恒心文庫:反芻動物

本文

「昼食のサンドイッチ二人分買ってきました。あとオランジーナも。」
「ありがとう山本くん」
扉を開けると優しい世界。厳しく熱い夏の日差しに打ちひしがれていた俺にとって事務所の中はまるで天国のようだった。
長身の伊達男はいつも通りの愛想笑いで俺から食べ物が入ったビニール袋を受け取る。事務所の奥では常時不機嫌そうなデブが談笑する俺たちを睨んでいた。

俺がこの事務所に移ってから数カ月経つが、ヒマワリのバッジを胸に掲げながら司法修習生でも犯さないミスを次々とやらかし数年前から匿名集団の誹謗中傷の標的となったデブと
俺と同じく順調にエリートコースを進み財務関係の仕事をこなしてきた目の前の男が、共同で事務所を設立した理由がいまだに分からない。
小太りのデブは事務所のソファに横たわり一日中スマートフォンをいじくりまわしている。仕事用のパソコンを立ち上げるのを見かけやっと仕事をする気になったかと彼のパソコンに視線を移せばディスプレイいっぱいに幼い子供の裸体が写しだされていた。
最初のころは根拠なき中傷と戦う唐澤先生と敬意を込めて接していた。しかし彼は仕事をしない、やろうとも思わない。簡単な書類のコピーをお願いしてもご丁寧に斜めにずらしてこちらに渡す始末だ。
口を開けば児童ポルノやマニアックな洋画など自分の興味のある事柄を一方的に捲し立てるだけで世間話も通じない。やってほしい雑務もないので業務連絡も回す必要もない。畏敬の気持ちは瞬く間に失われ
一か月もたたないうちに弁護士唐澤弁護士は俺の中でそこらへんに転がる脂肪の塊(38)と化していた。
そんなデブに山岡さんはなぜか一日中寄り添い業務をこなしている。「からさん、今日はsowaが安いですよ。」「今日はセミがうるさいですね」「汗をかいているようですね、クーラーの温度、もう少し下げましょうか?」
まるで母親が乳児に話しかけるように、山岡さんはデブの隣のデスクに席を置き、業務の合間に度々話しかける。デブに押し付けられた案件は相当な量なのに。同僚である彼は、本来無能デブの存在に苛立つ立場である。山岡さんのデブに対する態度に、俺は時々なんともいえない不気味な感情を抱いていた。

「山本君はここで昼食をとるのかい?」
「はい、俺もついでに飯買ったので。一階のレストランも毎回はさすがに飽きるし、」


そういえば彼らが昼食をとっているところは今まで見かけたことがない。二人で外の店かなにか適当なところで食べているのだろうと今まで別段気にしたことはなかった。
「いつもは鍵のかかった別室でするんだけどね。山本君もいずれ覚えることだろうし、ちょうどいい機会だから今日は見学してもらおうか。」
山岡さんは窓のカーテンを全て閉めはじめた。光源は天井の蛍光灯だけだ。
「からさんからさん」小太りの男の名前を呼ぶ彼の表情は、明らかに俺といるときとは違っていた。
山岡さんは満面の笑みをたたえながら唐澤に向かって手招きをする。のそのそと這いずるように彼に近づくデブ。デブは子共が母親に虫歯を見せるように大きく口を開けた。
「おなかがすいているんですね、じゃあ一緒に食べましょうか。」
僕が買ってきたサンドイッチは山岡さんの口の中に一旦収まった後、目の前にいるデブの口腔に彼の唇を経由して流し込まれた。俺は思わず目をつむった。そして恐る恐る開ける。
山岡さんとデブはオランダヒルズの弁護士事務所の執務室のデスクで白昼堂々ディープキスをかましている。いや、食べ物を嚥下しやすいように山岡さんがかみ砕きその内容物をデブの口に吐き出してデブはそれを飲み込んでいた。
例えて言えば胃の中で消化した餌を口移しで与えるペンギンの親子のように。
「君もじきにこの係についてもらうよ。僕が欠勤するときや出張するときは頼むよ。」
与えきれなかったサンドイッチを咀嚼しながら彼はそういった。卵味のサンドイッチはオランジーナと一緒に流し込むとからさんは喜ぶんだ。
ツナはレモンジーナ。ハムはブラッドオランジーナ。
今までスポンジのようにありとあらゆる知識を吸収してきたと自負する頭脳はこの事実だけを記憶することを拒絶する。俺の脳みそはデブの食の嗜好を覚えるために作られてきたわけではないのだ。
「僕も最初は戸惑ったよ。前の係は洋さん、からさんのお父さんだったけど、幾分年でね。顎の力が弱くなって柔らかい食べ物しか噛んで与えることができなくなったんだよ。
そこで指名されたのは僕さ。最初は戸惑ったよ、だって弁護士として雇われたとおもったら同僚に口移しで食べ物を与える仕事を課されるんだから。でももう慣れた。むしろうれしいんだ。
若い僕ならからさんになんでも与えることができる。沢蟹だってコロッケだって唐揚げだって。もちろんサンドイッチもね。」

サンドイッチを食べ終えた二人が一斉にこちらをみる。部屋の隅にいる老人はいましがた首に胴体が生えた赤ん坊を無事に出産したようだ。

二人の瞳はおよそ日本人らしくない色味で輝いていた。一人は赤、一人は緑。瞳孔が蛍のように発光している。
化け物。胃の底から湧き上がる吐き気に耐えられず口を手で押さえようとするが
腕はだらりと肩に下がったまま鉄のように動いてくれない。目の奥がちりちりと痛む。

頭がくらくらする。目の前の光景にチックのように瞼がピクピクと動いた。
どこかでみたことがある。
まるで暗い用水路の奥に突き落とされたかのような絶望感。それはきっと生まれる前の記憶だろう。
「俺は君の20年後を見ている。」デブがいままで聞いたこともない低い声色で俺に囁く。
いつかデブを誹謗中傷する目的で設立された掲示板で見た書き込みを思い出していた。この事務所に入る前に状況を把握しようとアクセスした掲示板。かつて唐澤と目を合わせた若者の証言。。その時の俺は書き込んだ奴の焦燥ぶりを笑っていた。彼は同類、いわば同じ唐澤を馬鹿にしていた奴らからも嘲笑されていた。メデューサ 洗脳される ふざけたファンタジー。中二病かなにかか唐澤は見た者の心を操る。
今は彼の気持ちが悲痛なほどに分かる。 
誹謗中傷と罵詈雑言が飛び交う中掲示板で唯一印象的だった言葉。

魔眼

挿絵

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