建設人
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建設人(けんせつじん)とは、建設人社が毎月発行している雑誌、月刊建設人のことである。この月刊誌で、河野典男が紹介されていることが話題になった。この記事では、河野典男の記事について記載する。
概要
河野典男が、東急精機工業株式会社の社長に就任した際、それまでの人生を紹介した内容が書かれている。自身が、左目を失明したり、河野一三や河野一英が、父・長男という形で登場する、非常に興味深い文章になっている。
「月刊建設人(建通新聞社)」より
全文
建設人 世紀東急工業株式会社 社長 河野典男 世紀東急工業創立10年目のことし6月に東急建設副社長からこちらの社長に就任した。 東急の生え抜きであり,世紀建設と東急道路合併の立て役者だから,だれが見ても順当な人事。 身長180センチ,体重100キロという巨漢で,事実なかなかの豪傑だが,相手の立場に立って考える繊細さも備えている。 技術者だった歴代の世紀東急工業社長と幾分肌合いが違うが,人柄がよく「誠実と努力を旨とする」など,大筋では同じ系譜に連なるひとといえる。 持ち前の馬力で会社をどう発展させるか,注目されるところである。 海軍の猛訓練で,人柄が一変 昭和3年11月19日,東京府下荏原群東調布町字下沼部の生まれ。 「ボツボツ住宅が建ちはじめていたが,辺りはまだ一面の畑だった」というが,何とそれがいまの田園調布。 兄3人,姉1人,弟2人の7人兄弟で,体が大きく,おっとりしていたので,「七福神の布袋さん」と呼ばれていたとか。 父が,当時の横浜市長と多摩川の両岸10里にサクラを植えさせたり,丸子橋の架橋を計画し, 東急電鉄に土地を寄付させて東京側から着工するなどの地元活動をした土地の有力者だったので,小学校を終えると,その父の弟分が校長をしていた東京実業学校に進む。 ところが戦争が激しくなり,修業年限も短縮され,「本土決戦」の声も聞かれるようになったので「同じ殺されるなら戦って死のう」と決意し, 海軍特別幹部練習生の試験を受けて,20年5月武山海平団に,そして砲術学校に入隊した。 ここの訓練は大変なものだった。重装備の強行軍では,意識不明になって倒れるものがバタバタ出た。 米軍機の爆撃で友人の何人かが亡くなられたこともあった。藤沢市辻堂の演習場で砲術訓練を受けていたら本当に敵機があらわれ,そのまま実戦となった。 こうした訓練の中で「何クソッ」という度胸がつき,おっとりした人柄が一変した。 それ以来,どのような困難に境遇しても「あの時耐えられたんだから」と思うと少しも怖いと感じなくなったという。 私鉄経協で労使問題を勉強 「敵の機動部隊が相模湾に上陸してくる」という情報もあり,手榴弾を渡されて水際決戦の訓練をしている最中に終戦の詔勅を聞いた。 突然のことで何が何だかにわからず,戦友たちと抱き合って泣いた。 同時に「ああ,これで助かったんだな」という感慨も湧いた。 復員したが上級学校へ行く気にもならず,1年ぐらい虚脱状態でいるところへ直兄が復員してきて「これからは学校へ行かなければダメだ」と叱咤激励されたため, 翌年明治大学商学部の専門部を受けて入学した。 本科を卒業するに当たって,父が当時の東急会社五島慶太氏(故人)と親しかったので東急電鉄を受けて合格,28年7月入社した。 2年近く,改札,出礼,車掌,運転士などをつとめたあと,30年5月から3年間私鉄経営者協会に派遣され,私鉄総連との団交や中労委交渉の事務局をつとめた。 20歳代の若さで中央の労使交渉の表裏を見,経営や労務の勉強をし,中央官庁や組合幹部とも知り合い, とくに,後に私鉄各社の幹部になる各社派遣社員と昵懇になったことは,河野さんにとっても得難い経験だった。 33年には本社勤労部に戻ったが,入社以来この時期を通じて勤労部長だったのが,現会長の八木勇平氏である。 海外斬り込み隊長を買って出る 36年2月には創業1年ばかりの東急建設に出向し総務課係長,しばらくして課長,総務部次長と草創期の同社の経営中枢に関与。 44年には横浜副支店長,つづいて本社総務部長,人事部長,横浜支店長,常務,専務,東京支店長,副社長と,東急建設の発展とともに栄進した。 その間,社は47年代はじめにはグアムに進出,建設業界では他社にさきがけて現地法人もつくった。 だが一時,第1次石油ショックなどの影響もあってうまくいかなくなり,撤退話が持ち上がったことがあった。 当時の八木社長から「撤退してもよいが,東急が逃げ帰ったといわれないようにしてくれ」と指示された。 これを聞いたこのひとは「じゃあ,わたしがやります」と斬り込み隊長を買って出,自らタイ,マレーシア,シンガポール,ハワイに乗り込んで現地の提携先を探し, 海外事業発展の橋頭堡を築き,つづいてシアトル,ロサンゼルス,バンクーバー,パラオ,バヌアツ等へとエリアを広げていった。 また,東京支店長時代には,折からの首都圏集中の波に乗って多角的な事業を展開,東京の用賀プロジェクトや羽田空港のJASの格納庫(現在工事中)なども手掛けたが, 特筆すべきものの一つが,池上線戸越銀座~旗の台駅間で行った,現在使用中の線路を切り替えるという「直上高架切替工法」の開発,施工だった。 このようにして,就任時1千億円だった事業規模を約3倍に広げた。 「世紀」と「東急」の合併をまとめる 53年には東急建設の常務をつとめながら,東急道路の取締役を兼ねたが, そのころ旧満州国(現中国東北地方)の優秀な技術官僚が集まっている世紀東急と東急道路の合併話が持ち上がった。 河野さんは東急建設の担当として,当時の世紀建設副社長の工藤忠夫さん(注=元世紀東急工業社長・故人)と交渉に当たり,57年合併に持ち込んだ。 世紀東急工業の誕生である。 そうしたいきさつもあってことし6月社長に就任した。 「あれ以来,わたしは,工藤さんを技術にも経営にもめっぽう強い兄貴分として私淑してきました。幸い,わが社はこれまで4代の社長の技術と人柄で信用を築いてきました。 この伝統を壊さないよう,一致団結して社業を発展させていきたい」と社長としての抱負を語る。 また,社の運営については「企業はひとなりと言われるが,幸いわが社はひとに恵まれているので, みんなで力を合わせて,皆さんに“この会社に勤めてよかったなぁ”と思ってもらえるような会社にしていきたい」と考えている。 ケガしてもタダでは 昭和46年,乗用車を運転して高速道路の川崎インターで照明灯に衝突した。 すごい衝撃だった。額に手をやると骨が出ている。 隣に乗せていた部下のことが気になったが,救急病院で治療を受けたあと,院長が看護婦に「村山さんは通院でいい。河野さんは入院」と指示しているのを聞いて 「2人とも助かったんだな」と思ったという。 この時の後遺症で,いまも左目は見えず,左手は曲がったまま。だが,このときの5~6回の手術のなかで ①自分は前方不注意でこんな目にあったが,人間はいついかなる場合でも,最も肝心なことだけは守らなければならないんだ, ②こんな苦しみは経験しないとわからない。人間は他人の立場に立って考えることが大事なんだ ――という2つのことを学んだという。ケガしても,タダでは復活しないひとである。 いまでも月に4回はゴルフをやるほか,絵画や日本庭園を見て回るのが好き。 変わったところでは,ハワイ,ニュージーランド,ポナペなど太平洋の島々の素彫りの人形を集めている。 それに謡曲もうたうなど趣味は極めて多彩。 「前東急建設社長の馬淵寅雄氏が亡くなるとき“人に心をつくしたよい人生であった”といわれたが, わたしは“人に心をつくされ,そしてつくしたよい人生であった”といえるようになりたい」というあたり,ひとの心を大切にする社長さんである。 〔村上圭三〕 ――――――――――――――――― 世紀東急工業株式会社 本 社 東京都港区芝公園2―9―3 資本金 109億6,200万円 従業員 1,350名 設 立 昭和25年4月1日
脚注