恒心文庫:鳥葬
本文
高校中退した少年Aは、部屋の隅に座って煙草を吸っていた。
夏の夜は蒸し暑く、扇風機の音だけが虚しく回っている。
窓は全開のまま。外の街灯がぼんやりと差し込み、部屋を薄汚れた灰色に染めていた。
弟のアツシが帰ってきたのは、午後十時を過ぎた頃だった。
チーマーの黒いジャージは血と泥でべっとり濡れ、顔は腫れ上がって右目がほとんど開かない。
アツシは玄関で靴を脱ぐのも面倒くさそうにそのまま倒れ込み、廊下を這うように自分の部屋へ入った。
「クソが……」
アツシの呟きが、壁越しに聞こえた。
少年Aは立ち上がり、静かに弟の部屋のドアを開けた。
アツシはベッドにうつ伏せで倒れ、荒い息を吐いていた。
背中が上下するたびに、肋骨のあたりが痛々しく震える。
仲間たちに集団リンチされたのだ。
パー券をカラーコピーして売りさばき、その分の売上金を自分のポケットにねじ込んでいたのがバレた。
チーマーの掟は絶対だった。裏切り者は粛清される。
いつもならAを一方的にぶちのめすアツシが、今はただのボロボロの肉塊だ。
Aはゆっくりと近づいた。
手には、部屋にあった細くも頑丈な金属繊維の物干ロープ。田園調布の豪邸には物干竿という不粋な物がない。
Aはアツシの首筋にステンレス・ワイヤーの縄を巻きつけ、ゆっくりと力を込めた。
アツシは一度だけビクッと体を跳ねさせたが、疲労と痛みで抵抗する力など残っていなかった。
Aは歯を食いしばり、縄を両手で引き絞った。
「今まで……ずっと、ずっと……」
言葉は出なかった。ただ、弟の喉がゴクッと鳴り、痙攣が止まるまで、Aは力を緩めなかった。
息が完全に止まったのを確認してから、Aはアツシの体を起こした。
ドアノブに縄をかけ、アツシの首の縄をそこに通した。
体を少し浮かせて、膝を伸ばした姿勢にする。
ドアを静かに閉めると、首吊りの体勢が完成した。
電気は消したまま。
部屋は真っ暗になった。
Aは自分の部屋に戻り、ベッドに横になった。
汗が背中を伝う。
胃の腑がまだバクバクと鳴っていたが、奇妙な静けさが胸の奥に広がっていく。
これで終わりだ。
いつも勝てなかった弟が、ようやく自分の下になった。
その夜は、異様なほど蒸し暑かった。
開け放たれた窓から、湿った夜風が部屋に流れ込む。
すると、最初に一羽。
続いて二羽、三羽……。
カラスだった。
街のゴミ捨て場で育った黒い鳥たちが、暗闇に溶け込むように部屋へ舞い込んだ。
続いてムクドリやハトまでもが、匂いに誘われるように入ってきた。
鳥たちはアツシの体に群がった。
縄で首が折れたように曲がってるところを含む、脆くなったまま二度と元に戻らない部位から順にアツシの遺体を鋭いくちばしでつつき始めた。
皮膚を裂き、流れ落ちずに固まった血を啄み、肉をこそぎ取る。その下から骨とか、それらのどれでもないものが現れる。
暗い部屋の中で、鳥たちの羽音だけがガサガサ、バサバサと響く。
アツシの最後の場所となった子ども部屋は、みるみるうちに「兄の犯行の痕跡」を失っていった。
成長期を残したまま命の灯が消えたアツシの遺体から少なからぬ分量が鳥たちの腹に収まり、
没後のアツシには更なる無数の小さな傷たちと、不潔な野鳥の体液で更にひどさを増した腐敗進行が残り、
部屋にはあまりにもな残骸が飛散した。
野良犬にでも食い荒らされたような、無辜の鳥たちが作った惨状。
無辜とは言い難いが無邪気でもあったアツシは最後、自然のルールに、その身を任せたのだ。
カラスが何か大きい塊をくちばしに咥えて飛び立った。
他の鳥たちも、次々と窓から出て行く。
最後の一羽、小さくて弱い一羽が、床に落ちていたアツシの血のついた煙草の吸い殻を啄んでから、夜の闇へ消えた。
朝が来た。
眠れなかった夜の間ずっと聴こえていた隣室の音で、察してはいたが。Aは恐る恐る、ゆっくりと弟の部屋のドアを開けた。
昨夜、ドアを閉めた時と同様にすごく重いドア。顔は歓喜を隠せない。
歓喜がドア枠とドアの隙間から見おろす。
そこにあるのは、首を吊ったままの弟の体——。
しかもそれは首と手の傷を含む体の多くの部分が鳥に食い尽くされて、いつかセルビデオで観た「野ざらしの腐乱死体」のように変わり果てていた!
警察が来ても、これは「自殺に見せかけた他殺」ではなく、「自殺した後で鳥たちに荒らされた」と思われるだろう。
証拠は、すべて空に消えた。
Aは、落ち着きを取り戻して静かに微笑んだ。衝動的な思い付きと咄嗟の機転が立て続けに当たった勝利。
高校を中退して以来、初めて味わう、完全な勝利だった。後年、弁護士になってからも、これほどの勝利を味わうことはない。
外では、まだ夏の朝日が容赦なく照りつけていた。弟が消えた、僕の前から消えた。僕はかわいい一人っ子。
カラスが窓の外の電線で、食欲を満たして満足げにカァァーーッと鳴いていた。
少年A:唐澤貴洋
リンク