恒心文庫:止めろ

本文

奇妙な沈黙が暗闇を覆っている。
暗闇には男が一人、頭を抱え声なき声をあげて身をよじっている。
「」
時折男の細い息遣いが笛の音の様に暗闇を抜けていく。その後を追う様に男の汗や唾で濡れた手足がお互いに絡み合っては離れ、また絡み合う。腋や股を伝う水分が男の動きに合わせ粘質な音を立てて散る。暗闇には熱気と湿気が立ち込め、その息苦しさから逃れる様に、のたうつ四肢の中心に男の顔が苦悶で歪む。
その重苦しい沈黙の中、ただ一人男だけが気づいていた。いつだったか、自慢の黒いもみあげの手入れをしていた時の事。梳いたクシに、一本の白い毛が絡まり、二本三本と増えていき、それが今では。
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!! !!!!!!!!」
ふと、男の叫び声が響き渡る。途端暗闇の中を無数の白い線が走っていく。それは男のもみあげであった。かつてあんなに黒く照り輝いていた男のもみあげはその色を失い、懸命に抑えようとする手の平からとめどなく流れ出しているのだ。流れ出したそれは無数に枝分かれ合わさりながら地を走り天を抜けその空間をすっぽりと包み込んだ。
打って変って白い空間に放り込まれた男は変わらず叫び続けていた。しかし助けは無い。ピンと張り360°パノラマに広がる中心に男は固定されていた。
人間の毛というものは意外に丈夫であり、銅線とほぼ同じ硬度を持つ。空中に縫いつけられた男の体重を支えるのに無数によじれたもみあげは十分な強度を持っていたが、それらが根付く男の皮膚はそうではない。すぐに、男の叫びに合わせて男の肌が限界を伝えて叫ぶ。そして数瞬の後、男はひっくり返った。負荷に耐え切れ無かった男の皮膚が、男の中身を放り出して中心線で裂けたのだ。
ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!!
血を全身から漏らしながら宙に放り出され地に打ちつけられた男は剥き出しになった両の目で確かに見た。
自身を放り出した皮膚にもみあげが絡みつき、瞬く間に人の、一人の男の輪郭を象っていく。周囲に溢れかえっていたもみあげは徐々に皮の中へと流れ込み、やがてその頭を覆う様に撫でつけられた白毛を残すのみとなる。
現れた男はその切れ長の目をゆっくりと開けると、品の良さそうな笑みを浮かべた。

リンク