜舎内をゆき、手探りで照明のスイッチを探す。
パチッ。旧式の蛍光灯が点滅を始めた。


散発的にあらわになる畜舎内の風景を垣間見、私の身の毛はよだった。


やがて準備運動を終えた蛍光灯が完全に照らした時、それは明らかとなる。




「ゴ,ゴハンノジカンナリカ?」



畜舎内を四足歩行で自由に闊歩する全裸の小太りの男性。私は人間牧場に就職したのだ。

「トウショクニゴハンヲヨコスナリヨ」「シンイリサンナリカ?」「30万」
所狭しとはこの事。このバレーコートほどの空間に少なくとも40頭の人間が四つん這いで起居している。
呆然と立ち尽くしていると、同行してくれた農場主の洋がエサやりの手本を見せてくれるという。
言うが早いか、舌の根も乾かぬ内に洋はズボンを降ろし、畜舎の中心にて腰をおろし、脱糞を開始する。
古い蛍光灯の青白い光が、りきむ洋のこめかみの血管を、ただ静かに浮かび上がらせていた。

凄まじい音を上げ地面に便を投下する洋、わらわらと集まり、洋の足元に夢中で顔を沈めて食事をする家畜達。
息の合った彼らはまるで、互いが組み合わさらなければ機能しないカラクリ部品のように、二個同一の形相を成していた。

エサやりと呼んでいいのだろうか?
済んだそのままの体勢で、洋は明日からこの方法でエサやりをするようにと伝えてきた。
私の返事を待つことなく、洋は「次に、彼ら家畜達の加工場に案内する」と言い、何食わぬ顔で先に畜舎から出ていった。
私は、意志を失ったかのように付いていった。

加工場に向かう道中、私は何か都合のいい理由を付けてここを辞める途はないかと考えていた。

加工をする建物に到着し、心持ち眉をひそめて洋の後に続き中に入ると、鉄の鋭いにおいと、何者かの叫喚が聞こえた。恐ろしい光景だった。
先程の家畜人間達が成している列の先頭で、青年が牛刀を持って彼らの四股を眠たそうに切り落としている。

途方に暮れていると、洋が私の方を向いて語り掛けてくる。
最早私にはこのバケモノの顔が、顔のついた口にしか見えない。
「この家畜達は四股を切断しても1週間生き続ける。
消費者が新鮮な肉を調理し食べられるように、このような方法で生きたまま出荷するんだ。」

なんと非道な。文明社会への挑戦じゃないか。
また洋が話し始めたので、私は露骨に嫌な顔をしてみた。

「なあに、すぐに慣れるさ。山岡くんと共に、君にもこの四股切断作業をお願いするから」

この時初めて新人労農者が、一人の反抗者に変わった。

「こ、これ、酷くないですか?」

洋は私の言葉を何と聴いたのか、嬉しそうに答えた。

「彼らは皆、自分達が食肉として食卓に並ぶのを、名誉に思っているんだ。その証拠にほら、彼らの表情を見て。」
私は四股を切断されている家畜達の表情に、哀れみの意味を込めた視線をやった。

・・・

先程の叫喚は、嬌声だった。
冷静に考えてみれば、嫌がっているならば、自らの四股を切断せしめる列に大人しく自分のからだを陳列するはずがない 。

切断された者も、切断を待つ者も、皆一様の安らかな笑みを浮かべている。
彼らは蝶に身を任せる草花のように、屠殺者に身を任せている。

「彼らは家畜としての使命を余儀なくされているんじゃない。果たせているんだ。」

私は自分の浅はかな考えを恥じた。
陳腐な表現をするとすれば、これは終わりではなく始まりなのだ。
その事実は、彼らの柔らかい表情に歴然としている。


私は、彼らがこの世にいる理由を何も判っていなかった。


私は知った。私は知らないものを知った。
声が先で涙があとからポロポロ流れ落ちた。
私は今、泣いているのが嬉しくて泣いている。
このような世界が存在していたことに、私は落ち着いた。
・・・
私は、今までの私の心の醜さに胸をむかつかせた。

この牧場の中に、真実を見た。
山岡くんが私に牛刀を手渡した。
それは、とても、とても、重かった。

現実を理論でねじ曲げる今までの毎日に別れを告げよう。
自分に関するおしゃべりが自分を男らしくすると言うのは至難の技だ。
最早今までの自分の人生に価値を認める必要はない。
これから行う牛刀の一振りは、自分自身の生活の主人公になるための第一歩だ。

私は牛刀を、使った―――――



黄昏の空の下、もう電気を点けたバスに乗り帰路を行っている。
これからの仕事が楽しみで、早くも私は朝を欲しがっていた。
私は、あの牧場に、自分が生きる道が残されているような気がした。


―終わり―

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