恒心文庫:愛が憎しみに代わるまで

本文

「山岡くん、山岡くん」
「なんですか、からさん。ご飯ならさっき食べたでしょ」

誰もが聞いても無能だと思うような、気の抜けた声がガランとした事務所に響き渡る。普段はぼそぼそと喋る唐澤貴洋は、何かを要求するときだけ通る声を出す。
敬愛する会計士に擦り寄るために買って出たたかひろくん係だが、我慢を繰り返しているうちに、唐澤貴洋の発言一つで些細な機微までわかるようになってしまった。全く嬉しくない。

「たかひろ食いしん坊じゃないもん!」

投げやりな対応が気に触れたのか、突如顔を赤らめ怒り出す。だが、その健康的を通り越すほどに膨らんだ不健康な体型を見て、そうじゃないと言える人間は少ない。
相当不服だったようだが、しかし怒りはすぐに収まる。唐澤たかひろは甘いものの取りすぎてキレやすくなっているのだが、同時に忘れっぽくもあるので、ガリガリ君を差し出せばすぐに機嫌を直す。

「あまあまさん、美味しいナリ~」
「……で、からさんは何が言いたかったんですか。また不審な荷物でも届いたんですか?」

今こそ収まったものの、かつて唐澤貴洋が何万人ものおもちゃになっていた頃、毎日が大騒ぎだった。行動力のあるものが事務所まで押し掛けたり、カッターナイフのトラップを仕掛けたり。
中でも特に僕の胃を痛めつけたのが、贈り物路線などと呼ばれている行為だ。面は割れずに嫌がらせができるため、虫からアイスまで色々なものが届いた。
いちいち大袈裟に怯える唐澤貴洋のため、何度も警察に電話をかけさせられた。もう引っ越してしまったが、たかひろくん係仲間として、今でもたまに飲みに行く。

「違うナリ、今度女性と飲みに行くから、オススメの店を教えて欲しいナリよ」
「えっ……わかりました、リストアップしておきます」

就業中に何度かラインなどを開いているのは見かけたが、まさかこの唐澤貴洋と飲みに行く女性がいるとは。あとで菓子折りの準備をしないと考えると、胃がキリキリと痛む。
オススメの店。交際相手と行くような店はいくつも知っているが、店で鉢合わせては気まずい。どこか適当な店を……

「からさん、こことかいいですよ。ちょっと遠いですが、女性をエスコートするならここくらいじゃないと」
「へえ、面白いところにあるナリね。せっかくだからここにするナリ」
「隠れ家的なお店で、とっても雰囲気があるんですよ。……ところで、お相手の女性ってどんな方ですか?……」





十日ほどあと、身元不明の小太りの一般男性の遺体が山奥で発見された。上質のスーツとダンボールバッジをつけていたというのだから、きっと唐澤貴洋だろう。

あのあと、唐澤貴洋と食事をするはずだった女性に仕事が入ったので行けないという嘘の連絡をしたあと、
洋さんのライバルと連絡を取った。唐澤貴洋を殺して欲しいという依頼を、彼は快く受けてくれた。
長きに渡るたかひろくん係は、僕の敬愛を憎悪に変えるには十分な時間であった。最愛の息子を失った洋さんは今、精神病院にいる。

「唐澤さん、山岡さんが来てくれましたよー。……それにしても、山岡さんはマメですね、毎週のように面会に来るなんて。お仕事も大変でしょうに……」
「いえ、洋さんは僕の恩師ですから、こうして顔を見られるだけでも嬉しいです」

嘘は言っていない。片道三時間も、何倍にも増えた雑務も、最愛にして最低な男の、落ちぶれた姿が見られるのだから……

タイトルについて

この作品は公開された際タイトルがありませんでした。このタイトルは便宜上付けたものです。

リンク