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'''BC級戦犯60年目の証言と日本の戦争'''(びーしーきゅうせんぱんろくじゅうねんめのしょうげんとにほんのせんそう)は、[[河野一英]] | '''BC級戦犯60年目の証言と日本の戦争'''(びーしーきゅうせんぱんろくじゅうねんめのしょうげんとにほんのせんそう)は、[[河野一英]]が1994年に[http://fruits.jp/~kikyorai-yard/wadatsuminokoe/magazine.html 機関誌『わだつみのこえ』127号]に寄稿したコラムである。 | ||
== 概要 == | == 概要 == | ||
太平洋戦争末期、{{wpl|呉鎮守府第101特別陸戦隊}}(S特潜・山岡部隊) | 太平洋戦争末期、{{wpl|呉鎮守府第101特別陸戦隊}}(S特潜・山岡部隊)に海軍大尉として所属していた河野一英は、当時の日本領アンダマン島の司令部にて基地の管理と対英攻撃をすることになりその過程で現地住民のヘブロック島への移送指揮を執るはずだったのだが二日前に任を解かれ、任務は谷岡中尉、鶴田少尉の担当となる。戦後にこの移送は戦争犯罪([http://stomach122.jugem.jp/?eid=1289 アンダマン・ニコバル諸島海軍司令部事件]<ref>現地日本軍司令部による英軍捕虜及び現地原住民への飢餓による計画的虐待・虐殺事件</ref>)とされ、担当者である谷岡中尉他はチャンギー刑務所で絞首刑となり、一歩違えば自分が刑に処されていたと振り返っている。 | ||
== 全文 == | == 全文 == | ||
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では、兵科予備学生の制度からお話します。第一期の学生は二八〇名のうち二三〇名は帝大や国立大学の卒業生で、第二期は四〇〇名のうち三〇〇名が帝大か国立大学の卒業生で、これらは海軍省人事部好みで選んできましが、私ども兵予三期になると、戦局がおかしくなって来たこともあり、私立大学の優秀な者も含め、三六〇〇名も選ぶようになったのです。<br> | では、兵科予備学生の制度からお話します。第一期の学生は二八〇名のうち二三〇名は帝大や国立大学の卒業生で、第二期は四〇〇名のうち三〇〇名が帝大か国立大学の卒業生で、これらは海軍省人事部好みで選んできましが、私ども兵予三期になると、戦局がおかしくなって来たこともあり、私立大学の優秀な者も含め、三六〇〇名も選ぶようになったのです。<br> | ||
私たち三期までは、予学の試験に合格して館山の砲術学校に入った途端、いきなり少尉候補生と兵曹長の間の身分(准少尉候補生)が与えられました。娑婆(軍隊のそとの社会)から、いっぺんに水兵や下士官の地位を飛び越え、士官服着用と短剣を吊すことが許されのです。さて、私たちは、基礎教程の三ヶ月がおわり翌十九年一月になると、術科がわかれ、砲術、陸戦、航海、通僧などにわかれた。そのうち、私は優秀なトップ・グループ(陸戦)の二〇名に選ばれ、「山岡部隊」という特殊部隊要員になったのです。<br> | |||
予備学生と言えば、本誌の前号、第一二六号の「戦争体験者の証言」(硫黄島玉砕の真実)の大曲覚さんも予備学生の同期です。彼は飛行整備ですね(私も今年三月十四日に硫黄島で日米共同慰霊祭があり、参加してきました)。「山岡部隊」(司令・山岡大二少佐)という特殊部隊ができた理由は、こういういきさつがありました。海軍の将校も入っていた「神兵隊事件」があったのです。この神兵隊という集まりが、海軍省に「イ号潜水艦を一〇隻用意しろ。アメリカ本土に、われわれ神兵隊が攻撃に行く」という上申書を出したのです。その結果、海軍は神兵隊の上申に刺激されたかどうか分かりませんが、特殊部隊を編成して、これをやろうと決めました。その特殊部隊に、私たち二〇名(陸戦)の予備学生が特別選抜されたわけです。だから私の場合、残った予備学生たちとは違い、特別の馴練を受け、任官も進級も早かったのです。終戦近くには大尉になっていました。<br> | |||
■ 山岡部隊は特攻特殊部隊<br> | ■ 山岡部隊は特攻特殊部隊<br> | ||
山岡部隊はどういう部隊なのか、それを話しましょう。<br> | 山岡部隊はどういう部隊なのか、それを話しましょう。<br> | ||
大変な部隊でして、イ号潜水艦を八隻、それに五〇名ずつ特殊攻撃部隊を乗せまして、この四〇〇名でシャトルでB29を製作しているボーイング工場を占領して爆砕する。それと、ロスアンゼルスのロッキードの工場も攻撃し破壊するという任務を持っていたのでした。<br> | 大変な部隊でして、イ号潜水艦を八隻、それに五〇名ずつ特殊攻撃部隊を乗せまして、この四〇〇名でシャトルでB29を製作しているボーイング工場を占領して爆砕する。それと、ロスアンゼルスのロッキードの工場も攻撃し破壊するという任務を持っていたのでした。<br> | ||
しかし、前大戦中、日本軍が米本土で破壊活動を行った事実はない。「イ号潜水艦」は開戦後すぐほとんどやられたからです。優れた米軍の音響探知機に捕捉されてしまったのです。<br> | |||
(注) イ号潜水艦とは、艦の排水量など性能によって、それぞれ伊号・呂号と区別されていた。伊号四百号型になると、水上排水量三五三〇トン、全長一二二メートル、速力水上一九ノット(水中六・五ノット)、発射管八門搭載。これら四〇〇型潜水艦は潜水空母とよばれ飛行機を数台搭載していた。<br> | (注) イ号潜水艦とは、艦の排水量など性能によって、それぞれ伊号・呂号と区別されていた。伊号四百号型になると、水上排水量三五三〇トン、全長一二二メートル、速力水上一九ノット(水中六・五ノット)、発射管八門搭載。これら四〇〇型潜水艦は潜水空母とよばれ飛行機を数台搭載していた。<br> | ||
だが、事実、私たちのように、この山岡部隊要員として編成され、訓練を受けた者たちが実在したのです。その名はS特(エスとく)。S特のSはサブマリン(潜水艦)の頭文字をとったものです。S特は、任務上、高度の機密保持を要求された。選抜基準も厳しかった。「当隊は生還を期せざる必死隊なり」と編成表に書かれていた。<br> | だが、事実、私たちのように、この山岡部隊要員として編成され、訓練を受けた者たちが実在したのです。その名はS特(エスとく)。S特のSはサブマリン(潜水艦)の頭文字をとったものです。S特は、任務上、高度の機密保持を要求された。選抜基準も厳しかった。「当隊は生還を期せざる必死隊なり」と編成表に書かれていた。<br> | ||
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(注) 一式陸攻とは、一式陸上攻撃機のことで、乗員七名、最大時速四三七キロ、二〇ミリ機関砲二門、七・七ミリ機銃四挺、二五〇キロ爆弾四個搭載。<br> | (注) 一式陸攻とは、一式陸上攻撃機のことで、乗員七名、最大時速四三七キロ、二〇ミリ機関砲二門、七・七ミリ機銃四挺、二五〇キロ爆弾四個搭載。<br> | ||
「山岡部隊」の陸攻によるテニアン島攻撃計画はアメリカの機動部隊に発見されてしまい、三沢と苫小牧に集結した一式陸攻六〇機のうち五四機が集中攻撃され破壊、たった六機が残った。不可能と断定され、「山岡部隊」の攻撃は以後中止になった。山岡司令から種々攻撃の意見具申があったが、採用されなかったようです。<br> | 「山岡部隊」の陸攻によるテニアン島攻撃計画はアメリカの機動部隊に発見されてしまい、三沢と苫小牧に集結した一式陸攻六〇機のうち五四機が集中攻撃され破壊、たった六機が残った。不可能と断定され、「山岡部隊」の攻撃は以後中止になった。山岡司令から種々攻撃の意見具申があったが、採用されなかったようです。<br> | ||
また、私がアンダマンの司令部で無線通信傍受で知ったのですが、いわゆる「マリアナ沖海戦」です。日本軍が昭和十九年六月、マリアナ諸島の上陸作戦を支援する米機動部隊を攻撃する「ア号作戦」の大航空決戦の計画が実施されたが、出撃した日本軍約一二〇〇機が途中で待ち伏せされ大半をうしなったのです。かろうじて到達した日本側攻撃機は米軍機の投下した「熱センター」爆撃を浴びて全滅したようです。これによって、日本側は搭乗員三五〇〇人を失ってしまったといわれています。開戦二年半、科学技術とそれを量産できる国力の差がはっきりあらわれ、惨敗したのです。学んだものは「プラグマティズム」です。哲学と科学を融合した合理的な思想はアングロサクソン流のグローバルスタンダードの理解に不可欠だと思います。<br> | |||
■ 最果てのアンダマンに赴任<br> | ■ 最果てのアンダマンに赴任<br> | ||
では、私の生い立ちから……。 私は、大正九年八月に朝鮮京城市で生まれ、一ヶ月後に広島県を経て東京の田園調布に移り、そこで成長しました。昭和十三年に東京府立第一商業を卒業、明治大学に入り、十八年九月繰り上げ卒業。同年十月海軍予備学生となって館山海軍砲術学校に入隊しました。四ヶ月の基礎教程を終わって翌十九年三月、恩賜優等賞を受け卒業し、海軍少尉になり、そのさい特別攻撃隊要員に選ぱれたのです。<br> | |||
二〇名の私たち特別攻撃隊要員(陸戦)はニケ月間も佐藤清忠少佐という猛烈教官によって、朝から晩まで叩かれ訓練をうけました。山岡部隊が編成されたのは昭和十九年三月、私たち二〇名は陸戦班の少尉になり実戦の戦場へと任地が決まりそれぞれ出発しました。同期の小澤さんたちはその後、五月三十一日少尉任官したのです。<br> | |||
私はインド洋、アンダマンの第十二特別根拠地隊にいちおう赴任することになりました。「海軍兵学校の特殊部隊担当教官に採用する」という辞令が、昭和十九年十二月一日に来ました。しかし、根拠地隊司令部で先任参謀の副官という作戦参謀みたいな仕事をさせられていたのです。司令部で放してくれないのです。こうして、私はついに終戦までインド洋にいました。<br> | |||
では、館砲(館山砲術学校)出発から司令部勤務になるまでをまとめます。<br> | では、館砲(館山砲術学校)出発から司令部勤務になるまでをまとめます。<br> | ||
私は、戦況悪化のなかを海軍の輸送機で羽田、雁ノ巣、喜界島(不時着)、シンガポール、インド洋のカーニコバル島を経てアンダマン島・ポート・ブレアの第十二特別根拠地隊に着任しました。<br> | 私は、戦況悪化のなかを海軍の輸送機で羽田、雁ノ巣、喜界島(不時着)、シンガポール、インド洋のカーニコバル島を経てアンダマン島・ポート・ブレアの第十二特別根拠地隊に着任しました。<br> | ||
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カーニコバル島は、コーヒーの皿のような平たい島で、ここに日本軍は十文字に二〇〇〇メートルの飛行場を作りました。何のために作ったかと言いますと、航空研究所で作った航研機(当時の青少年を沸かした長距離飛行の単発大型機)を二機持ってきて、ここからドイツに無着陸飛行をさせようとしました。乗っていたのは有名な塚越操縦士ともう一人の機関士だったが出発後に行方不明になってしまったのです。滑走路が二〇〇〇メートルないと、石油を満タンにして離陸ができないのです。さらに、スマトラに近付きますと、ナンコーリ島があり、ここに海軍第十五警備隊がいました。この島は海賊島と言われ、現在でもインド洋の海賊がいるそうです。<br> | カーニコバル島は、コーヒーの皿のような平たい島で、ここに日本軍は十文字に二〇〇〇メートルの飛行場を作りました。何のために作ったかと言いますと、航空研究所で作った航研機(当時の青少年を沸かした長距離飛行の単発大型機)を二機持ってきて、ここからドイツに無着陸飛行をさせようとしました。乗っていたのは有名な塚越操縦士ともう一人の機関士だったが出発後に行方不明になってしまったのです。滑走路が二〇〇〇メートルないと、石油を満タンにして離陸ができないのです。さらに、スマトラに近付きますと、ナンコーリ島があり、ここに海軍第十五警備隊がいました。この島は海賊島と言われ、現在でもインド洋の海賊がいるそうです。<br> | ||
これらの島々が、アンダマンのポート・ブレアを中心に、北端の電探基地・大ココ島までを包括した、海軍・陸軍のラバウルみたいな基地が第十二特別根拠地隊なのです。私は担当である大ココ島に四回、スチュワード・サンドにも四回、その他の島々も何回か巡回しました。<br> | これらの島々が、アンダマンのポート・ブレアを中心に、北端の電探基地・大ココ島までを包括した、海軍・陸軍のラバウルみたいな基地が第十二特別根拠地隊なのです。私は担当である大ココ島に四回、スチュワード・サンドにも四回、その他の島々も何回か巡回しました。<br> | ||
私がアンダマンに着任してから二ケ月くらい経った頃、後発の少尉たち三十名が、それぞれに、いろいろな赴任コースを採ってこの第十二特別根拠地隊に着任して来ました。ほとんどが陸警隊要員でした。しかし、小澤少尉のみが水警隊の分隊士に選ぱれました。ほとんどが海で活躍したい連中だったから羨望の的だったね。同君はまず高速哨戒艇の「隼」の艇長になった。ついで、シンガポールから新造船二隻の回航指揮官を命ぜられて、これも任務を達成した。いってみれば三期予備学生で一番活躍した士官かもしれない。<br> | |||
だが、不幸なことがあった。小澤少尉がマラッカ海峡やペナン、インド洋で苦労の航海をやっているとき、君の後任「隼」艇長になった森英一少尉(東農大卒、同期)が翌二十年二月、大ココ島スチァートの近くで英軍機四機と交戦、戦死した。<br> | だが、不幸なことがあった。小澤少尉がマラッカ海峡やペナン、インド洋で苦労の航海をやっているとき、君の後任「隼」艇長になった森英一少尉(東農大卒、同期)が翌二十年二月、大ココ島スチァートの近くで英軍機四機と交戦、戦死した。<br> | ||
小澤、お前はまったくついていた男だよ。<br> | 小澤、お前はまったくついていた男だよ。<br> | ||
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英国の支配下時代には政治犯や凶悪犯を収容する流刑島であり、インド人住民の多くは囚人とその末裔でした。農耕による生産活動は乏しく、食糧は近隣のビルマやインドから運ばれていたのです。英軍の海上封鎖が強まるにつれて兵粗攻め、スパイ・ゲリラの送り込みも激しくなった。<br> | 英国の支配下時代には政治犯や凶悪犯を収容する流刑島であり、インド人住民の多くは囚人とその末裔でした。農耕による生産活動は乏しく、食糧は近隣のビルマやインドから運ばれていたのです。英軍の海上封鎖が強まるにつれて兵粗攻め、スパイ・ゲリラの送り込みも激しくなった。<br> | ||
軍政方針で自給自足を促進して農耕指導を行っても、配給になれてしまった島民には受け入れられず、敵軍の来襲を避けての「部落民移動」も理解されなかった。<br> | 軍政方針で自給自足を促進して農耕指導を行っても、配給になれてしまった島民には受け入れられず、敵軍の来襲を避けての「部落民移動」も理解されなかった。<br> | ||
戦争の末期、アンダマン島にいたインド人六〇〇名ほどを、陸海軍が別けて三〇〇名ずつ隔離するすることになったのです。海軍は実施する二日前まで、そのインド人をアンダマン島の東側にある、ヘプロック島という無人島に移送する指揮官に私と末吉(予備学同期の三期)と決っていました。この島民隔離の移送が、後にいう「ヘブロック事件」なのです。<br> | |||
ところが、ここで問題が起きたのです。海軍には「軍令承行令」というものがあって、海軍兵学校出身者は下位の少尉にいたるまで、他の全ての将校より優先する指揮権規定があったのです(昭和十九年半ばで海軍機関学校出身者もこれに加わる)。これが軍の中の天皇制です。アンダマンには前にお話ししたように、兵学校出の司令官と先任参謀がおられ、その下で私が中尉で作戦の補助業務をやっていたのです。<br> | ところが、ここで問題が起きたのです。海軍には「軍令承行令」というものがあって、海軍兵学校出身者は下位の少尉にいたるまで、他の全ての将校より優先する指揮権規定があったのです(昭和十九年半ばで海軍機関学校出身者もこれに加わる)。これが軍の中の天皇制です。アンダマンには前にお話ししたように、兵学校出の司令官と先任参謀がおられ、その下で私が中尉で作戦の補助業務をやっていたのです。<br> | ||
その移送作戦の二日前、司令官の原中将から呼ぱれ、こういわれました。<br> | その移送作戦の二日前、司令官の原中将から呼ぱれ、こういわれました。<br> | ||
「高野参謀から、この作戦は対象が原住民だ。イギリス、アメリカ兵ではない。だから作戦ではない。情報・補給である。したがって、高野参謀がこの移送を所管したいと、こういってきたが、どうする」「参謀のおっしゃるとおりだと思います」と答えました。即日、私たち河野と末吉は移送指揮官を解任され、これに代わって水警隊の特務士官であった谷岡義照中尉、鶴田壮市少尉が、ヘブロック島への移送指揮官になった。<br> | 「高野参謀から、この作戦は対象が原住民だ。イギリス、アメリカ兵ではない。だから作戦ではない。情報・補給である。したがって、高野参謀がこの移送を所管したいと、こういってきたが、どうする」「参謀のおっしゃるとおりだと思います」と答えました。即日、私たち河野と末吉は移送指揮官を解任され、これに代わって水警隊の特務士官であった谷岡義照中尉、鶴田壮市少尉が、ヘブロック島への移送指揮官になった。<br> | ||
そして実施した結果が、昭和二十一年、シンガポールのチャンギー刑務所で谷岡中尉ほかの絞首刑です。軍令承行令がなかったら、私や末吉は、この世にいません。<br> | |||
そうだ、小澤さん。貴方だって、この事件にかかわる可能性があったのですよ。この時の移送に使った大型舟艇は、小澤少尉がシンガポールから二隻運んだあの新造船なのですからね。収容容積が大きかったから住民移送に適しており、君がマラリヤにならず、そのまま水警隊に残ってたとすれぱ、艇の航行や指揮にはなれているし、君は水警隊の先任士官だったこともあり、この移送指揮官に当然なって少しもおかしくもない。チャンギーの道へ歩いていたかもね。とにかく運というものは分からないものだよ。<br> | そうだ、小澤さん。貴方だって、この事件にかかわる可能性があったのですよ。この時の移送に使った大型舟艇は、小澤少尉がシンガポールから二隻運んだあの新造船なのですからね。収容容積が大きかったから住民移送に適しており、君がマラリヤにならず、そのまま水警隊に残ってたとすれぱ、艇の航行や指揮にはなれているし、君は水警隊の先任士官だったこともあり、この移送指揮官に当然なって少しもおかしくもない。チャンギーの道へ歩いていたかもね。とにかく運というものは分からないものだよ。<br> | ||
■ 原田中尉と柳本中尉の憤死<br> | ■ 原田中尉と柳本中尉の憤死<br> | ||
スチュワード・サンド戦犯裁判事件について、私たち予備学生出身の同期の原田国市中尉(法政大学卒・三期予備学・陸戦班)と柳本清一中尉(慶応大学卒・三期予備学・対潜学校衛所斑)の憤死があるんだよ。小澤君も良く知っている人たちだ。君の書いた「インド洋戦記」や「実録・あるBC級戦犯たち」「アンダマン・ニコバル島の悲劇」などに出てきていたね。また、同期の末吉博(中央大学卒、三期予備学・対空班)の「アンダマンの終戦記」にも書いてあるので、まとめて簡約してみよう。<br> | |||
〈判決〉事実要旨「一九四五年八月上旬、「中アタマン島」ニ於テ其ノ頃同島警備ノ任ニアリタル被告人等ハ。所属海軍部隊所有ノポート並ビニ糧食ヲ窃取シ「ラングーン」ニ向テ逃走セント企テタル「ビルマ人」九名ヲ逮捕シ、同人等二対シ正当ナル法律手続二依ラズシテ殺シタルモノナリ」(適条・陸戦法規第四六条違反)<br> | 〈判決〉事実要旨「一九四五年八月上旬、「中アタマン島」ニ於テ其ノ頃同島警備ノ任ニアリタル被告人等ハ。所属海軍部隊所有ノポート並ビニ糧食ヲ窃取シ「ラングーン」ニ向テ逃走セント企テタル「ビルマ人」九名ヲ逮捕シ、同人等二対シ正当ナル法律手続二依ラズシテ殺シタルモノナリ」(適条・陸戦法規第四六条違反)<br> | ||
昭和二十年八月上旬、中アンダマン島のビルマ人九名はビルマ本国へ逃亡を企て、海軍の舟艇と糧食を窃取し、逃亡中、スチュワードーサンドの海軍分遣隊に捕まった。隊長の原田中尉はその処置を第十二特別根拠地隊司令部に報告し、指示を乞うた。同司令部においては、原司令官が軍法会議を招集した。原司令官自身が軍法会議の審判長として判事を兼ね、先任参謀・島崎大佐を判事に、特務班長・豊島大尉を検事に命じた。こういう経過です。当時は敗戦間近かで、シンガポールの第十方面艦隊司令部より法務官を呼ぶことは不可能だし、犯人たちをアンダマン島へ護送することも不可能だったので法務官不在の裁判が行われた。日本軍は十七年三月下旬、アンダマン上陸占領と同時に、日本軍の配置防備の秘密保持上から次のような軍布告を公示していた。<br> | 昭和二十年八月上旬、中アンダマン島のビルマ人九名はビルマ本国へ逃亡を企て、海軍の舟艇と糧食を窃取し、逃亡中、スチュワードーサンドの海軍分遣隊に捕まった。隊長の原田中尉はその処置を第十二特別根拠地隊司令部に報告し、指示を乞うた。同司令部においては、原司令官が軍法会議を招集した。原司令官自身が軍法会議の審判長として判事を兼ね、先任参謀・島崎大佐を判事に、特務班長・豊島大尉を検事に命じた。こういう経過です。当時は敗戦間近かで、シンガポールの第十方面艦隊司令部より法務官を呼ぶことは不可能だし、犯人たちをアンダマン島へ護送することも不可能だったので法務官不在の裁判が行われた。日本軍は十七年三月下旬、アンダマン上陸占領と同時に、日本軍の配置防備の秘密保持上から次のような軍布告を公示していた。<br> | ||
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われのゆく日を指折りて待つ<br> | われのゆく日を指折りて待つ<br> | ||
朝かゆをすすりつつ思う故郷の<br> | 朝かゆをすすりつつ思う故郷の<br> | ||
父よ嘆くな母よ許せよ<br> | |||
<br> | <br> | ||
師は、この歌を読んで。衝撃を受けたという。彼の詠んだ短歌はすべて今でも覚えていると述べられています。<br> | 師は、この歌を読んで。衝撃を受けたという。彼の詠んだ短歌はすべて今でも覚えていると述べられています。<br> | ||
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==資料== | |||
[http://megurokai-h.jugem.jp/?eid=333 続・トンツー談義(95) 海軍時代の記憶 -山岡部隊のことー] | |||
当時の陸海軍々人で長髪の者は居ませんでした、或る時、物資補給のため横須賀の補給部へ行った時、夜、映画を見に行きました、映画館は満員で私は端の方に立って見ていましたが長髪のため軍帽を被ったままでした。 | |||
そのうち後ろの方から「其処の兵隊帽子を取れ」と云う声がかかり帽子を取り最後まで映画を見て帰ろうとしたら、腕を強く握られ「この髪は何だ」と長髪の髪を引っ張られたので、「私は館山砲術学校に居る山岡部隊の者です、司令の命令で髪を伸ばしています、海軍の軍令部に問い合わせて下さい」と言い、そのまま約15分位したら「帰って宜しい」と無罪放免された事を今でもハッキリ覚えています。 | |||
館山の軍事施設の由来を記した「館山基地物語」にも幻部隊とか忍者部隊として一時記載されていた様です。私達の宿舎はこの砲術学校の一番奥にあり奥兵舎と呼ばれていました。 | |||
此所での訓練は以上のような目的のため、日常の簡単な英会話、英文の判読、及び野外訓練としては夜間訓練が主となり、日没時から夜明けまで南房総の山野を歩き回り、体力増強、方向維持訓練及び忍者の様な夜間訓練だけでした。 | |||
これは予め2~30キロ先に目標物を置き、日没と同時にその目標物に向け地図と磁石を頼りに5~6人が一団となり行動を始めます、そして目標物の傍に「爆薬」と書いた紙片を置いて夜明け迄には宿舎に帰らなければなりません。 | |||
当時の思い出話として、現在も海自の「隊友会」の集いの席上で必ず話題になるのが、各自、約10キロの砂袋を背負い、館山から靖国神社まで2泊3日の往復徒歩行軍でした。全行程約200キロ弱で、1日5~60キロを目標に歩いた事になります。誰一人として落伍者は無く無事この訓練の成果が出た事は、今も語り草になっています。 | |||
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[http://keshiintokorozawa.web.fc2.com/faq08j12o20.html 軍事板常見発見◆◆◆部隊各論] | |||
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【質問】<br> | |||
旧日本海軍に存在した特殊部隊について教えてください<br> | |||
【回答】<br> | |||
旧日本海軍には特殊部隊が存在しました.<br> | |||
呉鎮守府に存在した呉鎮守府第101特別陸戦隊でした.この部隊は,ただの海軍陸戦隊ではありません.<br> | |||
敵地に潜入して敵基地の破壊工作を行う海軍のコマンド部隊でした.<br> | |||
ネットでは詳しい資料が存在しなかったので,ウィキペディアの資料を参考にしますが,<br> | |||
呉鎮守府第101特別陸戦隊は指揮官が山岡大二少佐であったため,山岡部隊という通称がつけられていました.p | |||
また,潜水艦に乗っての破壊工作を想定していたの,でS特攻部隊(S特)とも言われていました.<br> | |||
旧日本海軍にはこの山岡部隊の他にも,佐世保鎮守府第101特別陸戦隊(山辺部隊)や 同第102特別陸戦隊(常盤部隊)などが存在していました.<br> | |||
任務はアメリカ海軍のUDT(後のSEALS),英国のSBS(海兵隊特別舟艇部隊),イタリア海軍空挺/潜水大隊と同じ任務を持っていただけでなく,<br> | |||
破壊工作活動も任務としていたので,ドイツのオットー・スコルツェニーSS少佐を指揮官とするSSコマンド部隊や,<br> | |||
韓国空軍の684部隊(シルミド部隊)と同じ性格の任務も持っていました.<br> | |||
1944年に館山海軍砲術学校で編成,主に風格が欧米人風で,知力・体力に優れた兵士が350名選抜されました.<br> | |||
英語やアメリカ本土に関する地理や交通,風習に関する教育が徹底され,隊員の食事もアメリカ風でした.<br> | |||
また,短い自動小銃をはじめ40kgの荷物を背負って,一日60kmを駆け足で移動する強行軍や,<br> | |||
富浦町大房岬の海岸にある100m近い絶壁を素手で登る訓練も行うなど,<br> | |||
さながらSASやSEALS並みの訓練が行われました.また訓練は夜間に行われました.<br> | |||
当初の計画では,グアムやサイパンなどの島に潜水艦で近づき,深夜の闇に紛れて敵基地や航空機を破壊する作戦が想定されましたが,<br> | |||
大戦末期による米駆逐艦の哨戒活動が活発化したので断念.<br> | |||
1944年にはカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のボーイング,ダグラス等の軍需工場破壊計画が立案され,ゴムボートで米本土に上陸,<br> | |||
山中を拠点に車を強奪して工場に向かう計画が立てられた他,米大統領暗殺命令も出ていたとも言われています.<br> | |||
しかしこちらも,沖縄戦激化のため中止.<br> | |||
本土空襲が激化すると,マリアナ諸島のB-29爆撃機破壊を目的とした「剣」作戦が計画されました.<br> | |||
一式陸攻に隊員を乗せてサイパンやグアムに強行着陸し,B-29を破壊する計画だったそうです.<br> | |||
また,300名の陸軍空挺部隊と共同攻撃や,機銃を増設した銀河72機による攻撃も計画されました.<br> | |||
広島と長崎に原爆が投下されると,原爆貯蔵庫だったテニアンもターゲットに追加されましたが,<br> | |||
当時三沢基地にいた山岡部隊は,青森大空襲による三沢基地の破壊により計画を延長,<br> | |||
その間に日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏したので,結局,山岡部隊は一度も実戦に参加する事はありませんでした.<br> | |||
なお,山岡少佐は後に海上警備隊(後の海上自衛隊)に入隊.<br> | |||
1968年1月,海上自衛隊を海将補で退官し,1991年に他界しています.<br> | |||
しかし,これほどのコマンド部隊が旧日本海軍に存在したとは,恥ずかしい話,つい最近まで知りませんでした.<br> | |||
なお,現在の海自の特殊部隊「特別警備隊」はSBSから訓練を受けている事から,これらの任務が付与されている可能性はありますが,<br> | |||
何分こちらも隠密部隊なので,実際はどうなのかはわかりません.バルセロニスタのCR-Z in mixi,2010年03月09日10:06<br> | |||
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== 脚注 == | == 脚注 == | ||
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