恒心文庫:卒業
本文
「ヒロシが来ないんじゃこんな所にいてもしょうがねえや畜生」
と、ドアに蹴りくれて出ていった祥平の、肩をそびやかした後ろ姿をおもいだして
裕明はかすかに笑った。
どこへ行ったのかと思ったら、目と鼻の先に勤めてるじゃないか。
……俺もそろそろ、引け時かな。
一人で淡々と事務処理をする深夜の事務所。椅子に座ったままおおきく
伸びをすると視野の端にどうしても入ってしまう洋さんの重厚なデスク。
初めて個人事務所を開いたときに、開業資金の殘をぜんぶ張り込んで買った
イタリア製のマホガニーだと自慢話を何度も聞いた。
ならべて置いてある、コクヨくるくる学習机はアレの席。
この机は、もうだいぶ前にお亡くなりになられた次男さまへの入学祝いだと
お爺様がお贈りになった物だそうな。今の主はほとんど机を使わないので
うすく埃が積もっている。
洋さんが慢性直腸炎に伴う重度糖尿で事務所にお出でにならなくなってから
何日たつだろう。もうお戻りにはならないだろうことは分かっている。
あきらめもついた。御宅へお見舞に伺おうと何度も考えたが、会えば取り乱し
そうで、ためらってしまう。
この事務所を畳む、あるいは放り出される前にどうしても言わねばならない
ことがある。お見舞のおりに直接言うか、電話で話そうか、いろいろ考えた
すえに、手紙に託すことにした。手紙書くならこの時間、この場所がいいな。
『厚子さま
洋さんをお返しします。どうぞ末長くお幸
やはり嗚咽がこらえ切れず、机に突っ伏してしゃくり上げて泣いた。
泣き疲れてそのまま眠ってしまった。
誰かが肩を小突く。
「アンノォ! 冷凍庫内に所在する当職のガリガリ君の冐用、
深く憤っております!!」
知るか。誰がそんなものに手を出すか。洋さんの遺伝子を受けているとはいえ
コレだけは嫌だ。
「寝るなら電気を消す、それは出来るよね。
ウー大変に電気代が勿体ないことだとウー思います。
エー給料から引かざるを得ないと、」
ああこんなとき洋さんだったらどうしてただろう?
思い出したわ。
裕明は貴洋の睾丸に渾身のひざ蹴りを食らわせ、そのまま事務所を出ていった。
吹っ切れた、さわやかな表情をしていた。
……洋さんに会えないんじゃ、東京もつまらないところになったな。
どこか、もっといいところへ行こう。