恒心文庫:誘惑の木の実

2021年5月8日 (土) 11:55時点における>ジ・Mによる版
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本文

毒々しいまでに赤く赤く煌めく、煽情的な球体。トルコグラスのように艶めく、耽美なる果実。それを前にした俺の胃の中から、原初の混沌のようなものが湧き上がってくる。気味の悪い感情だ。コツコツとテーブルを叩く爪の音。首を振り、俺は視線を「それ」からカウンターの向こうへ移す。一人の男。その覆面をした妖しげな男は、「ささ、どうぞ。先生」と笑みを浮かべる。
「ナイフ使われます?」
男はニタニタと、鋭利なナイフを取り出した。ちょっと待ってくれ!一瞬よぎった声なき声も虚しく。俺の目の前にあった、何とも魅力的で安っぽい売女のような「それ」を切り裂く刃。サクッサクッという無慈悲な音。その球体は八つに分かれた。
「どうぞ、お召し上がりください」
俺は彼の顔を見ることもなく、ただ「それ」の白く瑞々しいグロテスクな断面を眺めていた。その刹那、俺の混沌から産み落とされた悪魔が囁いた。ーーそいつを亡きものにしてしまえーー唾を飲む。仄かな血の味。蜜の味。教会のステンドグラスを破ったような罪深さ。そして、全てを悟ったような全知全能の俺の姿。それはあまりに悪魔的でナルシスティックな数秒間だった。息つく暇もなく、その血で満たされた杯は綺麗に片付いてしまった。
そう、俺はその時、「堕落」を知った。

出典
ズュース・フォン・トキオ『りんご飴と弁護士』メンダチウム社、初版1818年3月2日

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