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2章
>化学に強い弁護士
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(2章)
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そのあとも数多くの実害をこうむりますが、私は弁護士活動を続けました。<br>
そのあとも数多くの実害をこうむりますが、私は弁護士活動を続けました。<br>
よく弁護士を辞めませんでしたね、と聞かれることがあります。それには私が弁護士になった経緯をお話しする必要があります。
よく弁護士を辞めませんでしたね、と聞かれることがあります。それには私が弁護士になった経緯をお話しする必要があります。
== 第2章 弁護士を目指したきっかけは、弟の死 ==
=== 私には年子で仲良しの弟がいた ===
私には年子の弟がいて、同じキリスト教系の私立小学校に通っていました。<br>
弟はやさしい性格のお人好しで、ちょっと悪ぶっているような強めの同級生から割といじめられやすいタイプでした。<br>
そのため、ちょっとしたことでよくいじめに遭っていました。<br>
私は、小学校で弟が泣いていると聞くと、弟の教室に行って、「泣かせた奴は誰だ! 出てこい!」といじめた相手を見つけ、ケンカをしていました。<br>
弟の同級生たちからは、「怖い兄貴」「ヤバイ兄ちゃん」と恐れられて、「アイツをいじめると、兄責が出てくるからやめておけ」という抑止力にはなっていたと思います。<br>
こんなことをいうと、正義感が強かったと思う人もいるでしょうが、当時の私は単純に、弱い者いじめをする奴が許せなかっただけ。<br>
特に身内がやられるなんて、絶対に許せない。やられたら必ずやり返す。そう思っていました。<br>
幸いにしてケンカは強いほうだったので、弟を守ることができていました。
とはいえ、年が1歳しか変わらないこともあり、普段は一緒に外で遊んだり、駄菓子屋に行って買い食いをしたり、<br>
他愛のないことで兄弟ゲンカをする、どこにでもいる仲のいい兄弟でした。
小学校を卒業して、中学・高校になると、私たち兄弟は別の私立大学系列の付属校に通うことになりました。<br>
お互いに思春期を迎え、自我が芽生えていたため、それぞれのコミュニティをつくり、そこでできた友人と遊ぶようになり<br>、
ほかの家庭の兄弟などと同じように、私たちも次第に行動をともにすることもなくなりました。<br>
家庭で口をきくこともほとんどなくなり、お互いが何を考え、何をしているのかもわからず、疎遠になっていきました。
私自身、自分の人生に疑問を持ち、通っていた高校を中退して、定時制高校に入り直すなど、人生の岐路を迎えていました。<br>
正直なところ、自分のことでいっぱいいっぱいで、弟のことを顧みるような余裕もなかったというのが実状です。
そして、1995年8月25日のことです。<br>
弟が突然、自ら命を絶ったのです。
=== 壮絶なリンチの末、弟は自死を選んだ ===
弟が自殺したのは、高校2年生、16歳の夏でした。
弟は中学から同系列の高校にエスカレーター式で入学していましたが、その弟の様子が徐々におかしくなっていることに私はうすうす気づいていました。<br>
たとえば、高校入学直後は普通の学生だったのですが、次第にヒップホップミュージシャンが着るようなストリートファッション(B系ファッション)を好んで着るようになったのです。<br>
オーバーサイズのTシャツに、ダボダポのずり下げたズボン(腰パン)を履いていました。<br>
人がよく、やさしかった以前の弟とは、イメージがまったくかけ離れています。<br>
なぜそんな個性が強めの格好をするようになったのかと、実は私は気になっていました。<br>
彼が自ら選択し、好んで着ている服装ではない気がしたのです。見た目からも私がよく知っている弟ではないのは明らかでした。
あとになってわかることですが、弟がエスカレーター式で入学した高校には、中学から進学する生徒と高校から新たに入学する生徒がいました。<br>
高校から新しく入った生徒の中に、私たちが住んでいた実家の近くに住んでいる不良のKがいて、その人間を通して弟は地元の不良グループとつながったようでした。<br>
不良グループと関係を持ったあとのことだと思いますが、こんなことがありました。<br>
あるとき、弟の腕をふと見てみたら、赤い痕のようなものがありました。<br>
それは、火のついたタバコを皮膚に押し当ててできた、いわゆる〝根性焼き〟なのですが、当時の私にはそれが根性焼きという認識がなく、「赤くなってるよ? 火傷か? どうした?」と事の重大さもわからずに尋ねました。<br>
すると、弟はうつむき、何も言わない。私はその様子が気になって、母親に「何かおかしいと思う。注意して、様子を見ておいたほうがいい」と忠告だけはしました。
先ほど述べたように、私と弟は思春期真っ盛りで疎遠になっていました。<br>
それでも、私は弟の身に何かよくないことが起こっていることは敏感に察していました。何だか違和感を抱いていたのです。<br>
しかし、弟に面と向かって言うのはさすがに気恥ずかしくて、「弟に『何かあったら、俺に言え、俺を頼れよ』と言っておいて」と、直接本人ではなく、母親に伝えることしかできませんでした。
当時、東京の繁華街にはさまざまな不良グループが存在し、「パーティーを開く」という名目のもと、パーティー券(パー券と呼ばれていた)を売りつけ、収益を上げていました。<br>
パーティーは金目当てであったので、開かれないこともしばしばありました。<br>
弟は高校の同級生のつながりで知り合った地元の不良たちに目をつけられて、パシリ(使いっぱしり)、恐喝の対象になっていたようです。
また、その不良グループには、優秀な私立高校をドロップアウトし、「人を殺すことは怖くない」「自分は少年院にいたことがある」と吹聴している人間もいました。<br>
こういった連中の中に、後に暴力団員になり、振り込め詐欺で捕まった者もいました。<br>
この連中に、弟は「パー券を売ってこい」と命令されていたのですが、人のよい弟は開かれないパーティーのチケットなど当然売ることができるわけもありません。<br>
その結果、パー券が売れなかった見せしめに、多摩川の河川敷で、弟は壮絶な集団リンチに遭いました。<br>
そして、その日の夜に、弟は自らの命を絶ったのです。
1995年8月25日、弟が死んだ日のことを私はよく覚えています。<br>
夏休み中だったので、家族の誰もが、弟が部屋から出てこないのは、ただ寝ているだけだと思っていました。<br>
しかし、昼を過ぎても起きてこない。不審に思った父親が弟の部屋に行くと、部屋の鍵がかかっていました。<br>
そこで、鍵をこじ開けて部屋に入ってみると、そこには首を吊った弟の姿があったそうです。<br>
首を吊ったまま冷たくなっている息子を、父親は一人で降ろしました。
そこで、家族が呼ばれました。ですから、母も私も、弟が首を吊っている現場は見ていません。<br>
弟は全身、傷だらけ、アザだらけで、自傷の跡もありました。<br>
その顔は、半日を開いて、虚空を見つめて、口が開いていました。<br>
首吊り自殺はなかなか死ねない、とどこかで聞いたことがありますが、苦しみ抜いて、悶絶して絶命した弟の表情を一生忘れることはないでしょう。
弟は集団リンチに遭ったあと、家族の誰にも会わないよう、夜中にこっそりと自宅に戻ってきて、そのまま遺書を書いたようです。<br>
その遺書には、自分を追い詰めた連中の名前が書いてありました。そして、家族全員の名前のあとに「ごめんなさい」とも……。
=== 戦えるだけの力をつけた大人になりたいと誓ったあの日 ===
その後、警察がやって来て、現場検証が始まりました。<br>
弟のバッグからは、売られなかったパーティー券が大量に発見されました。<br>
警察からは、「弟は開かれる予定もないパーティー券を売れと命令され、売れなかったことを責められて、多摩川の河川敷で、暴行に遭った」と聞きました。<br>
偽りのパーティー券を売る後ろめたさ、売らないとまた集団リンチに遭う恐怖との狭間で、おそらく精神的に追い込まれてしまったのでしょう。<br>
弟は、心身ともにポロポロで限界になり、自ら命を絶ってしまった。今でも私はそう思っています。
集団リンチと自殺の関連は明白だったのですが、結果として事件として立件されたかどうかもわかりませんでした。<br>
両親が何度となく、警察に働きかけていましたが、その少年たちがどうなかったかは何も教えてもらえませんでした。
私は17歳でした。<br>
「この社会には人の命を奪う悪が存在する」と思うと、強い怒りで体が震えました。弟を死に追い込んだ連中を「殺してやりたい」と本気で恩いました。<br>
小学校でいじめに遭っていた弟を救ったように、今度も兄である私が決着をつけると。<br>
これが当時の私の偽らざる本音でした。
でも、未成年だったあの連中は、弟が死んだというのに何のお各めもなく、普通に暮らしているのです。<br>
そんな状況を見て、17歳の私は「世の中には絶対的な不条理が存在する。その不条理と立ち向かわなければいけない」と、怒り、諦め、不信感、絶望感などが複雑に絡み合った感情を抱きました。<br>
と同時に、知識も経験もなく、何もできなかった自分の無力さにも打ちひしがれていました。<br>
ただ私が強烈に感じたのは、「力が欲しい」「力を持たなければ何もできない」ということ。<br>
大切な弟が〝殺された〟というのに、手をこまねいて見ていることしかできないなんて、不甲斐ない。<br>
どうしようもない矛盾や危機に対噂したとき、戦えるだけの力を持った大人になりたいと、そのとき心底から思ったのです。
=== 弟の死でバラバラになりかけた家族を救った父 ===
弟が死んでから、家族はガタガタになりました。<br>
家はいつも暗く、シーンと静まり返り、母は精神的なショックによりふさぎ込み、毎日泣いていました。<br>
家族がバラバラにならずに踏みとどまれたのは、父のおかげでしょう。<br>
もちろん、父も悲しみに打ちひしがれていたとは思うのですが、家族の前では涙ひとつ見せませんでした。<br>
毎日仕事も休まずに行き、淡々と日常をこなしていく。<br>
家族が精神的に参っているからこそ、「自分がしっかりしないといけない」「自分が崩れたら終わりだ」と気負っていたのかもしれません。<br>
人としてタフなんだと思います。
しかし、そんな父も弟が死ぬ前は信心深くなかった印象がありますが、弟の死後はよく神社に参ったり、四国のお遍路に行くようになったりはしました。<br>
父なりに弟を弔っているのではないかと思っています。<br>
親戚からは「高校も中退したし、フラフラしていて、'''危ういのは弟ではなく貴洋のほうだった。だから、貴洋のほうが、自殺したのだと思った'''」と言われたこともありました。<br>
自分が親戚からの評判も悪く、親に迷惑もかけていたのは重々承知していました。<br>
迷惑をかけている自分が生き残り、家族や親戚の期待を背負っていた弟が死んだ今、<br>
「自分が家族を守っていく。強くならなければいけない。そのためには勉強をして、悪と戦えるだけの力、手段を手に入れなければ」と、心を入れ替える決意をしました。
当然ですが、この決意に至るまで一本道ではなく、紆余曲折がありました。<br>
「どうして救えなかったのか」「もっとあのときこうしていれば」「弟のSOSに気づいてあげられていたら」と悶々とし、<br>
もしかしたら、弟の自殺を食い止められたのではないかと、自分を責め続ける日々を過ごしました。<br>
高校の授業が終わると、弟の墓へ行き、一人泣いていたこともありました。<br>
両親とはそんな話はしたこともありませんが、これは何も私だけではなく、家族もそれぞれ自分を責めていたと思います。
子どもが成長して高校生くらいになると、行動範囲も交友関係も、親が把握していないところまで広がります。<br>
自分の高校時代を思い返してみても、やはり親にいちいち話などしませんでした。<br>
新しい友人や恋人ができたりして、親の知らない自分の世界を新しく構築していくのが巣立ちの第一歩であり、<br>
子どもも親に自分のことを語らなくなるし、親だって根掘り葉掘り子どもに聞かないのが、普通ではないでしょうか。
だから、両親が今でもあのとき弟に何もできなかったと、自分を責めているとしたら、それは違う、と今なら言えます。<br>
仕方がなかったことだと思ってほしいのです。<br>
[[世の中ナメ郎|私のような身勝手な人間]]を、責めもせず諦めもせず育ててくれただけでも、両親には感謝してもしきれない。本当にありがたいことです。


== 脚注 ==
== 脚注 ==