恒心文庫:現実

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2020年、唐さんが長谷川亮太さんの依頼を受けてから何年経っただろうか。
未だ炎上は収まらず、むしろ勢いを増して燃え盛るばかりだ。
その起因には2018年に起きたある事件の影響が大きい。唐さんの痴漢冤罪事件である。
一応断わっておくが、唐さんはネットで吹聴されている様な下品な人物では無い。
確かに依頼人をすぐに見捨てたり、詐欺紛いの商売をしていることは否定できないが、それは本心からの悪では無く、彼の心の奥に潜む暗い影が由来していることを僕は知っている。
唐さんの痴漢が冤罪だと言うことは、そばで見ていた僕の証言もあって奇跡的に証明されたが、
炎上の火をますます燃え盛らせるには十分な失態だった。ニュースでも取り上げられ、大いに顔が晒された。
その事件がきっかけで、少しネットを利用する人ならば知らない人は居ないほどのコンテンツまで膨れあがってしまったのだ。
今までのように気軽に町を歩くことなど出来なくなり、出かける時はマスクに黒尽くめの格好をしなくてはいけなかった。

そしていつものように、僕たちが出張の為に駅まで出向いたあの日、洋氏は死んだ。

表向きには線路への転落と言うことになっているが、本当は違う。駅のホームで電車を待っていた折、洋氏の姿が周りにばれ、堂々と盗撮をしだした聴衆と取っ組み合いになったあげく、線路に落ちたのだ。

白モミがいる。出龍がいる。
そのざわめきは瞬く間に広がり、ホームには携帯のカメラで洋氏の姿を収めようとするもので騒然となった。
シャッターの音で埋め尽くされるホーム。温厚な洋氏も限界だったのだろう。一人の男に掴み掛かった。
「もうやめてくれ!!!!!いい加減にしてくれ!!ワシの息子が悪いことをしたのはワシが謝る!!だがもういいだろう!!いつまでワシらを苦しめるんじゃ!!!」
涙を流しながら掴み掛かった洋氏を見ながら、僕は何も出来なかった。いや、何もしなかった。 騒動の一員になるのが怖かったのだ。
唐さんも同様にもじもじしながら知らぬ振りをしていた。
「ほんまもんの白モミやんけ!!!すげええええ!! てかいい加減離せっつーの!!」
勢いよく振り払われた腕によってバランスを崩し、洋氏は線路に落ちた。刹那、轟音と悲鳴が響き渡り、そして肉塊になった。

人脈も広く、会計士会に彼を尊敬する人物も多かった洋氏の死を悲しむ人は少なくなかった。 同時に、なぜ彼が死ななければならなかったのかと皆が疑問に思った。
疑問の矛先が向いたのは唐さんである。有能な会計士の息子として生まれながら、詐欺まがいの商売で悪名を欲しいままにしたバカ息子。
洋氏を炎上に巻き込み、死に追いやった確信犯。何故だ、何故お前が生きている。
同業の弁護士からの視線も、前にもまして冷たくなっていった。

自殺未遂によって重症を負い、病院のベッドに横たわる唐さんが静かに口を開いた。
僕がネットで弁護士の癖に新興宗教じみた文章を垂れ流していたことは知っているだろ? 
僕は悔しかったんだよ 人を苦しめても、騙してもなんとも思わない人間がいる事が 僕の弟を殺してのうのうと生きてる奴がいることが
そんなクズ共を弁護士の肩書きで支配してやりたかった。奴らの化けの皮を剥いでやりたかったんだ。
人が人に優しい世界なんてどこにもないのさ 父さんは僕のことを何も分かってなかった。分かってくれなかった。
山岡くん 君も本心では僕の事をバカにしていたんだろう?無能だって笑っていたんだろう?動画やスレを見て笑っていたんだろう?ナリナリナリナリ!あはははは!!

僕は狂ったように笑う唐さんの乾いた瞳を見つめたまま、何も言い返すことが出来なかった。

退院した唐さんは、もう以前の唐さんでは無くなっていた。
まず事務所の応接室に引きこもるようになった。少ない食事とトイレの時以外は出てこない。
依頼人が来ても引きこもったまま出てこない為に、依頼は僕がもっぱら対処することになった。
主に応接室では死んだようにずっと寝ているか、パソコンの画面を死んだ目でじっと見つめているかだ。
幸い僕が応接室に入ることは気にならないらしく、パソコンで何を見ているのか気になった僕は唐さんが寝ている隙に覗いてみた。

暴れん坊会計士掲示板…?なんだこれ… うっ…!
その正体を知ったとき、僕は思わず吐き気を堪えた。
そこには今は無き唐澤洋氏や唐さんが創作の官能小説の登場人物としてあられもない痴態をさらしていたのだった。

「見たナリね」

唐さん…? 何なんですか?その喋り方は… それじゃ、まるでネットの… それにこれは一体…

ナリナリナリナリナリナリイイイイイイイイイイイイイ!!!!!!!!!!
突然奇声を上げて暴れ出し、応接室のあらゆるものを壊し始めたかと思うと、今度はまるで幼児のように部屋の隅にうずくまり、しくしくとか細い声で泣き始めたのだった。
洋…洋…洋…洋… 
よく見るとズボンから黄色い液体がじんわりと流れ出していた。

山岡くん? 優しい世界って何ナリか? 人が人に優しい世界なんて本当は無いナリ。 仮に優しい世界があるとするならば、それは自己満足の自分だけに優しい世界ナリ。
知ってるナリよ、山岡くん、痴漢冤罪の事件も全部君が仕組んだナリね。 掲示板に当職の情報をリークして神扱いされてたナリね。
山岡くんが当職にできることは何ナリ? 謝罪?いらないナリ。 
当職の優しい世界を山岡くんが作るナリよ。 
当職のオモチャになるナリ。

おもむろに唐さんはズボンのチャックを下ろし始めた。

つづく

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