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'''BC級戦犯60年目の証言と日本の戦争'''(びーしーきゅうせんぱんろくじゅうねんめのしょうげんとにほんのせんそう)は、[[河野一英]] | '''BC級戦犯60年目の証言と日本の戦争'''(びーしーきゅうせんぱんろくじゅうねんめのしょうげんとにほんのせんそう)は、[[河野一英]]が1994年に[http://fruits.jp/~kikyorai-yard/wadatsuminokoe/magazine.html 機関誌『わだつみのこえ』127号]に寄稿したコラムである。 | ||
== 概要 == | == 概要 == | ||
太平洋戦争末期、{{wpl|呉鎮守府第101特別陸戦隊}}(S特潜・山岡部隊) | 太平洋戦争末期、{{wpl|呉鎮守府第101特別陸戦隊}}(S特潜・山岡部隊)に海軍大尉として所属していた河野一英は、当時の日本領アンダマン島の司令部にて基地の管理と対英攻撃をすることになりその過程で現地住民のヘブロック島への移送指揮を執るはずだったのだが二日前に任を解かれ、任務は谷岡中尉、鶴田少尉の担当となる。戦後にこの移送は戦争犯罪([http://stomach122.jugem.jp/?eid=1289 アンダマン・ニコバル諸島海軍司令部事件]<ref>現地日本軍司令部による英軍捕虜及び現地原住民への飢餓による計画的虐待・虐殺事件</ref>)とされ、担当者である谷岡中尉他はチャンギー刑務所で絞首刑となり、一歩違えば自分が刑に処されていたと振り返っている。 | ||
== 全文 == | == 全文 == | ||
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==資料== | |||
[http://megurokai-h.jugem.jp/?eid=333 続・トンツー談義(95) 海軍時代の記憶 -山岡部隊のことー] | |||
当時の陸海軍々人で長髪の者は居ませんでした、或る時、物資補給のため横須賀の補給部へ行った時、夜、映画を見に行きました、映画館は満員で私は端の方に立って見ていましたが長髪のため軍帽を被ったままでした。 | |||
そのうち後ろの方から「其処の兵隊帽子を取れ」と云う声がかかり帽子を取り最後まで映画を見て帰ろうとしたら、腕を強く握られ「この髪は何だ」と長髪の髪を引っ張られたので、「私は館山砲術学校に居る山岡部隊の者です、司令の命令で髪を伸ばしています、海軍の軍令部に問い合わせて下さい」と言い、そのまま約15分位したら「帰って宜しい」と無罪放免された事を今でもハッキリ覚えています。 | |||
館山の軍事施設の由来を記した「館山基地物語」にも幻部隊とか忍者部隊として一時記載されていた様です。私達の宿舎はこの砲術学校の一番奥にあり奥兵舎と呼ばれていました。 | |||
此所での訓練は以上のような目的のため、日常の簡単な英会話、英文の判読、及び野外訓練としては夜間訓練が主となり、日没時から夜明けまで南房総の山野を歩き回り、体力増強、方向維持訓練及び忍者の様な夜間訓練だけでした。 | |||
これは予め2~30キロ先に目標物を置き、日没と同時にその目標物に向け地図と磁石を頼りに5~6人が一団となり行動を始めます、そして目標物の傍に「爆薬」と書いた紙片を置いて夜明け迄には宿舎に帰らなければなりません。 | |||
当時の思い出話として、現在も海自の「隊友会」の集いの席上で必ず話題になるのが、各自、約10キロの砂袋を背負い、館山から靖国神社まで2泊3日の往復徒歩行軍でした。全行程約200キロ弱で、1日5~60キロを目標に歩いた事になります。誰一人として落伍者は無く無事この訓練の成果が出た事は、今も語り草になっています。 | |||
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[http://keshiintokorozawa.web.fc2.com/faq08j12o20.html 軍事板常見発見◆◆◆部隊各論] | |||
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【質問】<br> | |||
旧日本海軍に存在した特殊部隊について教えてください<br> | |||
【回答】<br> | |||
旧日本海軍には特殊部隊が存在しました.<br> | |||
呉鎮守府に存在した呉鎮守府第101特別陸戦隊でした.この部隊は,ただの海軍陸戦隊ではありません.<br> | |||
敵地に潜入して敵基地の破壊工作を行う海軍のコマンド部隊でした.<br> | |||
ネットでは詳しい資料が存在しなかったので,ウィキペディアの資料を参考にしますが,<br> | |||
呉鎮守府第101特別陸戦隊は指揮官が山岡大二少佐であったため,山岡部隊という通称がつけられていました.p | |||
また,潜水艦に乗っての破壊工作を想定していたの,でS特攻部隊(S特)とも言われていました.<br> | |||
旧日本海軍にはこの山岡部隊の他にも,佐世保鎮守府第101特別陸戦隊(山辺部隊)や 同第102特別陸戦隊(常盤部隊)などが存在していました.<br> | |||
任務はアメリカ海軍のUDT(後のSEALS),英国のSBS(海兵隊特別舟艇部隊),イタリア海軍空挺/潜水大隊と同じ任務を持っていただけでなく,<br> | |||
破壊工作活動も任務としていたので,ドイツのオットー・スコルツェニーSS少佐を指揮官とするSSコマンド部隊や,<br> | |||
韓国空軍の684部隊(シルミド部隊)と同じ性格の任務も持っていました.<br> | |||
1944年に館山海軍砲術学校で編成,主に風格が欧米人風で,知力・体力に優れた兵士が350名選抜されました.<br> | |||
英語やアメリカ本土に関する地理や交通,風習に関する教育が徹底され,隊員の食事もアメリカ風でした.<br> | |||
また,短い自動小銃をはじめ40kgの荷物を背負って,一日60kmを駆け足で移動する強行軍や,<br> | |||
富浦町大房岬の海岸にある100m近い絶壁を素手で登る訓練も行うなど,<br> | |||
さながらSASやSEALS並みの訓練が行われました.また訓練は夜間に行われました.<br> | |||
当初の計画では,グアムやサイパンなどの島に潜水艦で近づき,深夜の闇に紛れて敵基地や航空機を破壊する作戦が想定されましたが,<br> | |||
大戦末期による米駆逐艦の哨戒活動が活発化したので断念.<br> | |||
1944年にはカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のボーイング,ダグラス等の軍需工場破壊計画が立案され,ゴムボートで米本土に上陸,<br> | |||
山中を拠点に車を強奪して工場に向かう計画が立てられた他,米大統領暗殺命令も出ていたとも言われています.<br> | |||
しかしこちらも,沖縄戦激化のため中止.<br> | |||
本土空襲が激化すると,マリアナ諸島のB-29爆撃機破壊を目的とした「剣」作戦が計画されました.<br> | |||
一式陸攻に隊員を乗せてサイパンやグアムに強行着陸し,B-29を破壊する計画だったそうです.<br> | |||
また,300名の陸軍空挺部隊と共同攻撃や,機銃を増設した銀河72機による攻撃も計画されました.<br> | |||
広島と長崎に原爆が投下されると,原爆貯蔵庫だったテニアンもターゲットに追加されましたが,<br> | |||
当時三沢基地にいた山岡部隊は,青森大空襲による三沢基地の破壊により計画を延長,<br> | |||
その間に日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏したので,結局,山岡部隊は一度も実戦に参加する事はありませんでした.<br> | |||
なお,山岡少佐は後に海上警備隊(後の海上自衛隊)に入隊.<br> | |||
1968年1月,海上自衛隊を海将補で退官し,1991年に他界しています.<br> | |||
しかし,これほどのコマンド部隊が旧日本海軍に存在したとは,恥ずかしい話,つい最近まで知りませんでした.<br> | |||
なお,現在の海自の特殊部隊「特別警備隊」はSBSから訓練を受けている事から,これらの任務が付与されている可能性はありますが,<br> | |||
何分こちらも隠密部隊なので,実際はどうなのかはわかりません.バルセロニスタのCR-Z in mixi,2010年03月09日10:06<br> | |||
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== 脚注 == | == 脚注 == | ||
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