恒心文庫:幸せな夢

本文

「…きて…起きて…起きて兄ちゃん!もう朝だよ!」
弟の半ば怒鳴るような声で叩き起こされる。
「なんだよ…今日なんかあったか?」
「なんかも何もないよ!今日は入所式でしょ?兄ちゃんが採用された法律事務所の!」
「…そういやそうだったな。今何時だ?」
「7時ちょうど!あと15分で出発しないと入所式に間に合わないよ!」
「ガチで!?起こしてくれてありがとな!」
そう言ってベッドから飛び降り、クローゼットまでダッシュで向かい急いで服を着る。化粧する必要のない整った顔をしているのが幸いした。もし今自分が「チンコフェイス」と呼ばれるような不細工だとしたら化粧に時間がかかって確実に遅れていたであろう。
ネクタイをキュッと締めておろしたてのスーツを身に纏えばもう立派な社会人だ。姿見に写った自分に内心惚れ惚れするが見惚れている時間はない。そのまま美しい走塁フォームで家を出る。
家の前のウサギと二階のネコが、ミントの香りと共に見送ってくれた。3匹ともかわいいのだが、最近庭で幅を利かせ始めているミントは臭いもやたらと強く実に厄介だ。引っこ抜いてやろうか。
駅に着くとすぐに定期券を取り出し改札に通して列車にダッシュする。少年野球で「走る姿美しい」とまで呼ばれた走力はすっかりインテリ系になった今でも健在のようだ。
列車の席に座って眼鏡をかけ、本を取り出して読み始める。しかし内容は全く頭に入ってこない。過去の記憶が次々にフラッシュバックしてくるのだ。
ネットに入り浸って親に迷惑をかけた高校時代。
心機一転して子供へのボランティア活動に勤しんだ大学時代。
「せっかく法学部に所属したのだから大学院に行って司法書士の資格を取ろう」と思い、眼鏡をかけなければならなくなるほど勉強に入り浸った大学院時代。
昨今の弁護士飽和問題でパイを取り損ね、ニートになってしまった自分を温かく受け入れてくれた親。
臥薪嘗胆の就職活動の末、ついに一つの法律事務所に合格した時に心の底から祝福してくれた親。
ネットに入り浸って迷惑をかけ続けたにも関わらず愛想を尽かさず接し続けてくれた親。
こんなに恵まれた人生があるだろうか…

「間もなく~、三田~、三田~…」
色々と取り留めもない考えを巡らせるうちに最寄り駅についたようだ。
駅の構内では迷惑にならないよう早歩きで移動し、改札を通った瞬間に全力ダッシュ。無我夢中で走り続けた。
そしてとうとう辿り着いた。自分がこれから務める法律事務所…正確にはその法律事務所が入ったビルに。
僕はオートロックで要件を言い、自動ドアを開けてもらってそのビルの301号室に入る。
そこには所長が立っていた。優しそうな笑みを湛えた、まるで神のような方が。
誹謗中傷の対策を専門にしていると聞いたが、彼の手にかかればどんな誹謗中傷も解決できてしまいそうだ。
「おはようございます、長谷川君。私はこの法律事務所Steadinessの所長を務めます、弁護士の―」
瞬間、視界が、記憶が、現実が揺らぎはじめた。それらは崩れ、分かれ、繋がり、ぐにゃぐにゃと姿を変えていく。
「よろしく^^」
「これでいいんだろカス共」
「ワイが八神や!」
「いつとは言わんが」
「ワイは何人目のハッセなんや?」

「「弁護士の唐澤です。誹謗中傷は解決可能です。」」

ああ、これは、現実じゃなかったのか。
大学生活も、大学院生活も、全部が僕の壊れかけの精神から生まれた妄想だったんだ。
でも、もういいや。
これだけ幸せな夢を見れたんだから、それだけでも僕は大満足だ。
ありがとう、さようなら…

「続いてのニュースです。千葉県松戸市のとある住宅で、無職の長谷川 亮太さん(27)が倒れているのが見つかり、病院に搬送された後、死亡が確認されました。
長谷川さんの死因は七輪で大量のミントを燃やしたことによる酸欠及び一酸化炭素中毒ということです。
長谷川さんは以前からネット上で様々な誹謗中傷を受けており、それが今回の事件の原因になったとみられています。」
「長谷川さんが誹謗中傷を受け始めたのは2012年3月からということですが、それから3000日以上も誹謗中傷を受けるというのは相当なことですね。
果たして、こういった長期化しているネット上での誹謗中傷を解決する事ができるのでしょうか?ゲストの唐澤さん、お願いします。」

タイトルについて

この作品は公開された際タイトルがありませんでした。このタイトルは便宜上付けたものです。

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