恒心文庫:不可視光/しびれ、ときどき、めまい

本文

◆0

 幼い頃、それがとても残酷なこととは知らずに虫をいじめたことがある。
 アリの巣に水を注ぎ、ダンゴムシが白く干からびるまで採集箱に閉じ込め、カラツムリの殻をくしゃりと踏みつぶす。
 それをすることができたのは無知であったから、つまり《その痛みを知らなかったから》で、今の僕にそういったことをおこなうことはできない。
 経験や教育、知識に裏付けされて僕らの行動には規範がつくりあげられ、あれはいい、これはいけない、議論はよい、ただし暴力はNGといった調子でそれらを守る。社会はそれで成り立ってゆく。
 ここになにかあるとしよう。
 本の一冊でもいい、林檎でもいい、剥ぎ取られたナンバープレートだっていい。 
 もしも僕がひどく無知であれば、その扱いをまるで知らなければ、手に取って散々いじくりまわした挙句、それを手ひどく傷つけてしまうのかもしれない。
 本はページを破り取られる。林檎はアシンメトリに割られる。ナンバープレートは8つに分解される。
 何一つ遠慮することなく、何もわからないままに手探りだけで行動するならば、物事のきわめて繊細な部分を、僕は遠慮なく踏みにじっていくのだろう。
 その本質ともいうべき部分を。
「めんどくさいやつだなって、あとで誰かに話すんだろ」と、その人は言った。
「どうしてずっとひとりにさせたんだ」、とも。
 心なんて、風見鶏のようにすぐ別の方角をむいてしまう不安定なものだし、2か月という期間は様々な状況を変化させるには十分に過ぎたと思う。
 でも確かに僕は、あまりにも気安く、その人の一部に触れてしまったのだ。
 あの日溺れさせた数多くのアリの中の、ちっぽけな一匹のように。
◆1

 レジで支払いを待っていると、脇からコーヒーの香りが漂ってきた。まだ眠気の抜け切らない霞みがかった脳のままに、その安全な香りを吸い込んで肺を満たしてみる。
 眼前の店員は、ずいぶんと手慣れない様子で袋に商品をつめこんでいる。研修終えたての学生バイトくん、といったところか。
 ――こりゃ、なるべく早く支払いを済ませなきゃな。
 早朝のコンビニエンス・ストアは、出勤前のサラリーマンやスポーツ新聞を買いに来た老人でひどく混み合っている。
 後方につづく長蛇の列を横目で見ながら小銭入れの中身を確認し、ちょうどの金額になるように並べて置く。
「……ああ、レシートは要らないよ。ありがとう」
 うしろの中年男が無愛想に「わかば、箸」などと言うのを聞きながら店を出ると、朝に急かされている街を吹き抜ける寒風に、思わず身が震える。
 まるで秋をすっとばしていきなり冬が始まったみたいだ。少し前までは秋物の服なんて当分出す必要もない、と思っていたのだけれど。

 昨晩、酒の勢いのままに飛び込んだホテルまでたどりつく。普段と違ってずいぶんと品の良い、2流どころのビジネス・ホテル。
 僕らの単純な使用目的のために、わざわざどうしてこんなところを選んだのかは覚えていない。
 同じく、なぜそんな高層を選んだのかも覚えていない7階まで昇るには、階段ではさすがに厳しい。
 フロントを横切りエレベーターに乗り込むと、直前にひとりの女が乗ってきた。濃い化粧でごまかしてはいるが、おそらくは20代も後半、あるいは30すぎといったところか。
「開」ボタンを押して待っていた僕に、よくよくみていないとわからない程度の会釈をすると、するりとネコのように入り込む。
「……何階までです?」
「自分で押します」
 意外な申し出に首をかしげるが、特にこだわることでもない。ボタン・パネルの前を開けて女に譲る。白い指が触れる「5」の文字。
 狭い室内で対角線上に移動し、パーソナルスペースを互いに最大限に確保しながら、その背中を見る。 
 この寒さだというのに、ひどい薄着だ。うっすらと透けた赤い下着。くしゃみが出そうなほどに濃い柑橘系の香水。そしてその奥にかすかに漂う、情事のニオイ。
 脳天の奥に残っていた、コンビニエンス・ストアのコーヒーの香りはそのニオイに汚染されてゆく。
 くらりとした感覚が僕を襲う。左肩が下がり、手にさげたビニール袋がくしゃりとわずかに音を立てる。
 なおも無防備なその背中を見つめていると、しびれるような何かしらの感触が僕の頭から両足へと走り、瞬間、不可思議な感情が湧き上がる。
 ――いま、この中でこいつを押し倒したらどうなるのだろう。
 ひどく妙な考えが頭をよぎる。
 得体のしれないコラージュを見たような、自分の陰口を耳にしてしまったかのような、薄気味悪さと居心地の悪さが僕の中でふくらむ。
 なんでこんなことを考えたんだ? 僕にそんな趣味は無い。自分の美意識に反する人間をどうこうしたいなどという趣味は。
 まるでフォトショップで修正に修正を重ねたような、偽りのものしか映し出さない人間を、欲望の対象にするだなんて。
 視線に勘付いたのか女がこちらを見、肩にかけたショルダー・バッグをわざとらしくかけなおした。
 慌ててたたずまいをなおし、えへんと咳ばらいをする。
 5階で女は乗ったときと同じように、音もなく出てゆく。
 ひとりになった空間で視線をあげると、監視カメラの無機質な目が僕をじっと捉えていた。
「朝食を買ってきましたよ」
 カードキーを差し込んで扉を開けると、ベッドに横たわる相手に言う。
 返事の代わりに大きな伸びを返され、寝返りを打たれた。
 面倒な人だ。菓子パン入りの袋をテーブルに置くと、中から適当にあんパンを選び出してかじる。口の周りについたあんこを舐めとり、もう一度話しかけてみる。
「早く起きてください。もう朝ですよ」
「うるせえなぶっころすぞオラ」
 すばらしく面倒な人だ。しようがないので窓を全開にして冷気を取り込み、軽い復讐の気持ちもこめてアラームを5分後に、最大ボリュームでセットしておく。
 パンの残りを軽く牛乳で飲み下すと、シャワー・ルームへ入る。
 自室でない空間で浴びるシャワーというのは、温度の調節に少々苦労するな。
 思いながら赤と青の蛇口を交互にひねっていると、アラームのけたたましい目覚ましボイスと、悲鳴がきこえてきた。

 ***

 浴室から出ると、強烈な時報と寒さに耐えかねたのか一応起きていた。文字通りの寝ぼけ眼が僕をとらえる。
「お前なんでまた浴びてるの」、第一声がこれだ。「ヤった後もすぐ浴びてただろ」
「清潔は美徳ですよ」、僕は湿った頭をタオルでぬぐいながらこたえる。「それに朝は、「おはよう」でしょう」
 めんどうなのか返事は無い。
 寒そうに毛布にくるまったまま、醒めきっていない薄目でパンをかじっている。ヤマネのような持ち方だ。
 ぽろぽろと落ちるパンくずがベッドのうえに散らばるのを見て、思わず眉をひそめてしまう。
「ちゃんと起きて、服を着替えて顔を洗って、それから食事にしてください。シーツが汚れているじゃないですか、行儀の悪い」
「優等生くんは朝っぱらから人の生活に口出しかい」、もふもふと動く口がこたえると、パンの残りを飲みこんだ。
「いいだろ別に。シーツなんざ掃除のおばちゃんがどうにかしてくれるよ」
「そういうのは感心しないな」、備え付けのドリップコーヒーを注ぎながら言う。
「仮にもひとつの事務所を構えた一社会人だ、僕らは。モラルというものがあるでしょう」
 うげえ、そんな声とともにするりと毛布を振り落とす音がする。
 軽い足音がし、横から伸びる手がカップを奪い取った。ぽたぽたと垂れたしずくが、白いデスクに茶色く染みを作る。
「ハルポッポ曹長は朝はコーヒー派なんだ、くれよ」
 あのね、と再び眉をひそめた僕に、「まあそんな顔すんなよ、コーヒーなんざいつでも淹れられる」と軽い笑み。
 じゃあ自分で淹れてください、という言葉が喉までせり出たが、それを飲み込む。
 朝っぱらから口喧嘩する気力もないし、勝てる見込みもない。
「僕は早いからもう行きますね」、代わりに言いのこして扉に手をかけると、ちょいこっち向いてみ、と肩を叩かれる。
 振り向くと頬にぷにっと指を突きたてられた。
「……小学生のイタズラじゃないんですから」
「おわび」
 口をふさがれる。呼吸が苦しくなったころ、ギブ・アップと言わんばかりに手で背を叩くとようやく解放してくれた。
「これは大人のイタズラだろ」
 もう言い返すのも面倒くさい、アホな遊びに付き合っていられるか、新婚夫婦じゃないんだぞ。
 赤面したままに出ようとすると、「でもやっぱマズいわ」と言葉が飛んでくる。
 振り向いた僕に、残った感触を確かめるように唇をなぞりながら言う。
「お前のキスは、マズいな、うん」
◆2

 その人とは、Kを通じて知り合った仲だ。
 はじめてG反田の飲み屋で顔をあわせたとき、かけられた言葉は今でも覚えている――「へえ、お前が新しい《介護係》か」。
 すでに焼酎でほろ酔い加減になっていたKは「そうナリー」とかへらへら笑っていたけれど、僕としてはその言葉は我慢ならなかったし、聞き流せるものではなかった。
 酒が入っていたせいもあってか、議論が口喧嘩になり言い合いになり、やがてはリアル・バトルの勃発だ。
「け、喧嘩はもうやめにしませんか……」
 おろおろするKの前で、なぜか一気飲みで決着をつけようという話になり、焼酎に日本酒にチューハイスピリタスという異常な呑みへのこだわりで見事なちゃんぽんを決めた僕たちは、そろってトイレの個室を一時間ほど占領するはめになった。

 後日、手土産のGODIVA片手にS事務所を訪れた僕としては、ともかく一晩の酒による恥として謝罪をすませることしか頭になかった。
 丁寧に交わされる挨拶、礼儀上の世間話、時折混ぜられる社交儀礼、丁重な詫びの言葉、そして最後に軽くかわされる握手。
 一連のプロセスなんてその程度のもので、それさえすめばもう関わることもないだろうと思っていた。
 ……いたのだが、向こうが僕に抱いた心象はどうも違っていたらしい。 
「お前気に入ったわ。今晩空いてる?」
 ずいぶん軽く通された僕はずいぶん軽くすべてのプロセスをすっ飛ばされ、おまけに今晩の予定までたずねられた。
「え? ええと、まあ……」
「おし、一杯やりにいくぞ」
 話にまったくついていけない僕に、その人はにやりと笑ってみせた。
「《前》介護係と、《現》介護係。積もる話もあるだろ? ボギー1のいないところじゃないと出来ないような、積もる話がな」
 少々怖い人々を相手に商売しているだけのことはある。遊び慣れているとでもいうべきだろうか、その晩多くの店に僕は連れまわされた。
 それはなかなか新鮮な感覚だった。きわめて真面目な生活を送ってきた僕にとっては、物事の、この東京という街の、新たな側面を多く見たように思えた。
 サイコロの「1」が反対から見れば「6」であるように、あらゆる事物は別の角度をもって僕の前に存在しているように感じた。
 1度きりと思った付き合いが、2度になり、3度になり、数列のように無数に増えていく。
 ビジネスの話が、ちょっとした打ち明け話になり、やがてはくだらない冗談を交わし合うようになってゆく。
 酒が入ればたがも外れる、とは昔の人が言ったことであろうか。「よくあるパターン」と表現すれば、それだけの話かもしれない。
 ある晩酔いに任せて、僕らは恐ろしくセンスが悪い名前のホテルの一室に転がり込み、そうしてだらだらとした肉体の関係が成立した。
 そう、非常にだらだらとした感覚だ。
 そこにはしびれるような鮮烈な感触はなかったし、めまいがするような生殖活動の醍醐味というものもなかった。
 キスすればマズイと言われ、煽情的な甘い言葉はひとつもくれず、僕は腰を振ってそして(言いたくはないがさっさと)果てた。
 すべてが終わったときはなんだか、自分が蛇口、カランか何かの無機物にでもなったような気分だった。ひねれば水が出る、ジャー、はいそれだけ。そんな感じだ。
 ――まあ、ワンナイト・ラブ程度に期待をするほうが間違っていたのだろうな。
 汗臭いシーツの上、ぼんやりと思っていた僕に、隣の人はたずねてきた。
「お前、誰かいんの」
「誰かとは」
「する相手」
 ずいぶんストレートに聞いてくるものだな、と思った。同時にそのあけすけで、ひどく無防備な感じは、僕に一種の好感を与えた。素直にこたえてもよいかな、という具合には。
「いませんが」
「じゃあ約束」、小指を出される。「たまに付き合え」
 逡巡してからなんともなしに小指を絡めると、ゆびきりげんまん、と言われる。こんな言葉をきくのは、小学生以来かもしれない。
「……秘密だぜ? 誰にも言うなよ」
 なぜ、と反射的に聞きかえした自分は、きっと愚か者なのだろう。
 返答の代わりに向こうは口をとがらせると、また僕を押し倒したのだから。

◆3

 なぜ自分はその人との関係において、《しびれ》や《めまい》を感じないのだろう、とふと考えるときがある。
 その疑問は、眠ろうとベッドに横たわったとき、ドラッグストアへ行こうと歩いているとき、信号待ちのとき、パスタをゆでているとき、気づけばするりと僕の心のうちに侵入している。まるで朝起きたら、いつの間にか布団にもぐりこんでいるネコのように。
 いつだって、いつだって、こたえはうまく出ない。「飽きた」のではないし、単純に「相性が合わない」というのも何か違うように思える。ど真ん中のピースがひとつ欠けたパズルを見ているように、なんとも表現しがたい違和感がある。
 ――そもそも人間というものは感情を複雑に対立させ、あるいは矛盾させながら生きているものだ。僕の違和感も、そんなものなんだろ。
 そういうよく言えば《汎用性が高い》、悪く言えば《それを言ったら何もはじまらない》言葉で、僕は適度に心をごまかしてみる。言葉は、頭痛薬のように僕の心のざわめきを押さえつける。

 そして、その考えが訪れる瞬間は、こうして体を合わせているときにもやってくる。
「……お前、ほんっと、めちゃくちゃ無神経な触り方するよな」、かすかに荒い声。「そこらのガキじゃあるまいに」
「悪くはないでしょう」、僕は遠慮なく粘膜に触れながら言う。それは優しく押せば柔らかく、強く押せば硬くこちらを押し返す。
 僕はべたべたと指紋を残すかのようにそれに触れ、ときには全体を包み込み、ときには細部を刺激する。あらゆる場所に僕の痕跡を残そうとするように。
 その人の本当の、本来のニオイが僕を包んでゆく。それはどこかしら安っぽくもあるが、どこまでも有機的だ。
 そしてその香りは僕の体の中心にある芯を、まるで真夏のチョコレートのように、ぐにゃりと溶かしていこうとしていく。

 でも、そこにしびれはない。めまいも、ない。「……これでも、経験は積んでいる方だと自負していますよ」
 僕は思考をはぐらかすように言いながら、体をずらす。
「男で? 女で? それとも《両方で》、か?」
「いずれにせよ、大した問題じゃない」
 言うと僕は舌を操ることだけを考える。手つかずの果肉のような自然の色つやを、自身の唇で汚していく背徳感に身をまかせる。
 僕の頭をその人の両腕がかき回し、髪の一束を優しく引っ張る。一瞬、体の全体がはね、すぐにそれをごまかそうとするように左右に揺れる。
「……ま、それなりかな」
「強情な人だ」、僕は一度動きを止める。「キスしても?」
「いま聞くとか、わりと最悪だな」
「したあとの口は嫌がる人だっているでしょう。それにあなたには、僕の味は不評のようだ」
「バカじゃねえの」
 軽口の応酬を終えると、僕は小うるさい口をふさぐことに集中する。安普請のベッドがきしむ。遠くで子どもの遊ぶ声がきこえる。
 それらは水音と混ざって、僕の頭で幾度も反響を繰り返し、やがてひとつの音楽を成す。空虚な音楽。
「……疲れただろ。交代だ、今度はこっちがやってやる」
「お願いだから、もう少し魅力的な言葉を覚えることを提案しますよ」
「じゃ、しない」
 はいはい、と言いながら僕はベッドに横たわる。「マグロだ」という軽い笑い声とともに、僕のそれは生温かい口の中へと取り込まれていく。
 適当に手の届く範囲の背や首筋を愛撫し、天井を見つめながら、僕の中ではあの疑問がまたもよぎる。
 ルーティン・ワークのように繰り返されたせいで刺激を失いつつある快楽よりも、解けない疑問のほうが僕の中では優先されている。
 しびれ。あるいはめまい。あの日、エレベーターにいた女に感じたもの。あんなやつになぜか感じて、この人にはなぜか湧かないもの。
「おい」
 声と共にいきなり握りしめられ、思わずうめき声を出してしまった。見ると、唇をへの字に曲げてこちらを見ている。
「お前、なんか余計なこと考えてただろ」
「ええ」、僕は半身を起こしながら言う。「これからあなたをどういじめたものか、考えていましたね」
「15秒でか」
「それだけあれば十分だ」
 しばらく僕をじっと見ていたかと思うと、ふっと薄い笑みを浮かべた。
「帰るわ」
 そのまま起き上がると、さっさと下着を身に着ける。僕は半身を起こしたままにその様子を見ていた。今日も侵入する予定だったはずの、形の良い尻が布地に隠されていく。
「シャワーくらい浴びて行ったらどうです?」
「嫌だね。今のお前とは、1秒でも余計に、一緒にいたくない」
「どうして」、言ってから自分がとんでもなく間抜けな質問をしたことに気づく。氷点下の視線が僕をとらえる。
「何回目だよ、そうやってぼけーっとするの。……悪いけど、しばらくは連絡取らないでくれ」

 ひとりになった空間で僕はため息をつく。下を見ると、行き場を失った性欲はいまだに形を保ってそこにある。
 ――自業自得。
「まったくね」、つぶやくと僕はベッドから立ち上がり、浴室へと向かった。
◆4

 あっさりとひと月が過ぎた。軍人のようなメールの誘い文句(今夜9時、ハルポッポ曹長はSで飲む、曹長の元へ集え若人)は、1か月間きっかりと途絶えていた。
 夏と秋と冬のあいだをうろうろしていた季節はようやく秋にその身を落ちつけることに決めたらしく、僕は夏物の薄手のジャケットをクリーニングに出した。
 思った以上に何も感じていない自分がいた。それは日々の流れからひとつの活動が消えた程度で、そのすき間を読書や開示や講演会やそのほか諸々のことで埋めてしまえば埋まる穴だった。
 KがHの目を盗んで、外回りの口実で出かけようと僕を誘ってきたのは、そのころだ。
 ――YくんYくん、人気映画の前売り券オクで落としたナリ。パパに内緒で行くナリよ。
 仕事中、珍しく必死にPCをにらみつけていると思ったら、そんな小さな悪事に手を染めていたらしい。
「……しかし、バレるんじゃあないですかね」
 銀杏の香りが漂う街路を歩きながら、僕は隣の男にたずねた。
 太り気味のKは、歩くのが少々遅い。キュムキュムとしたその黒ズボンの動きに合わせてゆっくり足取りを進めるのに苦労していると、Kはにんまりと笑った。
「平気平気、夕方まで会長さんのところに出かけるそうだから。それに、パパは案外こういうの気づかないタイプナリ」
 ずいぶんと確信を持った言い方だな。
 僕の不思議そうな視線に気づいたのだろうか、Kは頭をぽりぽりとかくと、「中学から慣れてるから」と言った。
 どうも、あまり詮索しないほうがよい部分があるようだ。
「それで今日の映画、そんなにおもしろいんですか」
 軽く話題を変えると、Kは水を得た魚のように両手でぐっと愛らしくガッツポーズする。アニメーションのOPに出てきそう。ポーズだけならの話だけど。
「完璧ナリ! 超刺激的、ハイパーサスペンスホラーコメディアクション! 当職は作るのは不得手ですけど、見る目だけは肥えているつもりです」
「自分が見たいだけだったりして」、からかい半分に言うと、「まあ、それもあるナリ」とKは笑い、それから急に真面目な顔をする。
「当職はうまく聞き出すの下手だから直球できくけど、最近なにかあったナリか?」
「……どうしてそう思われるんです?」
 なんとこたえたものか迷ってから僕は質問をかえす。
「んー、なんか」、足元に落ちている木の実をコツンと蹴って車のタイヤが通るところに置きながらKは言う。
「なんかそわそわしてるというか……落ち着きない感じがするナリ」
「気を使わせてしまいましたかね」
「え、映画は、ホントに当職が見たかっただけナリ」
 慌てたように言う姿に思わず笑ってしまった。薄く黄色に染まったイチョウの葉が邪風に舞う。青空に浮かぶ白い雲に、薄い黄色が新しく色を添える。そこには色彩がある。
「……もう、終わったことですよ」
 僕は空を眺めながら言った。

 ***

 映画は確かに《超》刺激的だった。
 人がナイフでめった刺しにされ、車にはカラーボールがぶちまけられ、科学班は声紋を調べ上げて愛のある贈り物を拒むようにポストには貼り紙がペタ、ついでに事務所は爆発する。
 狂ったようにCGを駆使したアクションシーンでは、主人公がヒロインを救うために高層ビルの上を駆け抜けつつ、悪いものと闘いを繰り広げてゆく。
 その世界には、とてもはっきりとした善悪が存在していて、主人公は自分が何をすべきか、どこへ向かうべきかを常に理解していた。
 物語の最後は、主人公が魔の手から救い出したヒロインと抱き合う。優しい世界の誕生。
 それですべてが終わった。
 勧善懲悪、R-15にひっかからない程度のラブ・シーン、予想通りの裏切りからの予想通りのどんでん返し、そしてハッピー・エンド。
 きっちりと型にはめられて、上からコンクリートを流し込まれたような映画だった。
 全米チャート1位だか誰かの退屈な歌が流れるスタッフ・ロールのあいだに、800円のパンフレットを破り捨てたくなる程度には、とてもつまらない映画だった。
 でも、きれいな起承転結だ、と僕は思った。
 それは少なくとも、僕らの日常には存在しえないであろうストーリーだった。

 ***

「……とっぷり日も暮れてきたナリね」
 長く伸びた影の横、原色の赤に塗りつぶされた夕陽に、同じように赤く染め上げられたKが言う。
「思った以上に長い映画でしたね」、うしろをついて歩きながら僕は言う。
「そうナリね」
「下調べをきちんとしておけば、こんなミスはおかしませんよね」
「……そうナリね」
「Hさん、絶対帰ってますよね」
「……申し訳ないナリ」
 上映時間は、Kが言っていたよりも1時間も長かった。道理で異常に退屈に感じたわけだ。
 開示レスを間違える程度にうっかり者のKの言葉を真に受けて、よくよくチェックしなかった僕にも責任はある。
「なんて言い訳します?」、これから事務所で落とされる雷のことを想像しながら、僕は前方の小男にたずねる。
「生まれたので」
「悪いものに追われたので」
「迷子の幼女をみつけたので」
「……どれもムリですよね」
 Kはこちらを向くと、ぽんと胸を叩いてみせた。
「まあ、何とかなるナリ。いざとなりゃ、当職がムリヤリ連れ出したことにするナリ。世界中がYくんの敵になっても、当職が味方するナリ」
 ――頼りになるのか、ならないのかわからない言葉だな。
 僕は曖昧に笑みを浮かべる。
 僕らは再び歩き出す。西日が川面に反射して、キラキラと赤い紋様を描く。遠くの架線をミニチュアのような電車がとおっていく。
 Kはしばらくの無言ののちに、「映画、つまらなかったナリね」と言った。
「……ええ、まあ、あまり」
「正直に言っていいナリよ」
「非常に」
 だよなあ、とKはため息まじりに言うと小石を蹴っ飛ばす。カラカラと乾いた音を立てて石は転がってゆき、ぽちゃんと川へ落っこちる。
「こんなのじゃ、Y君を元気にさせられないナリ」、Kが何かを推し量るように言う。「こんなのじゃ、ね」
 そのとき、ずいぶんと歩いていることに気づいた。
 どうして今まで気づかなかったんだ?
 映画館のあった閑静な街の一角を抜け、いつのまにか僕らは繁華街の裏通りまで来ていた。
 あの人とよく飲みに来ていた――というか、引っ張ってこられていた一角だ。
 混ざり合いすぎてもはや原型が何かわからないようなニオイ。しつこくまとわりつく風俗の勧誘。下品さで競い合っていそうな店名。そういう目的のためだけに造られたホテル。
 Kがふいに立ち止まった。
 半歩うしろをついていた僕もつられて立ち止まる。
「Y君、ああいうのはどうナリか」、丸々とした指先が、前方の建物を指す。「あそこで少し《休めば》、元気、出るかも」
 僕は無言で建物を見つめ、それからKに目をやった。
 男はじっと僕を見つめていた。まるで鏡に向かって何度も練習したかのような上目づかいで。
◆5

 その晩僕はKと寝たわけだが、その自分を客観的にみた際、はたしてどう評価すべきなのか迷う。
 おそらくは、Kはすべて策略をめぐらして機会を待っていたにちがいない。
 彼がいつからそういった欲望を僕に抱いていたのかはわからないが、きっとそれは長い時間だったのだろう。
 僕が精神的に参っているところに、出かける誘いを仕掛ける機会を、まるで砂の中で獲物を待ち続けるサソリのように、待っていたのだ。
 ……そうだ、僕は確かに参っていた、それは認めなければならない。
 予定帳の穴は埋めていたが、何らかの空虚な部分はすっぽりと僕の内部に存在していた。
 それはとても小さな空洞だったかもしれないが、必ず時折風が吹き抜ける瞬間があって、そのたびにしくしくと痛み、その存在を僕に伝えてくる。

 しかし、いずれにしたところで、僕にKを責める資格がないことは明らかだろう。
 選択のあとには結果だけが残り、その結果を積みあげることで人生は成立してゆく。
 僕は彼に誘惑され、そして寝た。それだけのことだ。

 もちろん、僕のスマートフォンにひと月連絡を寄越さなかったその人に対して、何か、罪悪感――という表現で正しいのだろうか?――のような感情をおぼえなかったわけではない。
 その人が僕以外に性的パートナーを持っていなかったことはおそらく事実だし、そのまま進めば僕らの関係は一歩進んだところへいっていたのではないか、と。
 うぬぼれるな! と脳が警鐘を鳴らす。
 お前はそんなに出来たやつだったか? おまけに、そこにはしびれもめまいもないというのに。
 
 そう、問題はしびれとめまいだ。僕はそれをずっと求めている。
 僕はKと戯れたその時間、確かに脳の奥にしびれを感じた。鋭く本能を直撃するような、理性を麻痺させてくれそうな、しびれ。
 そしてそこには時折めまいも混ざった。くらくらとしてしまうような、あまりにも甘すぎるニオイのせいで脳天がやられてしまったかのような、めまい。
 ――別に恋人だったわけじゃないんだ、どうでもいいじゃないか、あんなやつ。
 片一方の僕は言う。
 ――最低だな。きみは何よりも優先して、まずは関係の修復につとめるべきだったんだ。
 もう一方の僕は言う。
 ――お前はどうしたいんだ。
 両方の僕が言う。 ――俺はどうしたいんだろう?
 寝返りをうち、充電器につないだ携帯電話を見つめる。鳴らない携帯電話。
 いや、鳴るには鳴るが、《その人からの》連絡がない電話。トイレット・ペーパーの芯と同じくらいの価値しかない無機物。
 こうやって、ひとりベッドで寝そべって睡魔がやってくるのを待っていると、僕はひどく不安定な心地になりはじめる。
 この部屋はそれ自体で丸ごとシュルレアリスムの絵画となっていて、自分という存在はその一部に描かれているんじゃないか、という錯覚を抱く。
 それはアクリルのケースに閉じ込められたような気分だ。窮屈で息苦しい空間。あの日白く干からびて、しんでいたダンゴムシ。僕が殺した、ダンゴムシ。
 時間は淡々と過ぎてゆき、朝が来て、夜が来る。仕事はすべてを忘れさせてくれる。そこには、はっきりとしたルールがあり、論理があるからだ。
 《論理》。それは僕をとても安定させてくれる。熱中しすぎて、逆にHに心配される始末だ。
 相変わらず連絡は、ない。 
 元々空いていた週末は、今度はKとの情事に費やされるようになっていく。そこには確かに、しびれと、ときどきのめまいが存在している。
 どこで覚えたのかもわからない彼の技術は、僕の中に麻のように生い茂り、僕を愛好からやがて依存へ落とし込もうとしていく。

 僕の眼前にはおそらくは今、ひとつのスイッチが存在している。それを押すか押さないか。シンプルな選択だ。
 押せば僕はすべてにおいて降参したも同じだ。快楽の底へ溺れてゆき、その羊水のようなしびれの中で目を回しながら生きていく。
 押さなければ僕はそれらを失い、淡々とした生活に戻るか、運が良ければよりを戻して、退屈な性的活動をおこなう。
 正直に言ってしまえば、僕にとってはどちらも望ましくはない。僕はその人を求めている一方で、しびれとめまいも、確かに求め続けているのだ。
 しかしもっとも悪手であるものは、何も選ばず、だらだらと生き続けることだ。
 それはもう生きているとはいうよりも、どこまでも柔軟な、絹の毛布にくるまれた死を選んでいるようなものだろう。
 そして今の僕は、そうなのかもしれない。
 ――なにかひとつをあきらめることで、なにかひとつはうまくいくのだろうか? 両方を得ようとすることは、ただの強欲なのだろうか?……
 思考の渦を断ち切って僕はベッドから身を起こすと、携帯電話を手に取る。電話帳からひとつの番号を選び出すと、しばらく迷ってから、通話ボタンを押した。
◆6

 白いカップに、なみなみと注がれた2杯目の黒いコーヒー。備え付けの灰皿には、すでに3本の吸い殻。壁にかけられた時計が示す、おおよそ20分の経過。
 眼前の人は僕をにらみつけながら、煙草の箱をつかむ。器用に唇で引っ張り出される一本の白い棒。灯される火。湧き上がるケムリ。4回目の行動。
「吸いすぎはお体にさわりますよ」と僕は言った。
 その人は、けっ、と言わんばかりに顔をしかめる。
「お前と一緒にいるほうがどうにかなりそうだね!」、紫煙とともに吐き出される言葉。
「あまり大きな声を出さないでください。ここは静かな雰囲気を保っている、今時珍しい喫茶なんだから」
「俺はクソみたいな男に付き合ってやってるんだぜ」、険しい表情がライターの火をつけたり消したりしながら言う。「少々の大声も許されてしかるべきだと、思うけどね」
 僕は少し黙ることにする。バックグラウンドには晩秋にちょうどよい穏やかなジャズ。狭い店内に客は、僕らをのぞけば1人だけ。品の良い老人が奥で読書をしているのみだ。
「あのさ」、声に再び正面を向く。
「そんでお前、2ヵ月ぶりに俺を呼び出してどうしたいのよ? え?」
 カップから抜いたスプーンを突きつけられる。
「あれか? さんざん悩み抜きましたー僕ちゃんどうすればいいのかわかんないー、でもやっぱり俺にまたすがりたいんですーってか?」
「だとしたらどう思います?」
「こ、ろ、す」、きれいに一音ずつ区切って放たれる言葉。
 僕は返事代わりに肩をすくめる。その人はしかめ面のままコーヒーをずずっとすすると「あちっ」とすぐに戻し、右手で耳たぶをつまみながら言う。
「お前さ、俺のこと舐めてるだろ。それか経験豊富は大嘘かのどっちかだな。妙な言葉で飾り立てたところで、お前の御大層なお悩みはひどく単純だろ……俺を取るか取らないか」
「《取る》? 取られる側でいいんですか?」、僕は言いながらコーヒーカップをとる。「あなたのような人が、選択される側でいいのかな」
 あーもう。相手は狂ったようにカップをスプーンでかき混ぜる。勢いで飛び散ったコーヒーがクロスに点々とシミを作る。
「ああいえばこういうのな、お前。そういう意味じゃねえよ、今のはあれだ、言葉の綾で――もういいや。それで用は? 先に言っとくけど、飲みには付き合わねえぞ」
「ええ、ですからデートのお誘いをしようと思って連絡させていただいたんです」
 喫茶に入ってからはじめての驚きの表情。
「僕たちは一度もそういったものをしたことがないでしょう」、僕は説明する。
「酒を飲んではホテルに転がり込む、というのが僕らのいつものパターンだ。でも僕としては、あなたともう少しお近づきになりたい。
 あまりにもいろいろ許し合いすぎたせいで、僕らはひどく馴れ合いの関係になってしまったんだと思う。
 冗談で笑い転げたり、軽口の応酬をする、それらが楽しかったのは事実だ……だけど、それは何か、柔らかな壁のようなものにさえぎられて、それ以上のものを僕らには許してくれない。
 できることなら、僕はあなたともっと親密になりたい。そのためにはこの壁を打ちやぶる必要があるんじゃないかと考えたんです」
 しばらくの沈黙。僕は意味もなく、手元にあったメニュー表をぱらぱらとめくる。
「……あのさ、ひとつききたいんだけど」
「なんでしょうか」
 とんとん、と指でテーブルを叩きながら、目を虚空にやって相手は言う。
「お前、頭おかしいわけじゃないんだよな」
「至ってまともなつもりですよ。教科書みたいにね」
「そりゃ結構で」
 言うと腕を頭の後ろで組み、椅子をギーコギーコと漕ぎはじめる。あまりの行儀の悪さに一言いいたくもなったが、何かしら考えこんでいるその様子を見て思いとどまる。
 ずっと同じ曲を繰り返していたBGMが終わりをつげ、他の曲が流れ始めた。
 奥で本を読んでいた老人は、僕らに咎めるような(実際咎めているのだろう)視線を投げると、ゆっくりとした足取りで店を出ていく。
 壁にかけられた時計の分針がわずかに動き、世界をわける1分のうち、2分の1か3分の1が変化したことを僕に示す。
 正確な流れで動いていく時間の中、僕らのテーブルだけが少し離れた場所に置かれているような心地がする。時間の傍流とでも言おうか、そういったところに。
「……お前、結局なんなのよ」、もう冷めてしまったであろうコーヒーを一気に飲み干すと言う。「前々から、ときどき、俺にはお前がわからんね」
「僕はあなたと以前よりも親しくなりたいだけです。そこには、しびれとめまいがありそうだから」
「しびれとめまい」
「ええ」
「そんで、それはひょっとすれば……その、なんだ、デート――この言い回しガキっぽくて気に入らん――で得られると」 
「かもしれない」
「maybeか? それともprobably?」
「その中間程度ですね」
 やれやれ、とため息交じりに席を立たれる。僕はその動作を目で追う。伝票を掴むと「俺の奢りだ」と言い、氷点下の視線を送ってきた。
「来週末空けとく。中坊のお遊びみたいなのだったら、途中で遠慮なく帰るからな」
「ずいぶんとハードルを上げてきますね。僕としては一か月ほどの準備期間をいただきたいのだけれど」
 調子に乗るなアホ、とこつんと額をこづかれた。
◆7

 この一週間、できれば早めに帰らせてほしいと伝えると、Hは軽く了承してくれた。
 はっきり言って最近のYくんは仕事しすぎじゃ、おかげでワシの仕事まで減ったわい、しっかり休むんじゃぞ。
 躾のよい犬にそうするかのように、軽く肩を叩かれる。気を紛らわすために仕事に没頭していたことが、思わぬ形で役立ったようだ。
 デスクで頬杖をついてマインスイーパに興じていたKは、不思議そうにこちらを見ていた。

「Yくん、週末どうナリ?」
 Hのいない間をはかって、いつものようにKが誘いをかけてくる。
「駄目です。大変申し訳ないのですが」
 Kの誘いを断ると、彼はなにか深いものを覗くような瞳で僕を見つめた。
「……なんかあった?」
「……どうしてそう思われるんです?」
 いつかと似たような展開の会話。
「なんか」、Kはそこで言葉を切る。「なんか……」
 会話はそこでとぎれてしまう。オランジーナの炭酸が抜けてゆくように、切れた言葉たちはぷかぷかと宙を舞い、やがて空中へと溶け込んでゆく。
 僕は書類を整理しながらその言葉が消えるさまを見つめている。
 自室で洋服にアイロンをかけ、食事を用意し、燃えるゴミと燃えないゴミをわける。
 洒落た店は無いかな、とグーグル検索にキーワードを打ち込み、うろたえたりしたら格好もつかないし下見しなきゃなあ、と考え、そもそもあの人こういうの好むのだろうか、とふと思い、大して何も知らないことに思い当たる。
 この服をベースとして合わせていくべきか、いやあの人ならお堅い格好見たら「きも!」とか言うだけだろ、じゃあもっとカジュアルなやつにしとこうか、そんなことをベッドに座って考えていると、窓の外で季節がまたひとつ変化しようとしていることに気づく。
 週末に向けてひとつひとつのステップを踏んでいくなかで、なにか、《緊張》とでもいうべきものが、僕のなかに湧き上がってくる。
 初めてデートの約束を取りつけた中学生のような、新鮮な感覚が僕のなかで生まれる。
 それはその人との関係において、一度もなかったものだ。
 僕は精神をじっと集中させ、注意深くその感覚を観察しようとしてから、何かを恐れるようにやめておく。
 アクリル板を張り巡らせたように灰色の雲が空を覆った木曜日の夜、Kから電話がかかってくる。
「もしもし……ええ、ちょっと雑事を。家が散らかっていたので今週は大掃除しようかと思って。そろそろ冬物の服も出さないといけませんしね」
 するすると蜘蛛の糸のように紡がれていくウソ。
 僕の言葉のひどく敏感な部分を察知し、慎重に放たれる疑問文。
 多くを語らないように、その問題の中心を避けて返す、曖昧な言葉。
 確信を突こうとして、しかしそれを恐れるようにためらったあと、少しずれた部分を貫通してゆく返答。
 どこまでもしらばっくれた返事。
 そして再びの、誘い文句。
「週末……ですか。いえ、ですから、先日申し上げたように時間がとれないんです」
「Yくん」
「なんでしょう」
 沈黙。
 僕は立ち上がるとカーテンの向こうをのぞく。いつの間にか雨が降り始めていた。音もない霧雨。
「Yくん……当職は、当職だけは、ずっとYくんの味方ナリよ」
 大量の感情を押し殺したような声。
 僕は何もこたえなかった。こたえることが、できなかった。
「……じゃ、じゃあまた、連絡するナリ!」
 また、とはいつだろうか。
 僕はそのとき、Kにどんな顔をして「もしもし」と言えばよいのだろうか。どんな会話をして、どんなことで笑えばよいのだろうか。
「……ええ、ぜひ」 

 ――最低だな。

 電話を切ったとき、誰かがうしろでささやいたような気がして僕は振り向いたが、もちろん誰もいなかった。
◆8

 街灯に映し出された2人の影が、交わったり離れたりを繰り返しながら道を進んでゆく。空には鈍い黄金の月。
「ご感想は?」
 視線を地上へ戻し、帰り道で前を行く後姿に声をかける。
「お前はどう思ってるの」、振りかえらないままに飛んでくる返答。
「あなたは途中で帰らなかった」
「お情けだとは考えないのか? 最後の」
「僕はオプティミストですからね。物事をあまり悪い方には考えたくない」
 どの口が言うんだか、と後姿は大きくため息をつく。
「少し意外だったよ。優等生君なら優等生なやり口で来ると思ったんだけどな。万人受けはしないだろ、ヒジョーに独創的だね」
「僕にとっての問題は、《あなたが》どう思うかだ」
「……そうかい」
 冷えているからか、ずいぶんと星がよく見える。故郷にいたころ、僕は東京ではまったく星が見えないのだろうと漠然と思っていた。
 知らないくせに思い込む。
 白い息が出ないだろうか、と試みに息を吐いてみるが、さすがにそれはまだ先の話のようだ。
「まだきいていませんよ。あなたの感想」
「ききたいか」
「もちろん」
 振り向いたその人は、僕を上から下まで見つめたあと、言った。
「まあ、楽しかったぜ」
 微笑んだ僕に、つづけて言葉が飛んでくる。
「でも、もう会うのはやめだ」
 外気とはまた別の、冷たい感触が胸の内を垂れ流れていく。瞬間的に浮かんだ複雑な感情を表現する言葉をさがし、やがて何もないことに気づく。
「……そうですか」
 ようやく絞り出せたのは、あまりにも情けない一言だけ。
「未練たらったらなら、最後にいっぺん相手してやってもいいぜ」
 白い指がネオンを指さす。
「お前が腰ふってるあいだ、テキトーに声だけ出すさ。明日の予定でも考えながらな」
「僕は、それほどみじめに見えますか」
「見えるね」、双眸が僕を見据える。「お前はな、結局しびれもめまいも得られなかった。そうだろ」
 僕は思わず黙り込む。どこかの家で犬が遠吠えし、それを叱る飼い主の声がする。
 沈黙を肯定と受け取ったのか、再び口を開く。
「お前はどこへ行っても、手にいれられないな、そういうの。……他のやつと今どうなのかは知らねえけど、きっとそうさ。いつかは失う」
「なぜでしょう」
「見えてないんだよ。見えてないくせして、全部をうまくやり過ごそうとしてるんだ。そうだ……お前には、色がみえてない」
 色?
「試してみるか」
 歩み寄ってくると、軽く唇を重ねられる。
「な、やっぱりだ」、視線を横にやって放たれた声はどこまでも寂しさを帯びている。「お前のキスは過去最高のマズさだよ」
「……わからないな」
 無言でその人は爪先立つと、僕の頬を上から下までそっとなでる。僕は身動きもできずに立ち尽くしている。
 顎に手をやってしばらく僕を見つめると、もう一度唇を重ねられる。視界の隅で重なり合う2つの影。
 やがて離れたその人は、薄い笑みを浮かべていた。
 今までみたこともない、とても優しい微笑だった。
「これだけ言ってもわからんようじゃあ、ハルポッポ曹長の相手はつとまらんな。……Y、俺は結構気に入ってたんだぜ、これでもお前とのこと」
 じゃあな、と踵を返した背中になにか言いかけ、僕は口をつぐんだ。
 街灯に照らし出されるのは、ひとつの影だけだ。
◆9

 最終の電車は人身事故のおかげで混み合っていた。また、どこかの誰かが自ら命を断ったらしい。
 それは第三者の視点からして悲しい出来事に分類されるが、僕の心に特別な現実感をもってしみこむわけでもない。
 プラットホームに溢れかえるゆがんだ笑いと、呼吸の方法を忘れてしまいそうなけだるい空気のなかで、うつむき加減に電車を待つ。
 やがて人波に流されて押し込められる金属の箱。つり革を握り、振動に合わせて左右に揺られながら僕は考える。
 色。それは何かしら精神的なものを指して放たれた言葉のように思える。
 心、感情、思考? ……いや、同じような言葉を並べたところで、意味なんてない。
 視線をあげて外を見る。黒いインクをいっぱいに流して、ところどころ白い点を垂らしたような外の風景。
 トレンチ・コートのポケットに入れた携帯電話が、かすかに振動しているのに気づく。Kだろうな、と直感的に感じる。
 ポケットの上からその存在にそっと触れて、いつまで振動がつづくのだろう、と考える。
 次の駅まではあと2分。そこまで鳴りつづくようなら、電車を降りて、電話に出よう。
 架線が過ぎてゆく。長く伸びる電線が上下に揺れ動く。それは永遠につづいているように思えるが、そうではない。
 アナウンスが、間もなく駅へ止まると告げる。気の早い人々は身支度をし、ぎゅうぎゅうとした空間で押し合い圧し合い並んで扉が開くときを待つ。
 電話はまだ振動している。
 僕はその振動に止まってほしいような、止まってほしくないような、相反する感情を抱く。
 もう一度、しびれとめまいを味あわせてほしいと思う僕と、そういったすべての衝動的な感情から逃れたいと考える僕がいる。
 おかしなことだ。僕はあれほどその2つの感触にこだわっていたというのに。
 お前は何を求めているんだ?
 窓ガラスに反射する男へ問いかける。
 ――お前はどこへ行っても手に入れられない。
 あの人の言葉を思い出す。
 
 電車が鈍いブレーキの音を立てて駅へ止まった。
 僕はポケットの感触を確かめると、このまま終点までゆくことを決めた。理由なんてない。いや、あるのかもしれないが、僕の心はそれを直視することを許してはくれない。
 ……「許してくれない」、なんて体の良い言い訳だ。結局、怖いだけにすぎない。
 窓の向こうで雲が月を覆ってゆく。より暗くなってゆく向こう側の世界が、より一層つり革を掴む男を窓に浮かび上がらせてゆく。
 それらは結局、対照なのだ。両方が明るくなることはない。
 発車のベルが鳴る。駆け込み乗車をする乗客を駅員が注意する。物憂げな機械音を立てて扉が閉まる。
 僕は窓にうつる男をにらんで、もう一度問いかける。

 お前は今、どこにいる?

 男はこたえず、僕をにらみかえす。
 どこまでも同じように左右非対称の瞳は、どこまでも同じように澱んだ流れを抱いている。
 そしてそれは時折、僕の中の、何か得体のしれないものを覗こうとするように光る。
 ……いや、違う。覗いているのではない。《映し出して》いるのだ。
 再び動き出した電車が、大きく横に揺れた。拍子で近くに座っていた老人の杖がカラカラと床に転がる。
 拾おう。
 思って伸ばしかけた自分の腕は目に見えない汚れがついている気がして、それは何をつかむこともなく、だらりと虚空に垂れた。

挿絵

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