恒心文庫:初めて夢精した日

本文

夢を見ていた。
僕がたまたま河川敷を通りかかった時の事を思い出している。そう、それは僕が法律家を目指すきっかけとなった事件だった。
世の中には、人を傷つけても平気な悪い人間がいるんだと、深く心に刻まれた事件。僕はその時初めて「悪の存在」を認識した。
僕には弟がいた。厚史という名前の弟だった。一つ違いで喧嘩も良くしたけども、僕にとってかけがえのない弟だった。
太った男が弟に馬乗りになって暴行をしているのを、僕は見てしまったのだ。

あの時の僕は怖くて何もできず、ただただ隠れて見ていることしかできなかった。
太った男は弟を殴打しながら腰を振っていた。最初は何をしているのか見当もつかなかった。
でも弟が逃れようと暴れるうちに次第に何をしているのかが明らかになっていった。
その男は弟を犯しているのだ。醜い彼自身の性欲の象徴で。
弟の悲痛な叫び声は痛みに対する悲鳴ではなく、尊厳を踏みにじられたことに対する悲鳴でもあったのだ。
僕は逃げ出すこともできずただただその行為に見入っていた。
フェロモンに騙され食虫植物に捕食される虫の様にその行為に見入っていた。
恐怖で何をしたらいいのか分からなくなっていたのかもしれないし、復讐のためにあいつの顔を覚えておかないと思ったのかもしれない。
ただただ混乱していて、記憶も曖昧だった。
男の動きは性欲をぶつける獣のような単調な動きのようでありながら、どこか一突きずつ憎しみをぶつけるような人間特有の感情的なものが見え隠れしていた。
その男の口元は笑っているように見えた。笑いながら弟の首を絞め腰を振る。
暴れて逃れようとしていた弟の身体が突然ピクピクと彼の意志とは関係のない動きをしたかと思うと、糸の切れた繰り人形の様に重力に逆らう事をやめた。
その男は一度深く奥まで突きこむとビクリと体を震わせると満足げに口元を歪ませた。
僕に力さえあれば弟を救えたのにと今でもずっと後悔している。
でも僕は腕っぷしが弱く太っていて運動神経も悪いから強くなることができない。
だから僕は、悪を裁く法律家になろうと心に決めたんだ。
そう思った途端、男がこちらに気づいた。
僕によく似たその顔、その瞳で僕の目を射抜く。

目が覚めると当職のパジャマは汗でベタベタになっていた。
そして下半身は汗ではない粘り気のある液体で汚れていた。
夢精をしていたのだ。
―――僕は弟を犯し、殺した。
顔も良く、人も良く、何もかも僕より優れた弟に嫉妬し、届かない存在に思慕し、よく分からない感情の濁流に理性が飲み込まれ凶行に走った。
当職はそんな「悪の存在」である僕という存在を許さない。悪いもの達は法律で裁かれなければならない。

当職は今、誹謗中傷の嵐の真っただ中にいた。
当職を誹謗中傷するものは当職の「青春時代に弟を失った」という発言を間違って捉え、当職が当職の弟を殺したなどとインターネット上に書き込んでいるのだ。
当職は弁明をしなければない。悪いもの達に真実を伝えるために当職はキーボードを荒く叩く。
当職の弟を殺害したのは僕であって当職ではない、という真実を。

「当職の弟を当職が殺したなどという当職のアイデンティティを否定する投稿が多数なされておりました。
当職の弟は厚史という名前でした。一つ違いの弟でした。喧嘩もしましたが、私にとってのかけがいのない弟でした。
弟は、地元の悪いもの達に、恐喝され、多摩川の河川敷で、集団暴行にあった翌日に親にもいえず自殺しました。
弟が16、私が17のことでした。私の中にはいつも弟がいます」

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