恒心文庫:海原にのぞむ

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本文

ある日の夕暮れ、最近港区虎ノ門に法律事務所を構えたという親友のヤマオカは、我が社のヨーグルトと称して私にカスピ海ヨーグルトを渡してきた。
なんともおかしな話だが彼は産業スパイで、とあるヨーグルトの秘密を探るために弁護士になったのであり、実際は某食品会社に勤めているらしい。
カスピ海ヨーグルトについては存在を知っている程度で、どういうものか知らなかった私は──今思うと恥ずかしい話だが──カスピ海の水でも使っているのかと思い込んでいて、つい「しょっぱくない」と呟いてしまった。
私の勘違いを耳にした親友は爽やかに笑い、カスピ海ヨーグルトのルーツについて教えてくれた。

確かにカスピ海は塩湖だけれど、名前の由来はそうではないんだ。
ある日本人がカスピ海周辺、コーカサス地方の住民の長寿の秘訣を探り、最終的に出会ったのがヨーグルトだった。
そのヨーグルトの種菌を利用して製造したのが、現在日本で販売されているカスピ海ヨーグルトなんだ、と。

解説を終えたヤマオカは、彼が調査しているというヨーグルト「海原会ヨーグルト」を渡してきた。
小洒落た瓶に詰められた白いそれは、非常に人気がありながらも常に一定量しか製造されず、入手は困難だという。
そして特筆すべきはその製造者である。なんとタカヒロという弁護士とその父親ヒロシなのだ。ヤマオカが弁護士になったのもその弁護士に接近するためである。
食品の製造とは一切関係の無い者達が作るヨーグルト。──果たしてどんな味なのか。
私は毒見でもするかのように恐る恐るそのシロモノを口に入れた。
確かにそれは毒物だった。なんせ、以降市販のヨーグルトでは満足できなくなってしまったのだから──。

頻繁に口に入っていくコーンの果肉がちょうど良く歯茎に刺激を与え、ニラやトマトの皮は純白の聖域を侵す不純物とはならず、むしろ鮮やかな彩りが神聖な空間をより一層豪華に仕立て上げている。
何より印象に残るのが先ほど食べたヨーグルトには無かった仄かな塩気だ。これが私をまるで広大な海原に包まれているような感覚に陥らせる。
そして不思議な事にこのヨーグルトを食べている最中、私はどこか憧れのような気持ちを抱いていた。最初はヨーグルトにだと思ったが、それは少し違う気もする。とにかく、この時の私には理解することが出来なかった。

ヤマオカは製造過程についても話そうとしていたが、残念ながら急用が入ってしまったということで、海原会ヨーグルトに関する資料とおかわりを一つ寄越して去っていった。
結局、何故彼が情報漏洩のリスクを冒してまで、私にヨーグルトの食べ比べをさせたのかは分からなかった。案外深い理由などなかったのかもしれない。

家に帰った私はヤマオカから渡された資料を熟読し、雑多に書かれた情報を頭の中で整理していった。まとめるとこういった内容だった。

まず、海原会ヨーグルトの種菌となるのは腸内細菌だ。浣腸でヒロシの腸内を綺麗にしたら、タカヒロとヒロシが数時間かけて性行為を行う。こうしてヒロシの腸内に射精された精液をひりだし、かき集めたものがベースとなる。
あとはヒロシが丹念に母乳を与え、数日ほど静置するだけだ。だけなのだが、そこには普通のヨーグルトとは違う、深い親の愛が詰まっている。
ヒロシとタカヒロの性行為によって産みだされ、ヒロシの母乳によって育てられた、これは最早二人の子供と言ってもよい。
そんな子供が旅立つ直前、ヒロシは自らの子供をじっと眺め、涙をこぼす。こうして親の愛を注がれて成長した海原会ヨーグルトは、カスピ海ヨーグルトと同じような粘り気と風味を持ちながらも、強く感情に訴えかける味をしているのだ。


私は瓶を開け、改めて海原会ヨーグルトを食べてみた。
味は一つ目と変わらないが、その時とは違って腑に落ちるものがあった。
私が憧れたのはこのヨーグルトではなく、その奥にいる二人の存在──。

──私も彼らのようになれるだろうか。

私はヤマオカのいる事務所に入ることを決意した。

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