恒心文庫:全員唐澤貴洋

本文

初めて異変に気付いたのはたぶん俺だ。
いつもタクシーで出勤してくる唐澤さんが、俺と同じホームにいた。あの巨体はラッシュ時でも目立つ。
人混みをかき分けてわざわざ上司に挨拶するのも面倒だし、珍しいこともあるもんだなと思っただけで、そのまま出勤した。
通常の業務に加え、恒心教とかいうクソガキ集団の迷惑行為を処理し、所構わず脱糞するたかひろ君の下の世話をし、ヒステリーを起こして暴れるひろあき君のメンタルケアに追われた俺は、夜になれば今朝のことなどすっかり忘れていた。
まだ知らなかったのだ。本当の地獄は、次の日の朝から始まるのだと。

朝だ。
俺は確かに見た。俺ん家の、最寄り駅の、改札を通っていく、唐澤貴洋を。なんで港区在住のあいつが俺の家の近くにいるんだよ!?
事務所に到着したあと、朝からアイスを貪り食っている豚野郎にそれとなく聞いた。
「唐澤さん、タクシー通勤やめたんですか?」
「何を言っているナリか? 当職は今日もタクシーで来たナリよ」
唐澤貴洋はあくまですっとぼけている。
「だって今朝、駅で唐澤さんを見たんですよ」
「見間違いだろ。からさんに電車なんか使わせたら大変だよ。いつ誰が狙っているか分からないんだから」
最初の恒心教徒ことヒステリー山岡が割り込んで来た。
「死ねデブ専ホモ」
「何か言った?」
「言ってません。そろそろ俺の依頼人が来る時間なんで準備してますね」

今日の一発目の仕事は不動産関係だ。依頼人とはもう長い付き合いになる。前の事務所からずっと俺をひいきにしてくれて、登録換えしても俺を頼ってくれた。
資料を揃えデスクで待っていると、事務員のババアが俺を呼んだ。応接室に入ったそのとき、俺はその場で小便ちびるんじゃないかというほど驚いた。
依頼人は、唐澤貴洋だった。というか、唐澤貴洋になっていた。山本先生、おはようございます、今日も暑いですね、と挨拶する声は間違いなく俺の依頼人なのだが、見た目が完全に唐澤貴洋なのだ。
カバ顔。いつ流行したのか不明な髪型。ハの字型の情けない眉。張り裂けんばかりのスーツ。
これがドッキリでないなら、自分が幻覚を見ているのだと思った。絶対に統合失調症かなにかだ。
俺は依頼人・唐澤貴洋が帰ると、すぐに早退して迷わず精神科に向かった。ちゃんと山岡の見た目をしている山岡は「お大事に」と俺に言ってくれた。ヒステリーカマホモ顎髭野郎と影で呼んでいた山岡に対し、これほど感謝の念を抱いたことはない。

精神科に辿り着き、長い順番待ちのあと名前が呼ばれ診察室に入ると、もうお判りだろうが、白衣を着た精神科医・唐澤貴洋が、そこにいた。ギャアと叫ぶ余裕もなく俺は精神科を飛び出した。
街に出て、今度こそ俺は叫んだ。通行人が全員唐澤貴洋だった。叫ぶ俺に、唐澤貴洋達の視線が突き刺さる。
本当に、一人残さず全員唐澤貴洋だった。工事のおじさんも、セブンイレブンの店員も、タクシーの運転手も、ビルの受付も、警備員も、全員唐澤貴洋になっていた。
唐澤貴洋になっていないのは、世界中でたった一人俺だけだ。
脚が重い。俺はどうしてしまったんだ。あるいは、世界中の他の人間は。どうして唐澤貴洋になっているんだ。なぜ誰も気づかない。なぜみんな普通に、昨日と同じように生きているんだ。
嫌な汗が止まらず、ポケットからハンカチを取り出して額を拭いた。その指が、やけに太い。
まさか。
スマホを取り出し、黒いままの画面で自分の顔を見る。写っていたのは、唐澤貴洋だった。

俺がおかしいのか、世界がおかしいのか、もう知る術はない。だが、これから先、まだ唐澤貴洋になっていない人間もいつか唐澤貴洋になるのだろうと、分かる。
山岡も、いたずらのグループも、白人も、黒人も、今これを読んでいるそこのお前も、一人残らず唐澤貴洋になる。それだけは唐澤貴洋。唐澤貴洋はもう唐澤貴洋で唐澤貴洋の唐澤貴洋は唐澤貴洋唐澤貴洋。唐澤貴洋に唐澤貴洋する唐澤貴洋は唐澤貴洋で、唐澤貴洋唐澤貴洋唐澤貴洋唐澤貴洋、唐澤貴洋唐澤貴洋唐澤貴洋、唐澤貴洋唐澤貴洋唐澤貴洋唐澤貴洋、唐澤貴洋。

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