自分語り
自分語り(じぶんがたり)とは、自分の出来事や人生を話す事である。対義語は他人語り。
概要
自分の出来事や人生を話すことで相手に自分を知ってもらえると言うメリットがあるため、個人差はあるものの誰でもすることはある。
だが、勿論度を越えると嫌われる。「相手に聞かれてもいないのに自分を語る」「相手の話を無視し自分のことだけ優先し、喋り続ける」「マウンティングを行う」「自分の価値観を過度に主張する」と言ったマナーの悪い自分語りをする人物に対し、蔑称として「自分語り」が使われることがある。
自分語りの対義語は「他人語り」と思われ、これは読んで字のごとく「他人の出来事や人生を話すこと」である。著名人や歴史上の人物の「他人語り」の他、恒心教では唐澤貴洋他ハセカラファミリーの「他人語り」が特に多いが、語る人物にとっての身近な人物であることも多い(家族・友人など)。また、実際には自分の出来事ではあるものの、自分語りとの批判を避けるために他人の出来事と称する場合もある。この場合語る人物がよっぽどのヘマをしない限りは断定が不可能なので、深く詮索するのは徒労に終わる可能性が高く、慎む方がベターであろう。
長谷川亮太との関連
長谷川亮太はなんJコテ八神太一時代に自分語りを目的としたスレ(八神太一外野手スレ)を立てまくり、そのせいで特定に至ったことから、長谷川亮太といえば自分語りという印象を持たれている。それに因んで彼の自宅にある表札とマットはそれぞれ自分語り表札、自分語りマットと名付けられた。
また、彼の自分語りには嘘が多かったため「自分騙り」と表記されることもある。なお、「自分騙り」は、Torを始めとしたダークウェブの世界では、警察によるアナログ捜査による特定を避けるための戦略として用いられることもある。
恒心教と自分語り
恒心教では長谷川亮太を反面教師として自分語りは戒められてきた。自分語りを分析し特定を行うことを得意としてきた恒心教において、自分語りは身を亡ぼすということは身に染みていたことであった。
しかしtwitter路線の拡大後、SNSの雰囲気に負けてか自分語りをしてしまうものたちが急増。その中には臭芋として長谷川亮太よろしく特定されてしまった人物も多い。
基本的に自分語りは恒心後の禁忌・タブーと見なされているが、恒心教内ではカラケーにおけるけんま報告などやむを得ず自分語りをしなければならない際は「隙自ですが」などの文を添えることがよくある。ただし教徒としての活動及びそれに伴う成果を報告する行為は、当人が露骨にそれをひけらかしたりするような文言でもない限り、そもそも自分語りと見なされることは殆どない[1]。
また、特筆すべき例外として、サブカラケーの1つである恒心綜合大学医学部附属病院掲示板では、恒心教徒の身体・精神のケア、及びそれらの悩み相談を取り扱うという性質上、自分語りが許容されている。
バリュケーなどの学習系カラケーは他のカラケーと比べて戒律などに寛容な雰囲気となっており、学術教徒の拠点になっていた。学術教徒は実績証明と交流のためにある程度の自分語りとコテハンの使用も許されていたが、国士舘長と同じ行動をする人物が登場するなどして破綻した。
隙あらば自分語り
ネット上の自分語りが如何に悪いことか、各種wikiやまとめサイトなどを通じ大半のネットユーザーに伝わった2015年ごろ、Twitterや2chでは過度な自分語りをする人物を諌めるために「隙あらば自分語り」という言葉が生まれた。汎用性が高いこの言葉は「隙自語」「隙自」と略されるなどして現在も多用されている。
出典・註釈
- ↑ というよりも、仮にそれらすら自分語りとみなしてしまえば恒心教徒は何も活動できなくなってしまうのであるから当然ではあるが
関連項目