恒心文庫:厚子「ワキガ」
本文
ミミズ千匹、カズノコ天井、地獄万力と言われなくなってから久しい。
かつて男(洋)を悶えさせたミミズはとっくの昔に干上がり、カズノコも酢浸けにされ過ぎたような臭気を放っている。
そして自慢の締めはというと、もはや二人の子(一人は肥満)を産んだ弊害により、ウンコ座りした途端に子宮口が外に飛び出してくる程だ。
まともに手入れもせず蜘蛛の巣どころか垢と粘液が混ざった黄色い糸で蜘蛛を絡め取るまで深化してしまった。
さらに裸族である。日中出歩く時、雨が降ってもアラレが降っても買い物をしていても、下半身は必ずさらしているのだ。
だから近所の人には分かる。
くっさ!厚子やんけ!
しかし商店街の人々は、逃げられない。商品を置いて逃げるわけにはいかない。運が良ければ通り過ぎるだけなのだ。運が悪ければ…。
厚子が、局部をかきながら、八百屋に近づいていく。そして糸を引いた指先が、店先に並んだ大根を掴んだ。
終わった。八百屋のおやじは極度の緊張と臭気で倒れ伏し、野菜の苗床となった。
その間にも厚子は、マンコを忙しそうに掻きむしりながら、野菜を選んでいく。トマトを黒ずんだ爪で押し潰すとしばらくしてからカゴに戻し、瓜にいたっては局部に二三度挿入してからカゴに戻した。
そしてより綺麗な、太い大根を4、5本選ぶと、突如としてその場でウンコ座りをした。
ぶりゅっ。座り込んだ勢いで、弛みきった腹の奥から、勢いよく子宮口が顔を覗かせていた。毒々しいまでの赤黒さ。その中でも特に黒ずんでいる口元を、厚子は両の指先でせわしなくまさぐる。
ぐちゅるちゅぐちゅるぐ。
やけに粘度の高い水音が店先に響く。厚子は構わず子宮口をいじくり回し、野太い喘ぎ声が昼の商店街にこだまする。
耐えられず吐きはじめる魚屋、涙でスーツを汚すクリーニング屋、爆発する事務所。
騒然とする商店街の中、やがて動きを止めた厚子の手の平には、500円玉が乗せられていた。
厚子が数の子を出産した。太陽はもう見えなくなっていた。
仕込みは数日前に終わっていた。
愛の巣で厚子は自らのどす黒い女性器を広げ、そこに洋が精液を注ぎ込んだ。
快楽など感じない。
数の子を産む機械として自分は生かされているのだと厚子は思っていた。
だから厚子のひりだす数の子は例外なく受精していた。
この数の子を放っておけばやがて子に育つ。有能か無能かは分からないが、とにかく子が育つ。
休む暇はない。
数の子をひりだしひりだしひりだす。
その繰り返し。
洋も虚ろな眼をして、その数の子に射精する。
単なる生命の営みであった。
愛や欲望によらない、生物としての純粋な行為。
彼女の産み落とした数の子の一部は、スーパーで売られどこかの食卓の上にお節として並ぶかもしれない。
だからこそ何万何十万という数の子を産み落とし、生存可能性を高めるのである。
太陽の届かない海の底、今日もこのニシンは暗い顔をして卵を産む。
子どもたちの顔を思い浮かべながら。
厚子はワキガである。すえた様な、しかしどこか酸っぱい様な、同時に苦い様な。ともかく顔をしかめずにはいられない匂いを、腋の下から耐えず垂れ流している。
当然近所には爆臭ババアと噂され、だというのに、彼女はこりもせずタンクトップ一丁で駆け回っているのだ。
そうして今日も、厚子は外に出ていた。ひしめく人の群れ、しかしその中に不自然な空白があり、その中心に当たり前の様に厚子は立っていた。それほど臭いのである。それほど耐えられないのである。
ただ彼女はどこ吹く風、今日は腹巻き一丁で外に居るのだ。
しばらくして、アナウンスが響く。同時に規則だって動き出す人の群れ。そのひしめく人々の目的は電車であった。
電車の入り口が開くであろう場所を予測しながら、人々は駆け引きの如く渦巻いて居るのだ。その様子を、厚子は露出した大陰唇をかきながら目の表面に映している。
さながら超越した存在のように。やがて電車が止まり、人々の動きが止まり、そうして厚子は動き出す。途端、群れが割れる。まるでモーセの如く、悶絶し倒れ伏した人々の上を厚子は悠々と歩いていく。
まるで臭いが歩いているようだ。人々には厚子の周囲が歪んで見えていた。臭すぎるのだ。そうして動けない人々の視界、その中心から突如として厚子がかき消えた。
というのも、電車とホームの隙間に落ち、はまったのだ。しばらくして、身動きできない厚子が苦しそうにうめき声をあげ始めた。
実は、この時厚子は妊娠していた。妊娠40298日である。あまりに出てこないので、病院に行こうと電車に足をかけようとしたのだ。腹を冷やさないように、腹巻もした。しかしその仕打ちがこれである。
重苦しい沈黙の中、厚子は唐突に右腕を高々と振り上げた。途端、すえた匂いが辺りに広がっていく。ワキガだ。
上手く処理できなかったのか、ポツポツと突き立った毛で赤くかぶれた腋の下が、白日のもとに晒されている。駅員がアナウンスで吐く。
厚子は左手で右の腋をかきむしる。すると、なんたることか、腋の下、薄い皮膚の下で何かが蠢いているのだ。それどころか、今にも外に出ようとせり上がり、ふと飛び出した。
あああああああああああああああああああああああああああああああ!!! !!!!!!!!
炎天下、こうして唐澤貴洋が生まれたのである。
タイトルについて
この作品は公開された際タイトルがありませんでした。このタイトルは便宜上付けたものです。