恒心文庫:『醒める悪夢』
本文
晩秋の寝所は暖房をきかせても汗をかいた肌が冷える.
身震いをして毛布を引き上げる.肩を首筋を越えて顔半分まで覆い,それでも寒いので体を丸めた.
肉(しし)肥えた不惑も近い男が縮こまる姿は格好の付くものでは無く,ほぼ裸のままなのも相まって胎児然としている.
寝巻を着なおすのもシャワーを浴びるのも億劫だ.思い返せば片付けの苦手な少年だった.悪癖は直らずこうして今も濡れたところ
から空気の爛れだした部屋を放って寝具に包まっている.
肩をすくめ,寄る辺ない気持ちをなんとかしてやりたくて,そこでようやく隣を見やる.共寝のお相手の,骨格のはっきりした
平たい背中が静かに横たわっていた.歳は十ほど若く,しかしこのみっともなく丸まった男の同輩でもある.職場を同じくするかの
青年は日頃から内助の功と言って差し支えないほどに男のことをよく助けてくれているのだ.
見目も悪くない.隣に置けばなんと気分のいいことか!情にまかせ生活の私的な領域まで連れ込むようになるまで時間を経た覚えがない.
ただそれでも今夜のように――少し大きい鼻から厚い唇,そして頤を切り出し流れるようにさがる肩のその先を見ることが叶うまで
とてももどかしい思いをした.青年のうなじ,首の骨の隆起を数える.肩甲骨を覆う筋肉は背骨を軸とする対称形である.
闘魚のヒレのように優美な広がりはあの撫で気味の肩を作る.目線が背骨をなぞる様に下ってゆけば記憶の糸も手繰られる.
なだらかなS字の奥行き,よく締まった腰が逡巡の終点となった.
男は丸々とした指を伸ばす.チョコレート・モカの肌は触れたところから熱でほどけて指紋を埋めるように吸い付き,そして香り立つ
ような錯覚すら覚えるのだ.男の生白い皮膚との対比が今日ばかりは目に痛い.体ごとにじり寄り食指は脇腹を駆けあがる.
ぐずぐずと湿る暗がりに浮かぶ美しいラインの向こうへ行った手がぬくもりに当たった.親指を挟まれる.手のひらを撫でられる感触,
人の指の腹だ.節ばった長い指の先端である.絵のように動かなかったというのに,ずっと起きていたのだろうか.
掠れた声で名を呼ばれた.額を寄せて応えに代える.彼ならわかってくれるだろう.息の漏れ出たような声帯のいらない声が
眠れないのですかと男を気遣う.君こそ,それだけ言って今度は腕を回して青年を抱き寄せる.確かスポーツが好きだと言っていたか
融けそうな素肌の下には若さの盛りを過ぎて尚張りのある肉が生きている.男性としての艶の片鱗を窺わせる躰が歓喜にうねるさまを
他に誰が知るだろうか.口角が持ちあがる.くつくつと身が小さく沸きだす.交歓の余韻と悦喜ごと情人を掻き抱いて男はようやく
眠りについた.
気が付けば闇の中ひとり立ち尽くしていた.嘆息する――お馴染みの嫌な夢だ.腐肉と醜悪な砂色の蟲の夢である.
人ひとりより大きめの塊が蠢いている.いつも暗闇であるから目を凝らしたところで徒労に終わる.
地べたにへばり付くようにそこにいる塊には何か,何かが絡み付いているようであった.薄気味が悪いので蟲ということにしている.
おそらくその蟲が鳴いているのかもしれないのだが,耳朶を斬り付けるような不快な音が何もないところに谺する.音に辟易しかけた
耳はまるで傷を作った肌が流れる血の生温かさを感じるように熱を孕み,熱は脈打つ度に膨れ上がっていくようにも感じた.
塊の上をのたうち這い回る蟲はやがて大人しくなる.肉塊と溶け合いたがるかのように,身に筋の浮くほどの力で食いつき震えている.
最後はいつも決まってくたりと力を失い,腐肉の上をするりと落ちていくのであった.
うんと退屈で,ただただ気味が悪いだけの悪夢.もう見せられた回数も覚えていない.
目が覚めるとベッドに一人であった.青年はもう起きだして朝食の用意をしてくれているのだろう.昨晩の痴態をからかってやれば
少しは気も晴れるかもしれない.のろのろと這い出ると夢の続きのような足取りで寝室を後にした.
しかし,男の目論見はまったく外れることとなった.
青年ととる朝食がこれほどまでに砂を噛むようであったことなどない.まず第一に例の夢のせいだ.気持ち悪くて,意味が分から
なくて,べたべたと胸の内を汚す車酔いにも似た?囃だけを残す.
しかも今日は勝手が違う.夢より腹立たしいのはテーブルの向かいで食パンに齧り付いている青年である.陽光と室内灯を受け,
融けて形を失った蜻蛉玉のように煌く橙色のジャムとほろ苦いチョコレートソース.そんなものを,甘ったるそうなものを乗せた
だけのただのパンを食べている.男に言葉ひとつかけるそぶりも見せない.
いつものように自分に微笑みかけて,特にこんな酷い朝なんだ 手をとって優しい労わりの言葉をかけたらどうなんだ.
爪まで白くなるほど握りしめた拳が震える.なぜ,何も,なぜ.
青年の皿を睨み付ける.青年の肘も見える.いつも男に口付けるときのように,実はとても柔らかいあの唇が白いパンを食んでいるのだろう.
もうそれ以上,顔を上げることはできない.頭を押さえつけるは男のその実態に不釣り合いなほどの自尊心であった.もし目が
合ったとして,青年の不誠実を糺すための目を言葉を乞う訴えと勘違いでもされたらたまったものではない.
汗で指と指が滑る.今,男は自分の顔が白いのか赤いのかわからない.ふつふつ沸いて渦を巻き,酸のように胸の内を焼く憤懣に
いっそ身を任せてしまえたら!
だが男の性根が瞋恚を絡めとり拳を振り上げさせまいとする.褥を共にした青年の心模様が知れない.
自分が中心でいられる場で,いつでも自分を見て構ってくれる相手にしか振り下ろしたことのない拳に自身の爪が食い込む.
「――――」
そんな様相であったから,うまく聞き取れなかった.前触れもなく冷水を浴びせられたように固まるよりなかったのだ.青年が男に
そのとき初めて言葉をかけたのである.男は自らに対し,面を上げることを許す.
青年の目は男のそれまでの心中とは打って変わって凪いだ水鏡のようであった.どうしたんです,そんな怖い顔をして.
言ってやりたいことはいくらでもある.しかしようやく戻る日常に余計なことをしたくも無いので,ただ呆けたように情人を見つめる
よりなかった.
ね,どうしたんです. あやすような声に促され,男はぽつりぽつりと見てきたものを一つずつ取り出して並べるように話す.
蠢く肉塊,男を傷付ける騒音,そして腐肉に纏わりついて息絶える蟲ども……
蟲の果てるところまで語り終えた.なぜだろうか心弛ぶことがない.目の前にはいつものように情人がいて,瞳は朗らかで,唇は
朝の陽光で綻ばんとしているようで――
男にはそう見えていたのだ.彼があともう幾らか賢かったならば,あるいはこれまで享受してきた気遣いのほんの一欠けらだけでも
青年にお返しできる人間であったなら,この現実もまた夢と地続きであることに気付けたかもしれぬ.ただ悲しく哀れなことに,
それができれば抑ここへ至ることもなかったであろう.
因果は二人の出会いに萠芽した.上へ上へ翠鮮やかに育つを愛と呼んだところで,下りた根は肉叢を割り夢を現を抱き込んでもはや
境は態を成さない.
「からさん,その夢 いつから見るようになりましたか」
弱り果てた男の脆弱な精神の傍らにするりと沿う声がする.それでも元来の矜持のせいで臥薪嘗胆期が全ての基点だったと言えない.
「からさんが僕と出会う前,法律のお勉強をしていたころから だったりして」
いつもこんな風に,男が言葉に詰まると助け船を出してくれる好い人.本当に,まごうことなき救いの手であるか確かめもせず差し
出された手を取る.ずっとそうしてきたのだから,これで良いはずだと誰より自分が信じたい.
「塊,でしたか.丁度からさんに背を向けて蹲ったような人の姿ではありませんでしたか」
青年は何だって知っている.今もこうして
「暗いのは夜だったからですよ.だからよく見えなかったのでしょうね」
日頃,男の仕事を手伝って話を聞いてやるときのように,忘れんぼうの男の記憶を解いていく.
「くねる大きな蟲なんてね,いるわけないんです.しっかり骨が通っていて,関節の向きに曲がるだけの――つまり腕がまわされて
いたんです.一対の」
「あと足も絡めていたかな ねえ,からさん,蟲は4匹より多かったですか」
そうだ しなやかで若い男の腕と,それから――
「腐肉ですってね.おもしろいけどダメですよからさんってば.洋さん,お父様のことをそんな風に言っちゃあ」
中年男の後ろ姿.父の背がいつまでも広く見えるのはその恰幅の良さのせいだけではない.あの背中の後塵を拝し続けた人生であった.
「聞かれていたなんて恥ずかしいなぁ.でも僕の卑しく叫ぶ声と,もがくように手足を動かして捩じ切れんばかりに裂けそうなほど
四肢を張る奇矯なサマで喜ぶひとだから」「僕は叶えてあげたかったんです」
いっとう張り詰めた躰はあとは弛緩するのみ.父の背をすべりシーツの上に落ちた腕,泥岩のように滑らかな肌.今よりもっと
瑞々しい腕だった.やがてよく知ることとなる,腕.
ずいぶんと酷い顔になってますよ,からさん.今更じゃあないですか. 弾かれたように顔を上げれば情人と視線が交わる.
立ち上がり,卓へ臥せる様にこちらへ顔を寄せていた.冬の入り口の朝,外の空気は研いだように冷々としているはずだというのに
この部屋では春の雨に濡れたような色の瞳に男の姿が映っていた.吐息まで交わりそうだ.砂糖漬けの果皮と香ばしい甘さが脳髄を
揉みしだく.
かような仕打ちを受けるに理解が及ばない.
「悩みが解決してよかったですね.悪い夢なんてなかったんですよ」
両頬を広い手のひらで包まれる.砂のように乾いた肌だ.
これ以上青年の姿が視界にあるのは辛い.目を閉じてしまった.それでも瞼がひりつく.ジャムとそれからモカの香りそれぞれの輪郭
がはっきりわかるほど青年が近づいてきたのだ.予感に引き結んだ唇の震えが止まらない.口付けとはもっと幸せなものでなかったか.
額に得た濡れた感触に体が跳ねる.悪夢の正体から贈られた慈愛が神経に悪さをする.悪夢のような現実が本当に悪夢だったの
ではと錯覚しかけるが,男の頬の肉を掴み食い込む指は忘れもしない昨夜の情事で背中に縋ってきたものと同じ指だ.男たちの背中を
噛む指である.
男の胸中を乱すだけ乱した青年は,そ知らぬ風体で身を翻すと卓から離れていった.そっちにはソファがあったはず.目で追う気分
にもなれず,かといって朝食どころでもないのだが男はすっかり冷めたコーヒーを気にかけるふりで凝視する.いつものように,この
ままじゃあ飲めないよと自分の望むものを察して欲しいとねだればきっと青年のことだ,頼みを聞くのが嬉しくて仕方ないかのような
調子で男の望む通り世話を焼いてくれるに違いない.
日常に戻るべく,青年がお伺いを立ててくれるのを待つよりない.彼が長い脚を床に下ろしこちらに歩いてくるのを感じるが,
コーヒーなんぞ見るも嗅ぐも嫌になってしまったので逃げるように目を閉じた.(終)
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