「恒心文庫:冷気」の版間の差分
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2021年2月13日 (土) 11:55時点における版
本文
この事務所は広く清潔だが、どこか台風の日の体育館を思い起こさせる。
ぼんやりとディスプレイを眺めながら、そんな馬鹿げたことを考えてしまう。社会に出てから学生時代の感傷などいくらか薄れてしまったというのに、何故今になって鮮明に思い出してしまうのだろう。
あの閉めきった だだっ広い空間。若い汗と赤土のこもった匂い、薄暗い外、外気によって徐々に冷えていく熱気、非日常への期待、いつ帰宅できるのかと急く心、そして一粒の不安。
「Kさんは、―― なんです」
ふと、あの日の声が耳元でよみがえる。
デスクから振り返ると、Kさんが食べ散らかした氷菓のゴミを諫めながら片付けていくYさんと目が合った。
白く冷たい指先。うなじが強ばる感覚。
反射的にデスクに向き直り、軽く頭を振って思考を仕事用に切り替えた。
日々の業務は極めて単調である。Yさんに指示された案件の処理、あらゆる書類の確認、電話対応―イタズラ電話が多いので対応は慎重に、常に私に確認をとって下さいね― 事務所を訪れる客人は滅多にいない。人づてで依頼される仕事の大半はYさんが受け持っている。
その間Kさんが何をしているのかと言えば、ソファに寝転がりスマホをいじったり、Yさんが淹れる甘いコーヒーをすすったり、何やらパソコンに向かってニヤけたり……まったく自由なものだ。とても勤務中の姿とは思えない。
呆れ顔の俺を尻目に、涼しい表情で世話を焼くのはYさんだ。
Kさん、駄目じゃないですかそんな格好じゃ。ジャケットには皺がよってるし、襟には食べカスがくっついてます。クリーニングに出したものがありますから、これに着替えてください。はーい、万歳して
愛おしくてたまらないという目で。すがるような目で。
言われるがまま素直に従うKさんも俺には理解の外だ。「普通とはちょっと違う事務所だから苦労するかも知れないよ」…前の事務所の先輩の言葉を今さらながら実感する。
でも、俺はこの事務所を嫌ってはいなかった。
若いうちに色々な経験を積むのは意義のあることだし、目新しい環境で何かしらの礎というものを築いていけるかもしれない。
俄然 熱意に燃えて次の指示を仰ごうとYさんに向かった時、彼はKさんのネクタイを結んであげていた。
*********
ここへ来て間もない頃、我慢できずに彼に問いかけたことがある。いくらなんでもKさんは貴方に頼りすぎですよね、今までも随分と苦労なさったでしょう――
「まさか。あの方はこれで良いんですよ」
事務所から離れた階の喫煙室でのことだった。慌ただしく流れる紫煙が、互いの顔に浮かんだ疲弊を霞ませていく。
「仕事を補佐するのも、日常のお世話をするのも私の業務ですから。このままでいいんです」
いつもと変わらぬ静かな微笑を含んだ声に、俺は小さな違和感を感じたはずだ。
――でも、貴方は実績のある弁護士で単なる同僚でしょう。Kさんだってそうじゃないですか。あれではまるで小さな子供のようだ。
そんな俺の言葉に憤慨するでも同意するでもなく、彼は緩やかに煙草をタップした。
あの短く切った爪。俺は思わずYさんの形のいい指先に見とれていた。
「Kさんは、これでいいんです」
彼はそう断言する。
少しも揺るがない柔らかな口調だったが、その一言は俺に反論を禁じていた。
訳のわからない冷たさに硬直した俺に、Yさんは微笑んで言葉を続けたのだった。
「貴方の、そういう実直なところは好きですよ」
不服そうな俺を慈しむような目で。哀れむような目で。
「当職もY君も、君のことは気に入ってるよ」
その日の昼食時。YさんはKさんの要望でファストフード店へ買い出しに向かったところだった。
「ここでの経験は将来きっと役に立つだろう。何せこの御時世、鬼が出るか蛇が出るかの予測不可能な社会だからね。どんな経験でも積んでおいて損は無いよ」
思えば、同じ部屋に居るというのにKさんと言葉を交わしたことはほとんど無い。幼子のように世話を焼かれYさんに庇護されているKさんには、漠然とした印象しか持っていなかった。だから、その不遜な言葉と落ち着いた態度は俺を驚かせもした。
「しかし、我が事務所は働き者ばかりで有難いんだがね。当職の出る幕がなくなってしまうんじゃあ困ってしまうな。当職がやろうとする仕事は既にY君が片付けてしまってるし、代わりに処理しておいて下さいねとおやつを出してくる。君もほどほどにしたまえよ」
そう言って尊大に笑った。近代的だがどこか生気を感じないこの事務所で、彼は唯一暖かみを感じる存在だった。
俺も少し笑った。
終業時刻。YさんはKさんの為にタクシーを呼び、エントランスまで見送りに向かう。
俺はなんとか書類を片付け、帰り支度をし照明を落としていた。
暗い室内からは日中の暖かさは消え、空々しい広さだけが際立って迫ってくる。
身震いをひとつ。部屋を出ようとするとドアの前でYさんの影が揺れるのが見えた。
「Kさんは、駄目なんです」
全身を冷気で浸された気がした。
「私が居てあげなきゃ、駄目なんです」
影が呟く。
外はすっかり漆黒に沈んでいる。閉めきった窓は夜気を通さない。常に空調は働き室温も一定だ。なのにこの部屋の寒々しさ、息苦しさはどういうことか。
――でも俺は、間違っていると、思います。
すぅっと体温が下がる感覚。腰の辺りがひくひくと痙攣し足の裏が汗に濡れる。
恐怖、だった。
「****さん」
不意に影が歩みより、俺の左頬に触れた。
唇に、冷たく硬い感触。
とたんに両肩の感覚が戻り、硬直が解けた。驚いて目線を上げるとYさんの虚ろな双眸がこちらを眺めている。
俺を宥めるように。助けを請うように。
その瞳に、果たして俺は映っていただろうか。
こわばる指先を握りしめる俺を残して、Yさんは音もなく部屋を出ていく。
「お休みなさい」
冷ややかな風が嘲るように俺の首筋をなぞり、影の後を追っていった。
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