恒心文庫:台風一家

本文

今朝方、人々は違和感とともに目を覚ました。というのも、寝床が震えているのである。よくよく聞いてみれば、家が震えているのである。水の跳ねる音が、絶え間無く家を覆っているのである。
無数の水滴が屋根を打ち壁を叩き、小さな音の群れとなって、まくらに顔を埋める人々を威圧している。
今日は台風がくるのであった。人々は一様にため息を吐くと寝床を後にするのだ。そして着替え、歯を磨き、朝食をとり、一見いつも通りの生活をなぞりながら、しかし辺りに漂う不穏な空気を感じずにはいられなかった。
街を、人々が足早に去っていく。サラリーマンが、学生が、おじいちゃんおばあちゃんが。入れ違いすれ違い、何処か急かされるように道から道へと渡り歩いていく。職場へ、学校へ、駅のホームへ。まるで追い立てられる様に、何処か固い表情で歩いていく。
そうして送られていた擬似的な日常に、突如として生温い空気が吹き込んだ。
うなじを撫でていく風の気持ち悪さに、人々は弾かれたように目を向けた。遥か西の果てでとぐろを巻く暗雲。時折稲光が覗く厚い雲から、雷鳴とは違う振動が轟いているのだ。人々はしばらく耳を澄ませ、そして気づいた。
あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!
それは男の唸り声であった。腑の底を震わせる深い振動。断続的に響くそれは、確かに肉体的には成人した男性の苦悶であった。
西の空からにじみ出る様に暗雲が広がっていく。近づいているのだ。苦悶の声を伴いながらねじれるそれは、見る見るうちに人々の視界を覆っていく。

誤報をリツイートしたので謝ったら、刑事告訴とか懲戒請求すると言ってきた先生かしら。
足を止めた男がポツリとつぶやく。ざわめく人混み。不安が不安を呼び、身を寄せ合う人々。そうしている内にも雲は人々の頭上を越えていき、やがて空の色は消える。
あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!
灰色の街になお響き渡る男の声に、人々は呆然と立ち尽くす他なかった。顔を叩く雨粒など気にも止めないで、その不安に揺れる瞳を暗雲渦巻く天空に向けている。まるですがりつく様に。どこまでも純粋な祈りの様に。
その敬虔な教徒が捧げる深い沈黙に、「男」は声をかけずにはいられなかった。
お元気でなりよりです。
突如として響いた陰鬱な声に、人々は体を強張らせた。迷い子たちの視線の先で、灰色の雲が押しのけられていく。遥か地平まで揺るがす轟音。そうして出来た虚空から、男はヒョイと身を乗り出した。
薄く弧を描いた口元。ふくふくほっぺ。そして、血走ったつぶらな瞳。
とぐろを巻いて絡み合う雲を押しのける様にして、スーツ姿の男が地上を見下ろしているのだ。
人々はただただ身を震わせる。男はその様子を暗い瞳でじっと見つめると、ふと巨大な頭を雲へと引き上げた。そして入れ替わる様にしてさらに巨大な何かを虚空から地上へと突き出した。
それは尻だった。あまりに丸く、あまりに巨大な尻だった。その中心、人と比べるにはあまりに巨大なすぼまりからは、生温い風が吹き付けている。
ふと、男の苦悶が聞こえてくる。みちみちと肉の詰まった尻の輪郭が波打ち、すぼまりが何かを堪えるようにヒクつく。すぼまりはしばらくして一瞬膨らむと、次の瞬間には轟音とともに巨大な質量を吐き出した。
それは暗雲であった。男の尻から吹き出した厚い雲が、とぐろを巻いて空を覆い、地上を薙いでいくのだ。猛烈な突風に、あわれ人々は為す術もなく吹き飛ばされていく。何かに掴まろうにも、ビルも街路樹もコンクリートの地面も、何もかも根こそぎにひっくり返されていく。
その様子を眺めながら、海の底で局部をまさぐる巨大な影があった。腹巻一丁に身を包んだ、局部丸出しの女であった。息子のハレ姿に、応援する手は自然と力が入る。女は外へと大きく広がった大陰唇、その淵をえぐる様に力強くまさぐると、その輪郭を上へと擦り上げ、ついには頂点に爪を引っ掛けるにして弾いた。
海が波打つ。女の体の震えが海表に伝わり、たわんだエネルギーが弓なりになって勃起する。津波である。隆起した海メンが駅のホームも逃げる電車も見境なく貫いて打ち砕き、母なる海へと強制連行していく。響き渡る叫び声は、一つ、また一つと波間に呑み込まれていく。

そうして全てが消えた頃、東の空はすでに明るくなっていた。あの暴れ様が嘘だったかの様に、風は緩やかに吹き、海は穏やかに凪いでいる。その水平線からは、老人が顔を覗かせていた。老人は探る様に両の目玉を神経質にせわしなく動かし、やがて安心したかの様に誰もいない世界へ身を乗り出した。
途端、世界が明るくなっていく。まるで後光の様に揺らめく老人のもみあげが、動くものの無い世界を照らしていく。老人は暖かな陽気にほのかに湯気を立てるトロトロチンポを右の拳で無遠慮に掴むとそれをガッツポーズをするかの様に引っ張り上げて念入りにしごいて金切り声をあげる。
老人は泣いていた。悲しみに顎を震わせながら、しかしそれ以上の喜びに身を浸していた。
何度繰り返せば良いのか。何度悲しめば良いのか。しかしそれでも、彼は忘れられないのだ。誕生の喜びを。
産めよ増えよ地に満ちよ、そう老人は叫び声を上げると、再びそのチンポの先から発射した生命のスープを海面に走らせるのであった。

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