恒心文庫:名犬1A

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本文

1Aは走り回っている。四つ足で、虎ノ門を走り回っている。今は夜である。いつもは昼に外にいるのに、なぜか今日は夜なのだ。
「はっ はっ はっ」
いつも車を押している小太りのデブはいない。一匹だけで息荒く、灰色の地面を駆けている。爪が石を掻く硬い音が、等間隔で響き、近づいては離れていく。
小太りのデブ、唐澤貴洋はその様子をひたすら眺めていた。家の前で佇んで、月の光を浴びている。その前に、ふと、1Aが止まる。
夜の静寂の中、1Aの荒い呼吸が響く。まるで笛の音に聞こえるのは、その骨と皮だけの細い首を、乾いた首輪がひたすら締め付けているからだろう。そしてそこから伸びる鎖は、背後の闇に伸び、誰かの手に握られている。
それは洋の手であった。車椅子に腰掛けた洋に鎖を握らせて、1Aは走り回っていたのだ。しかし限界が来たのか、1Aは力無く地面に横たわり、二三回跳ねると動かなくなった。
それを見届け、洋は慈愛に満ちた目つきで1Aに
近寄った。そしてその首輪を優しく外すと、自身の首を括った。視界の端、貴洋はいつの間にか車椅子に腰を下ろし、その手に鎖を。
確認するまでもなく、洋は走り出す。息子のため、父たる自分が馬車馬の如く走るのは当然なのだ。父の引く車椅子に座って、唐澤貴洋は夜の闇に消えていった。

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