→「桜の多摩川」
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その父の弟分が校長をしていた東京実業学校に進む。本科を卒業するに当たって、 | その父の弟分が校長をしていた東京実業学校に進む。本科を卒業するに当たって、 | ||
父が当時の東急会長五島慶太氏(故人)と親しかったので東急電鉄を受けて合格、28年7月入社した。 | 父が当時の東急会長五島慶太氏(故人)と親しかったので東急電鉄を受けて合格、28年7月入社した。 | ||
''[http://kosenrufu.ldblog.jp/archives/1565479.html 広宣流布は俺がやる!桜樹燦爛]より'' | |||
私のふるさと太田の多摩川のほとりにも、有名な桜並木がある。 | |||
流れに沿い、堤に沿って、にぎやかに万朶(ばんだ)の春を展(ひろ)げる、平和の園となっている。そこにも、ひとつのドラマがあった。 | |||
その昔、多摩川は決壊を繰り返す「暴れ川」であった。 | |||
大正七年から、政府は多摩川の下流の治水工事を推進した。 | |||
昭和四年春、十余年におよぶ工事が竣工しつつあったが、河口から二〇キロにおよぶ地域は、雑草が茂るままであった。 | |||
今の太田文化会館のあたりの両岸がそうである。 | |||
さて、この土地をどうするか――町長は「屋根替」のために「茅」でも植えようかという。 | |||
すると、ある人いわく「茅の恩恵を受ける人は少数だ。長堤に植えるのは桜です。百年後の桜の名所をつくるんです」。 | |||
春は花、夏は緑。「京浜地域の幾百万の健康道場」にすべきだというのである。 | |||
彼、河野一三(かずそう)氏の無私の情熱が、多くの人を動かして、障害を乗り越え、雑草の堤は、桜の公園に生まれ変わった。 | |||
そして戦火にも負けず、生き抜いて、今、二十一世紀を迎えんとしている。「百年後の桜の名所を」との尊き思いの通りに。 | |||
河野さんは、学会の文芸部員として活躍された娘さんの勧めで、晩年に学会員となられた。 | |||
''[http://krswisgod.blog.jp/archives/30352647.html 恒心スポーツ]より'' | ''[http://krswisgod.blog.jp/archives/30352647.html 恒心スポーツ]より'' |