「麻原彰晃」の版間の差分
>津島蓮生 (独自研究だらけですが取り急ぎ。) |
(相違点なし)
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2014年9月7日 (日) 02:10時点における版
松本智津夫 | |
基本資料 | |
本名 | 麻原彰晃 |
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別名・渾名 | 尊師、旧尊師 |
生年月日・年齢 | 68~69歳、1955年生まれ |
住所 | 東京都葛飾区小菅1-35-1[1] |
出生地 | 熊本県(wp)八代市 |
身体情報 | デブ、髭が濃い、髪が長い |
才能 | 無能 |
特定経緯 | 逮捕 |
騒動との関連 | 尊師の前任 |
職業 | 宗教家 |
所属 | 死刑囚 |
出身高校 | 熊本県立盲学校 |
趣味 | 空中浮揚、アニメ鑑賞、水泳 |
関係者 | |
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麻原彰晃(あさはらしょうこう、1955年~)とはかつてのオウム真理教の指導者。オウム真理教の信徒からは「尊師」、恒心教徒からは「旧尊師」と呼ばれている。ホーリーネームは「マハー・グル・アサハラ」。
経歴
1955年3月2日に熊本県八代郡金剛村(現在の八代市高植本町)の畳職人の4男として生まれる。
1961年に八代市立金剛小学校に入学後、熊本県立盲学校に転校。先天的緑内障のため左目がほとんど見えないのが理由だったが、右目は視力が1.0あり、校内で権力をふるっていたという。1975年に高等部を卒業、一時上京するも9月には実家に戻る。1977年、再上京し東京大学文科1類を目指して代々木ゼミナールに通うも挫折。
1980年に新興宗教団体阿含宗に入信。後のオウム真理教のシステムの根本を考案。1984年、ヨガ道場「オウムの会」を組織、自らを「麻原彰晃」と名乗り始める。後に「オウム神仙の会」と改称し、最終的に「オウム真理教」となり、1989年、オウム真理教が宗教法人として認可される。1990年、第39回衆議院議員選挙に東京4区から出馬するも13位で落選。
1995年 5月16日に山梨県西八代郡上九一色村(現在の南都留郡富士河口湖町)第六サティアンにて逮捕[2]。1996年4月24日に13の事件に関する初公判。傍聴希望者は日本の刑事裁判史上最も多い12,292人であった。2006年9月15日、最高裁判所が特別抗告を棄却し無事死刑が確定。現在は東京拘置所にて脱糞三昧の日々[3]を送っている。
概要
言わずと知れたオウム真理教教祖。自らを「最終解脱者」と称し、空中浮遊やテレパシー、霊能力などがあるとしてマスコミに大々的な宣伝を行った。また、従来の宗教とはまったく異なる新しい修行形態が注目され、当時の「新・新興宗教」ブームの代表格[4]に位置付けられTVや雑誌にも多数出演し、「宗教おじさん」としてイロモノ的扱いを受けていた。またダライ・ラマなどのチベット仏教界の要人との対談も果たし、世の有識者にはある程度実力を認められていた。
一方で教団内では問題が起こると幹部に対応を丸投げしたり、「最終解脱者だからセーフ」というワイルドカードを乱用して自分だけ贅沢三昧の生活を送り、10代の女性信者に対するGP行為を働くなど自己中心的で横暴な振る舞いが見られ、挙句の果てには自分に反抗する勢力を暗殺させるまでに至った。そして95年の地下鉄サリン事件によって逮捕、マスコミにより教団の実態や数々の余罪について報道がなされると、世間からはキチガイテロリストとして認識される。
「ポア」や「サティアン」などの単語を(捻じ曲がった意味で)世に広めた人物。また、髪と髭を伸び放題にした顔はもれなく麻原扱いを受けるといった甚大な風評被害をもたらした。
旧尊師と現尊師
麻原は教団内では「尊師」(仏教用語の「グル」に相当。「指導者」の意を持つ)と呼ばれており、また90年の衆院選にて選挙運動の一環として流された「尊師マーチ」ではこの言葉が連呼されたこともあり、人々に強く印象付けられた。
時は進んで2012年、弁護士唐澤 貴洋によりなんJ民への宣戦布告が始まったちょうど同時期にNHKスペシャル「未解決事件」にてオウム真理教事件が特集され、再現ドラマのクオリティの高さなどからなんJ民の間で評判となる。そして放送後のしばらくの間なんJではオウムブームともいえるネタの応酬が続き、ちょうど新鮮な話題であった唐澤は強制的に「尊師」の扱いを受けることとなってしまった。
唐澤に対する「尊師」の渾名が定着するにつれ本来の尊師であるはずの麻原は自動的に「旧尊師」に降格。ネット上で麻原の話題が登場する際にはなんJ内でのみ称号に「旧」が付いてしまう結果となった。
なお唐澤を「旧」と比較して「新尊師」と呼ぶ例があるが、現在では唐澤新弁護士と混同する恐れがあるため「現尊師」の呼称が望ましい。