「恒心文庫:Polishing ~抗心の火~」の版間の差分
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2020年1月20日 (月) 19:48時点における版
前書き
インターネット上の炎上騒動により将来の道が閉ざされ、青年は自殺した。 しかし、あり得ないことに目を覚ました青年は、見たことのない世界と可愛らしい少女と出会う。 暖かな人達との出会いを経て、青年は失ったはずの心を少しずつ取り戻していく。しかしある日、青年は異世界であり得ないはずの人間と再会する。
この作品は実際の事件を元に書いたフィクション作品です。 インターネット上の炎上、法曹界の腐敗、現実社会での格差など、いくつもの学ぶべき点がある事件ですので、興味を持たれた方は「唐澤 wiki」等で検索してみて下さい。
本文
プロローグ
『○○○○○殺す』
目の前のPCモニターには、自分の名前と共に殺害予告が並んでいる。
原因となったのは数年前のインターネットにおける炎上騒動。
今では自分の名前、住所などの個人情報は全てインターネット上に流出してしまっていた。
他人の目を避けるようにして怯えながら暮らした大学時代、やっとの思いで卒業したは良いものの、インターネットで検索をかければすぐに悪評が目に入るような現状では就職など当然できず、大学を卒業してからは実家の自室で引き籠って暮らしていた。
「もう、無理だ」
思わず諦観の言葉が口をついた。
「死のう」
大学を卒業してから数ヶ月が経ったが、このまま生きていたところで永久に就職などできるはずもない。
自殺だけが、自分に残された最後の親孝行に思えた。
幸い、自分には優秀な弟がいる。親の面倒はきっと彼が見てくれることだろう。
思い悩めば悩むほど、親に迷惑を掛ける時間も長くなっていく。決意が鈍らないうちに早く首を吊ってしまおう。
そう考え、家にあった電化製品のコードを束ね、首吊り用の紐を作った。先が輪になるように結んだそれを、扉の通路側のドアノブに括り付け、扉の上を通すようにして部屋側にもってくれば、簡易的な首吊り装置になる。
先の輪に自分の首を通すと、あまりの惨めさに思わず涙がこぼれた。
けれど、これで全て終わりだ。
覚悟を決めて体の力を抜いた。一瞬の宙に浮くような感覚、その直後に、首にかかる強い圧迫感。
呼吸が苦しくなるとともに、意識が遠のいていった。
始まりはいつも雨
酷く頭が痛む。 酸素が脳まで通っていないという実感。 苦しさ紛れに手を伸ばすと、水を掻くような感触と共に誰かの手を握ったような錯覚を覚えた。 ――――いや、錯覚ではない。目を開けると俺は水の中にいて、俺が伸ばした手を誰かが握って引き上げてくれていた。 数秒後、俺の体は水の中から引き上げられた。喉の奥まで流れ込みそうだった水を吐き出すと、息切れしたように呼吸をした。 「大丈夫ですか?」 澄んだ声がした方向を向くと、そこには自分を引き上げてくれた少女が心配そうな顔でこちらを覗きこんでいた。 長い黒髪を水に濡らした少女。年は15歳ほどだろうか。 「ああ、ありがとう」 少し呼吸も落ち着いた俺は、目の前の少女にお礼を言った。 「驚きました。急に空から降ってくるんだもの。下が湖じゃなかったら死んでいましたよ」 少女ははにかみながらそう言った。 「空……から……?」 「ええ、空からです。間違いありません。何もない空から、急に。いったいあなたはどこから来たんです?」 少女に問われ、自分の記憶を思い返す。しかし、頭痛がするばかりで空から降ってきた経緯はおろか、自分のことすら思い出せなかった。 「わからない。記憶が混濁しているようなんだ」 「記憶が……? でしたら、思い出せるまで、近くにある私達の村で休んでいきますか? 今日のことも、村長に報告したいですし」 「ああ、悪いがそうさせてもらうことにするよ。ありがとう」 俺がそう答えると、少女は嬉しそうに笑った。 「私はチヒロと言います。あなたのことはなんとお呼びしましょうか?」 「名前は思い出せないが、……そうだ、ハッセという綽名で呼ばれていた、そんな気がする」 「ハッセ……ですか? 少し変わった綽名ですね」 そう言うとチヒロは笑った。その笑顔があまりにも無邪気で、俺も思わず笑い返した。
村に着き、村長の家に案内されることとなった。
記憶が無い俺に代わって経緯はチヒロが説明してくれた。
「そうですか……。空から落ちてきて、記憶が無いと……」
70歳ほどの白髪の男性。村長と呼ばれた人物がこちらに視線を向けた。
「はい、申し訳ありません。彼女に助けてもらう前の記憶がどうしても思い出せなくて」
「……そうですか」
村長は、神妙な面持ちで顔を伏せた。
「昔、そのような話があったと聞いています。私が幼い頃にも一度、空からあの湖に人が落ちてきたと」
「そうなの? でも私はそんな話、聞いたこともないよ?」
チヒロが不思議そうな顔で村長に尋ねる。
「その人は湖に落ちて、そのまま溺れ死んでしまったらしい。村のみんなが不安にならないように話はふせられた――」
「――そして残っているのは落ちてきたという目撃談と、埋葬する際に残った衣服です」
そう言うと村長は、後ろにあった棚の一番下からボロボロになった服を取り出して広げた。
「この服の造りは、ここらの地方のものとは原形からことなる。……そして、あなたの着ている服も」
言われて見比べると、確かに違った。造りだけではない、素材からして別物のように見える。
「私達はこの服を着ていたものを、別の世界から来た人間、そう考えました。……そして、おそらくあなたも」
「別の世界の、人間……」
3人の間に緊張感のようなものが走った。助けたはずの人間が自分達とは別の世界の人間だと分かったのだから当然だ。今すぐ村から追い出されても文句は言えない。
しかし、俺の不安を払拭するかのように、村長は優しく笑った。
「ハッセさん、だからといって私達はあなたを排斥するつもりはない。記憶が戻るまでこの村に滞在してもらってかまいません。ただ、一つだけ約束して欲しいのです」
「約束、ですか?」
「ええ、そんなに難しいものではありません。ただ一つ、記憶が戻ったら、どんな些細な事でもいい、私達に報告してください。それだけです」
「それだけで……いいんですか? 監視したり、追い出したりは?」
俺がそう言うと、村長は優しそうな顔で微笑んだ。
「そんなことはしません。これも何かの縁ですから。元の世界に戻れるかはわかりませんが、何か力添えができるのなら力になりたいのです」
村長は、穏やかな笑顔のままでそう言ってくれた。後ろでチヒロも微笑んでいる。
「――ありがとうございます」
彼らの恩義に対して失礼のないように、頭を下げて精一杯のお礼を言った。
外では出会いを祝福してくれているかのように、雨音が聞こえ始めていた。 自分の目には、なぜか涙が滲んでいた。
人が人に優しい社会
村に住み始めてから30日が経とうとしていた。
村の人達との関わりにより、少しずつこの世界や村のことについても理解が深まったように思う。
まずここが、トラノンモ地方のピユアという名前の村だという事。
ピユアは農業と畜産とで生計を立てている村のようで、7日に一度、別の村から訪れる貿易商と収穫物の取引をしていた。
慢性的に人手は足りていないようで、驚くことに俺の存在は忌避されることもなく、むしろ歓迎された。
空き家となっていた小屋を借り、人手が足りていない仕事を手伝う毎日。
そんな生活を続けていたせいか、村のほとんどの人と交流を持つことができた。
記憶が無く、あって当然の歴史や地理に関しての知識が無い。けれども、そんな俺を村の人達は奇異の目で見ることも無く暖かく接してくれていた。
村を訪れてから31日目。
今日はチヒロと共に動物の世話をすることになっていた。
二人で餌が入った籠を抱え、世話をする動物が飼育されている場所へ向かう。
動物の世話が好きなのだろうか、隣にいるチヒロはとても楽しそうに笑っている。
放牧地に着くと、可愛らしい姿のウサギが跳ね回っているのが見えた。
体長は30cmほどで、白い体色に灰色の長い耳、耳の内側は綺麗な桃色の毛が生えそろっている。
綺麗好きで、爪を研ぐように毛づくろいをしているその姿から、研磨ウサギという名前で呼ばれているらしい。
ずっと昔に毛皮目当ての乱獲にあって絶滅しかけていたそうだが、この村で保護、飼育に成功し、今では金を持った商人の愛玩用のペットとして少数だが高値で取引されている。
柵に囲まれた放牧地の中では、20匹ほどの研磨ウサギがくつろいでいた。
その中に一匹だけ、耳が灰色ではなく、空色をしているウサギが混ざっている。
「チヒロ、あの子は?」
耳が空色のウサギを指して尋ねると、チヒロは少し困ったような顔をした。
「あの子は、生まれつき耳の毛の色が薄い子で……。研磨ウサギは綺麗な体毛の子ほど高値で買われていくから、きっとあの子は残っちゃうかな……」
少し寂しそうな口調で、チヒロは言った。
群れの中で、一匹だけ他とは違う個体。その姿にどこか自分が重なった。
群れの中に馴染めているようで、他から見たら俺の姿もこんな風に異質に映っているのだろうか。
「で、でも! 売れずに残ってくれるっていうことは、それだけ長く一緒にいられるってことでもありますし。繁殖のために次の世代の親になる子は絶対に必要だから、ダメな子ってわけではないんですよ」
こちらが話している事を察したのだろうか、耳が空色のウサギがこちらに走ってきた。チヒロは優しく微笑むと、そのウサギを抱きかかえ、頭を撫でた。
「私は、この子もちゃんと好きですよ。それにこの子なら、感情移入していてもいなくなったりしませんからね。……他の子は、いくら可愛がっていてもいつか売られていってしまうのかもと考えると、どうにも寂しくなってしまって……」
耳が灰色のウサギは、気持ちよさそうに頭を撫でられていた。きっとよく懐いているのだろう。
餌やりを終えた後も、少しの間、二人で研磨ウサギと遊んでいた。
普段は少し大人びている少女だったが、ウサギと遊んでいる時だけは、子供のままの、無邪気な顔で笑っていた。
研磨ウサギの世話を終えて片づけをしていると、遠くから必死な顔で走ってくる村人の姿が見えた。顔は当然見覚えがある。普段は羊の世話をしているオメリーさんという人だ。
「チヒロちゃん、ハッセくん、ここにおったのか」
俺達の前までくると、オメリーさんは息を切らせて膝に手をついた。
「ど、どうしたんですが、オメリーさん。そんなに急いで」
チヒロが心配そうに尋ねると、オメリーさんは酷く急いだ口調で話し始めた。
「教団が! 教団の連中がこの村に向かってる! もう村のみんなは非難を始めているから、二人も早く近くの小屋に!」
オメリーさんは放牧地の隣にある道具小屋を指差した。隣では、チヒロが青ざめた顔で震えている。
「説明している時間は無い! 早くそこの小屋に! 私は他の連中にも伝えに行かなきゃならん。早く!」
オメリーさんに背中を押され、二人で道具小屋に入った。小屋の扉の隙間からは、走っていくオメリーさんの後ろ姿が見えた。
隣では、チヒロが俺の服の裾を握って震えていた。
「チヒロ、教団っていうのは?」
俺が尋ねると、チヒロは小声で話し始めた。
「教団というのは、最近この辺りで略奪を繰り返している新興宗教団体のことです……。正式な名前は”教団クロス”。ハッセさんが村に来る何十日か前に発足したらしく、近くにあった教団や盗賊グループを飲み込みながら、あり得ない速さで成長していると聞きます……」
チヒロの震えは止まらず、むしろ話し始める前よりも強く、服の裾を握りしめていた。
「……襲われた村では、財産や農産物だけでなく、若い人間は男女を問わず教団に連れられていくという話です」
チヒロは、俯いて震えを必死に隠しているように見えた。
「大丈夫だ。この古い小屋なら人が入っているとはわからないさ。もし見つかりそうになったら、後ろにある藁の下に隠れれば見つかるわけがない」
そう言って、チヒロの肩を抱いた。
少しだけ震えも収まったようで、二人で小屋の隙間から外を確認していると、遠くから大勢の足音が聞こえてきた。
少しずつ、その姿が鮮明になっていく。集団は50人ほどで、何人かは馬に乗って移動をしていた。
「監視は俺がやるから、チヒロは藁の下に」
そう言うと、チヒロは頷いて藁の下に潜る。
近くから見ても藁の下に人がいるとはわからない。これでチヒロは大丈夫なはずだ。
安心し、隙間から監視を再開する。
馬に乗った集団の中でも、一際豪華な装飾を施した馬に乗っている男は、短く刈り上げた髪で少し太った体型をしていた。
その姿を見た瞬間、頭痛が走った。
どこかで見たことがあるという確信にも似た思い。
記憶は無いはずなのに、あの男の姿を見ているだけで憎悪と吐き気が込み上げてくる。
『当職に任せれば全て上手くいきます。君は着手金を渡すだけでいい』
潰された蛙のような声の幻聴が耳の奥で反響し、ノイズと共に過去の記憶がフラッシュバックする。
俺は、あの男の名前を知っていた。
「弁護士 ―――― ○○○○!」
声なき声に力を
「インターネット掲示板における中傷、ですか?」
自分の目の前には、髪を短く刈り上げた少し小太りの男性が座っていた。
自分が依頼を頼んだ弁護士である○○○○だ。
「はい。とある掲示板において中傷を受けていて、自分の住所や本名も流出してしまって……」
「……そうですか。それは辛かったでしょう。もう大丈夫ですよ、当職に任せて頂ければ全て上手くいきます」
その言葉に、とても安心したことを覚えている。
しかし、その安心は唐突に裏切られることになる。
弁護士はインターネット掲示板において数度の対応を行ってはくれたものの、それらは具体的な解決には繋がらず、かえって火に油を注ぐ形となった。
そうして、掲示板において自分への憎悪が高まる一方で、弁護士の対応は、あからさまにおざなりになっていった。
「え? 対応は打ち切り、ですか?」
久しぶりに対面した弁護士は、酷く冷たい態度で対応の打ち切りを宣言した。
「ええ、こちらとしても残念ですが。もう手が付けられない状態となっていますので、これ以上何かをするよりは時間が経って忘れられるのを待つべきだと判断いたしました」
「だ、だって、お金だって払ったのに」
「頂いたのは、あくまで着手金ですから。対応はここで打ち切りとなるため成功報酬金はいただきませんよ」
相談を持ちかけた時とは別人のように突き放した声色と態度だった。
「そ、そんな……30万円も支払ったのに。おかしいじゃないですか」
「これは弁護士制度で定められていることです。それ以上文句を付けるというのであれば、弁護士制度に対する重大な挑戦と受け取りますが?」
その言葉に、自分は何も言い返すことができなかった。
「臥薪嘗胆の日々を送り、自分を改めなさい。当職は君の20年後を見ている」
弁護士は、その言葉を残して二度と俺の目の前には現れなかった。
軋むような頭痛と共に、過去の自分の姿がフラッシュバックする。
居場所のない家。
優秀な弟と、無能な自分。
周囲に馴染めず逃げ出した自分。
インターネット上の集合知に酔い、自分が優秀になったかのような錯覚。
責任が問われない掲示板において、どこまでも自分勝手に振る舞う愚かな自分の姿。
そして炎上し、自殺することで最後まで逃げ続けた哀れな人生。
思い出した過去の自分の姿は、途方もないほど矮小で惨めな負け犬だった。
記憶が戻ったにも関わらず、過去の自分の記憶はどこか他人事のようだった。
過去の自分と、この世界に来てからの自分、二つの人格が混ざることなく頭の中に存在しているような不思議な感覚。
そしてそんな状態に戸惑っているような時間は、今の自分には残されていなかった。
「尊師、ここにいるのは研磨ウサギじゃないですか! 持って帰れば高く売れますよ」
教団の一人の声が小屋の中にまで聞こえてくる。
後ろの藁の下でチヒロが息を呑む気配がした。
「全て籠に入れて持ち帰りなさい。後で行商に売りつけることにしよう」
そう指示した声は、間違えようもなく、過去に出会った弁護士のものであった。
何故あの男がこちらの世界に来ているのだろうか。
それを考える余裕すら、今の自分には存在しなかった。
「一匹だけ色が薄い失敗作がいますね。あれはどうします?」
「金にならない奴は無駄ですね。繁殖しないように殺しておいてください」
最後に自分と会った時と同じ冷たい声だった。
その言葉に、耐えきれなくなったように藁の下からチヒロが這い出てドアの隙間から外を覗いた。
「チヒロ、危険だから隠れて――」
小声で諭す暇もなかった。
ドアの隙間から覗いた外の世界では、ナイフを持った教団の男が、一匹だけいる色の薄いウサギに向かって歩いていく姿が見えた。
「やめてっ!」
瞬間、チヒロが小屋を飛び出した。
小屋の中に人がいるとは気づいていなかったようで、その場にいた50人ほどの教団の人間が一斉にこちらに視線を向けた。
チヒロは小屋を飛び出ると、まっすぐに色の薄いウサギの前まで走り、庇うように前に出た。
「殺さ……ないで……」
絞り出すように、震えた声で一言だけ発した。
声こそ震えていたものの、目線は睨むように強く、目の前のナイフを持った男に向けられている。
「なんだ、隠れていたやつがいたのか。……尊師、どうします?」
ナイフを持った男が、後ろにいる元弁護士の男に話しかけた。
しかし男は、その言葉に耳を向ける様子もなく、扉の前に立ちすくむ俺に視線を向けていた。
改めて見てもその顔は、紛れもなく元の世界で出会った弁護士のものだった。
「君も、こちらの世界に来ていたんですね」
元弁護士は俺に視線を向けたまま、にやけたような顔で近寄ってくる。
「じゃあ、やっぱりあんたは……」
「そうです。君と元いた世界で会った弁護士ですよ」
口元を邪悪に歪ませ、男は笑った。
「久しぶりですね。炎上していた惨めな少年」
「……あんたも、死んでこっちの世界に来たのか?」
「死ぬ……? 何を言っているのかわからないですね。あなたはそうやってこちらの世界に来たのですか?」
演技ではなく、本当にわからないというような様子だった。
「ほんの数ヶ月前のことです。目が覚めると同時に、当職はこちらの世界にきていた」
相変わらずのふざけた一人称。かつて会った時と変わらない、自分を”当職”と呼ぶ言葉づかい。
「そして確信しました! 見たこともない世界。基本的な知識すら持たない下等な人々。そして何より、与えられた”力”。神が当職に相応しい世界を与えてくれたのだと」
男は、演技がかった口調で話した。
「”力”……? 何を言ってるんだ、あんたは」
俺がそう言うと、目の前の男は心底馬鹿にしたような顔になった。
「やはり、あなたと当職は違うようですね。当職は選ばれ、あなたは捨てられた。当職が得た”力”とは、こういう事です」
男は右手を俺に向けてかざすと、口元を醜く歪めた。
「”倒れろ”」
男の言葉を聞くと同時に、体が自然と前に倒れ始めた。手足は動かず、受け身を取ることもできないまま、正面から地面に倒れ込んだ。
「つッ!」
肺から空気が漏れ、正面からまともに全身を打った衝撃で体が痺れる。
「な、なにが……」
「これが、当職が与えられた力です。”洗脳”。もう誰も当職の言葉に逆らうことはできない。貴様ら屑とは違うんだよ!」
本性を表したかのように、剥き出しの敵意と害意のこもった言葉だった。
「そ、尊師……さっきから何を話して――」
後ろに控えていた部下の一人の言葉が言い終わらないうちに、元弁護士は視線を後ろに向けて言葉を放った。
「”止まれ”」
その言葉で、後ろにいた部下全ての動きが制止した。体の動きだけでなく、意識すらも”止まっている”かのように空ろな瞳で立ち尽くしている。
人間だけではない。教団が連れてきた荷馬車を引いている馬さえ、どこを見ているのかもわからない視線のままで”止まっている”。
「そうやって洗脳することで、教団を作ったのか、あんたは!」
「そうです。誰も当職が統率していることに違和感を持たない。敵対する組織すらも、当職の力で”洗脳”してしまえば当職の道具となる。まさに支配のための力、私は選ばれたのですよ!」
両手を広げ、必要以上に肉のついた頬を歪めた男の顔は、まるで人間では無くなってしまったかのようだった。
このままにしておくわけにはいかない。そうは思っていても体が言うことを聞かない。俺は倒れた状態から起き上がることすらできないままだった。
「惨めですね。あなたは元の世界にいた時とまるで変わらない」
男は憐れむような、そして汚いものを見るような目で俺を見下した。
そして唐突に思いついたとでもいう様に、俺から目線を外し、チヒロの方を見た。
チヒロは教団の部下達と同じように、ウサギを庇うような姿勢のままで”止まっている”。
「あの女の子は、あなたの御友人ですか?」
男は口元に笑みを携えながら、チヒロの元に歩み寄っていく。
「やめろ! その子は関係ないだろう!」
俺の言葉に、男は振り返ることもなく歩みを進める。
「過去にあなたのくだらない依頼を請け負ったせいで、少なからず当職の方にも誹謗中傷の被害がでましたからね。これは、その復讐です」
止めようとしても、体は動かない。地面にうつ伏せに倒れたまま、這いずることすらできなかった。
男はチヒロの前に行くと、手を目の前にかざし、言葉を発した。
「”自分の首を絞めろ”」
言葉を言い終えると共に、チヒロは自分の両手で自分の首を絞め始めた。
「やめろ!」
俺が叫ぶと、男はこちらを見て嘲笑した。
「君はそこで、少女が自殺するのを眺めていなさい。絞殺死体は汚いですよ、糞尿を垂れ流す尊厳の欠片もない死に方だ。君のせいで、少女はむごたらしい死に様を晒す。そこで這いつくばりながら、しっかり罪を認識しなさい」
男が語る間にも、チヒロの両手にかかる力が増していくのが見てとれた。
「ぐ……うぅ――」
チヒロの口から呻き声が漏れる。目は空ろなまま、涙をこぼしていた。
「――や……だよ……」
意識が朦朧としたまま、抵抗の言葉が口から洩れていた。
「やはり、強い抵抗があると洗脳にも時間がかかりますね。まあ、時間の問題でしょうが」
男がつまらなそうに話した。
必死に体を動かそうとしても、一向に体は言う事を聞かない。
あまりにも惨めな姿。元の世界にいた時と何一つ変わらない無力な自分。
『もう……いいだろ……』
頭の中にあった、元の世界の自分の姿が諦めたように口にする。
『下手に抵抗しようとするなよ。このまま黙って大人しくしていれば生かしてもらえるかもしれないだろ』
過去の自分。他人を攻撃することでしか承認欲求を満たすことができなかった哀れな自分。
出来ないことがあればすぐに諦め、嫌なことがあればすぐに逃げ出す、努力を放棄した負け犬の姿。
「……黙れ――」
『あの子が死んだら別の町に行けばいいだけじゃないか。ここで無理して死ぬなんて馬鹿のやることだろ』
「――黙れ!」
世話をしているウサギ一匹のために自分の体を盾に出来る少女と、自分を助けてくれた少女すら見捨てようとしている過去の自分。
比較にすらならないほど、臆病な自分の姿。
『俺は嫌な思いしてないから……』
「だからといって、他人がどうなっても良いなんて俺は思わない!」
あまりにも惨めな自分に怒りを感じた。
その怒りは形となって、目の前に立つ過去の自分の姿を燃やしていく。
『後悔するぞ…………』
最後まで遠吠えを続けた負け犬の様相。
自分への怒りが、形を伴って現実までもを侵食する感覚。
指先に熱と強い痛みを感じた。右手を見ると、指先に僅かに火が灯っている。
脳を縛り付けていた”倒れろ”という言葉が、熱と痛みで掻き消されていくのが分かった。
手を地面につき、膝を立てて立ち上がる。
手を強く握りしめると、指先の火が右手を包んだ。
「その手をどけろ! ○○○○!」
全力でチヒロの元まで走り、男の名前を叫びながら、横顔を思い切り殴りつける――。
「ど、どうして洗脳がッ――」
男は言葉を言い終える事も出来ず、殴りつけられた衝撃で倒れる。右手の炎が燃え移り、男の髪が少し焦げているのが見えた。
気持ちを少し落ち着けると、自分の右手の火は火傷の痕だけを残して消えた。
「これ以上、好き勝手はさせない。○○○○、お前は俺が殺す!」
愛なき時代に愛を
「チヒロ!」
声をかけながら肩を揺さぶる。
先ほどまで首を絞めていた両手からは力が抜けているが、首元には締め付けられた痕が酷く残ってしまっていた。
「…………ハッセ……さん……?」
か細い声でチヒロが声を発した。意識は朦朧としているが、呼吸に問題はない様子だった。
そして同時に、後ろでは男が起き上がる気配がした。
「なるほど……。体を燃やした熱と痛みで当職の”洗脳”を振り切ったのか」
振り返ると、男が立ち上がる姿が見えた。先ほどまでとは違い、顔は笑みではなく怒りで歪められている。
「”自分の体を燃やす力”といったところか。ハッ! 炎上した末に惨めに死んだ貴様におあつらえ向きの力だ。当職の”洗脳”と比べれば何段階も劣る屑能力。”力”を得たからといって付けあがるなよ餓鬼が!」
「屑能力でもなんでもいいさ、これであんたの”洗脳”は俺には効かない。共倒れになっても構わない。あんただけは俺が殺す!」
再び怒りを右手に込める。少しずつ熱が膨らみ、右手を炎が包んだ。
炎を纏った右手を握り、男の元に駆け寄る。
「”止まれ”!」
男は右手を構えて言葉を発した。
自分の体が動きを止めようとする――。その寸前で、全身の神経を一瞬の熱と痛みが襲い、”止まれ”という信号を掻き消していく。
自身の体が内側から少しずつ焼けていく。間違いなく体にダメージが残るような行為だ。
それでも、俺には目の前の男を止めなければならないという意思があった。
「なぜだ!? 多少の痛みでは”洗脳”は解けないはずッ――」
俺の右手が、再度男の顔を殴りつける。先ほどとは違い、火を燃え移らせることを意識することで、俺の右手の火が男の服や髪にそのまま燃え移っていく。右手からは火が消え、燃え移った火が男の体を焼いた。
「があぁ――! 火が! 火がぁ!」
男が必死に地面を転がると、火は煤を飛ばしながら消えていく。
「貴様ぁ! 屑の分際で! 自分が何をしているのかわかっているのか!」
余裕の無くなった表情で男は叫んだ。その顔からは先ほどまでの侮蔑は消え、怒りだけで満ちていた。
「生かしておけば、また同じように尊厳を弄ばれる人達が出てくる。○○○○、あんただけはここで殺す。これは、同じ世界から来た俺の責務だ!」
俺が言い終えると、男は怒りに満ちた顔のままで、右手で自分の顔を掴んだ。
「遊んでやっていれば調子に乗りやがって! 当職は貴様とは違う! 生まれた時から将来が約束されてきた上級国民だ! 貴様らはただ従っていればいいんだよ!」
男の怒りに満ちた言葉に呼応するかのように、男の周囲の空気が張りつめていく。
男の顔には青筋が立ち、腕や足では、へばりついた贅肉を押しのけていくように筋肉が隆起するのが見えた。
「”自己催眠”! それも一般国民がやるような思い込みや集中とは違い、”力”を使うことで人体の性能の全てを引き出すことができる!」
言葉を言い終えると共に、男の姿が消えた。
それと同時に、腹部に強い衝撃。足が地面から浮くほどの力が加わり、俺の体は2メートルほど後ろに殴り飛ばされた。
「がぁッ……はッ……」
咳き込むと同時に口から血を吐き出す。折れた骨が刺さったのだろうか、胸の下部には激痛が走った。
「これが当職の”力”だ! 選ばれた人間の”力”だ! ”洗脳”できなければ暴力で従わせればいい。貴様達は我ら上級国民が快適に暮らすためだけに生きて死ねばいいんだ。余計なことをするから痛い目をみるんだよ!」
男は俺から目線を外すと、再びチヒロのいる方に歩き出す。
「この女にも、もう面倒なやり方はしない。当職が手ずから絞め殺してやる! 当職の手を煩わせたことを後悔するくらいには苦しめて殺す! 貴様はそこで黙って見ていろ」
「待……て――」
痛みを訴える体を黙らせて立ち上がる。そしてその瞬間、男の姿が再び目の前から消えた。
「黙って見ていろと言っただろうが!」
怒りで満ちた表情が一瞬だけ見え、風を裂くような鋭い蹴撃が襲う。かろうじて左腕を構えて防ごうとしたが、そんなことは無駄だと言わんばかりの強い衝撃に、俺の体は吹き飛ばされた。
先ほど以上の衝撃。左腕の骨が折れる感覚がすると共に、俺の体は吹き飛び、教団の連れてきた荷馬車の積み荷の中に放り込まれた。
同時に、口からは血の塊がこぼれ出る。手をついて体勢を整えようとすると、左腕から鋭い痛みが襲った。
それでもなんとか体を起こし、立ち上がる。しかし、このまま挑んだところでどうにもならない。俺は周りを見て武器になりそうな物を探した。
荷馬車の積み荷は主に食料だった。野菜や果物が所狭しと積まれ、端の方には水や酒の入ったガラス製の瓶が並んでいる。まともに武器と呼べそうなものは存在しなかった。
俺はいくつかある酒瓶の中の一つを手に取り、荷馬車から降りた。左腕はまともに上げることすらできない。軋むような痛みが全身を巡っていた。
正面を見ると、男の手がチヒロの首にかかるところだった。
足を引きずるような格好で男の元まで走った。酷く惨めな負け犬の姿。過去の自分と変わらない、無力な自分。
それでも、諦めないだけの理由が今の自分にはあった。
「○○○○ォ!」
絞り出すように、男の名前を叫んだ。男はチヒロの首にかけようとしていた手を止め、こちらに向き直る。
怒りと憎悪を孕んだ、見下したような視線でこちらを睨みながら、男はこちらに向かって歩いてくる。
「何もできない屑の分際で威勢だけはいい。だから貴様達が嫌いなんだ! 両手両足を潰して、二度と立ち上がれないようにしてから女は殺してやる。そうなってから理解しろ! 屑は何をしたところで状況を悪化させることしかできない。初めから上の人間に従っていた方が幸せだとな!」
男が拳を握り、右腕を振りかぶる動作が見えた。避けることなんてできないことは分かっている。逃げたところで状況は改善しない。
だから俺は、男の右腕に合わせるように酒瓶を握った右腕を振った。
男の拳が酒瓶に直撃する。当然のように酒瓶は粉々に割れ、中身が外に飛散した。
そして、それと同時に怒りを右手に集中し、全力で発火する。
中身は酒だ。ガソリンを詰めた火炎瓶のようには当然いかない。しかし、ある程度のアルコール度数さえあればそれでいい。
空気中に飛散する酒。空気との接触面積は加速度的に増していく。あと必要なのは熱だけだ。
燃え移らせることを意識する。自身の右手の火は空気と混ざった酒のアルコール部分に発火していく。
「――なッ」
ほんの一瞬だけ、大気中に大きく火が広がる。一瞬の強烈な熱と光。男の意識を逸らすにはそれで十分だった。
割れた後のガラス瓶は、それそのものが鋭利な凶器になる。
飛散したガラスが腕に刺さるが、痛みを感じている暇もない。
先がどうなっているのかもわからないまま、割れたガラス瓶を握った右腕を前に突き出す。
人体で最も無防備な部位。薄い筋肉しかなく、骨で守られることもない。人間の首。
強烈な光と熱を切り裂くように、首を狙って右腕を振った。
「ぐぅッ!」
肉を突き刺すような感触と共に男の悲鳴が聞こえ、火のカーテンが大気に溶けていく。
突き出した右腕。握られたガラス瓶の残骸は、奇跡的に男の首筋に突き刺さっていた。
最後の力を振り絞り、男の首からガラス瓶の残骸を引き抜くと、首筋からおびただしい量の血液が噴き出した。
「があアァァアァァァァ!」
男の口から断末魔の悲鳴が上がった。両手で必死に首筋を抑えるが、血液は止まらずに溢れ続ける。
出血のショックで男の体が痙攣し、男はそのまま仰向けに倒れる。体からは糞尿が漏れ出し、男の衣服を汚した。
血液と糞尿で、酷い匂いと様相を呈した男の死体。動物の死に際だ。綺麗なはずも無い。そこに人間の尊厳は存在しなかった。
安堵と疲労、そして何より体へのダメージで、意識が朦朧としてくる。
掠れていく視界の中で、こちらに走り寄ってくる少女の姿だけが見えた。
エピローグ
目を覚ましたのは、倒れてから一週間以上経ってからだった。
目が覚めて始めに感じたのは鈍い痛みだった。
医者の話によれば、肋骨が数本、そして左腕の骨が折れているらしい。
その他にも、割れたガラス片による傷が顔中にあり、右腕は火傷の痕が色濃く残っていた。
元弁護士の男を殺した後の話は、チヒロが聞かせてくれた。
男による”洗脳”が解けた後の教団の人間達は、当初は狼狽えた様な様子だったが、意識がはっきりしていくと共に、誰に言われるわけでもなく村から出て、元々住んでいた場所に帰っていったらしい。
男による”洗脳”が無くなったことで、俺が寝ていた一週間の間に、教団クロスの本体も瓦解した。
男が残した傷跡が消えることは無いが、これで少しずつ、元の形に戻っていくことだろう。
記憶が戻ったことも、チヒロに伝えた。
「過去の俺は、酷い人間だった。自分が嫌な思いをしなければそれで良いと、たくさんの人を不快にして、傷つけてきたんだ……。自分の殻の中に閉じこもって、安全な所から他人を見下していた。自分が嫌な思いをしなければそれで良い、それが間違っているなんて、こうして誰かと一緒の時間を過ごしていれば、すぐに気づけるようなことなのに……」
懺悔のように、そう話すと、チヒロは俺の手を優しく握ってくれた。
「気付けたなら。傷つけた人達に謝って、これから変わっていけばいいじゃないですか」
その言葉に、救われたような気持ちになった。
変わりたい。いや、変わらなくてはいけない。改めてそう誓った。
それから、それなりの月日が経った。俺の怪我は大方治り、なんとか自力で生活ができるまでには回復した。
今日は怪我が治ってから最初の仕事。怪我を負った日と同様に、チヒロと一緒に研磨ウサギの世話をする日だ。
「良い天気ですねー。少し日差しが暑いくらい」
横でチヒロが楽しそうに笑った。
「随分と楽しそうだね」
「楽しみにしてましたから! こうしてまた、一緒に仕事ができるのを」
チヒロはそう言って笑った後、少し照れたように空を仰いだ。
「チヒロ、俺はこの村の人達に恩を返せたら、元の世界に戻るための方法を探す旅に出ようと思うんだ」
俺がそう話すと、チヒロの表情が少し陰りを帯びた。
この話をするのはこれが初めてではなく、この話をするたびにチヒロはそんな表情を見せる。
「絶対に、行かなきゃ駄目ですか……」
「謝らないと行けない人達がいるんだ」
「……前に話していた、傷つけた人達、ですか?」
「ああ、俺が不快にして、傷つけてきた、会ったこともない大勢の人達だ。俺はあの人達に謝らないといけない」
療養している時に決めたことだった。彼らに過去の過ちを謝罪しなければ、本当の意味で変わることなどできない。そう思った。
「謝ったら、戻ってきてくださいね。私、待ってますから!」
陰りを振り切るようにチヒロはそう言うと、ウサギの世話をする道具を持って走り出した。
「競争しましょう! 私が勝ったら、絶対に戻ってくるって約束して下さいね!」
楽しそうに笑いながら、チヒロは駆けていく。俺はその後ろをゆっくりと追った。
空は青く、雲一つない快晴だった。
人と関わり、少しずつ約束が増えていく。
それは見方を変えれば束縛とも言えるのかもしれないけれど。
今ではそれが、どこか嬉しくもあった。
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