恒心文庫:ココア

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本文


「やまおか!ココア、ココアが飲みたいナリ!」

最近、カラさんは僕の特製ココアがえらくお気に入りだ。
このココア、一見するとたしかにココアだが、しかしこれをココアと呼ぶには問題がある。正しくはホットチョコレートとでも呼ぶべきだろう、が、カラさんにその違いが理解できるわけもないので、これはもうれっきとしたココアというわけになる。
以前、虎ノ門にいたころは洋さんが「唐澤貴洋ミルク係」を担当していた。だがこのオランダヒルズに来てからはもっぱら僕がカラさんにココアを作ってあげている。

こと食事に関して言えば、父洋と唐澤貴洋の関係はコアラのそれとよく似ていた。
コアラは自らの排泄物を子に餌として与えるという。彼らの食べるユーカリには繊維質や毒が多く含まれていて、未熟な子コアラはそのままでは消化しきれないからだ。
唐澤貴洋もまた子コアラ同様、その下痢便体質ゆえに父洋の排泄物以外の食物からはうまく栄養を摂ることができなかった。
こうした二人の関係は食事だけでなく社会生活全般に関しても敷衍することができた。父洋を仲介し唐澤貴洋に与えられる仕事・肩書・居場所などの諸々……、そうしたものが潜在的に持っている「毒」は父洋というフィルターによって濾過されていた。無能な唐澤貴洋は安心してそれらをただのうのうと享受していればよいのだった。
社会とは顔のない有機的な化け物めいたひとつの秩序であって、個人はそのなかであまりにも無力である。父洋がそれらの圧力から唐澤貴洋を守ろうとしたのは当然の親心であった。また実際のところ、父洋のこうした配慮がなかったならば唐澤貴洋はとっくの昔に死んでいただろう。
今日も無心に「食事」をむさぼるカラさん。その姿を愛おしげに見つめる洋さん。
窓から差し込む斜光を背にした二人の姿は幼子イエスを抱く聖母マリアが描かれた一連の宗教画群をたやすく想起させた。この景色を眼前にするたび、抗いがたい荘厳さが僕の身を震わせるのだった。

父洋と唐澤貴洋との間の空気はさながら無菌室のそれであった。
それは自然とはとても言い難いものだったが、しかしその歪さによってこそ、ある種の純化した関係として昇華されているようだった。
これまで僕は、いわゆる社会の「毒」とはあまり縁のない生活をしてきた。愛想笑いを浮かべ他人と適度な距離をとり続けること、社会で暮らしていくにはこれが一番頭のよいやり方のように思えた。弁護士という職業はいかにも社会の「毒」と向き合っているように見える。でもそれはあくまでも体裁としてのみに留まる。普段は事務仕事ばかりだし、開示請求などをこなしていればわざわざ矢面に立たずとも十分にやっていける。情けない自分から目を背けるために弁護士という聞こえのよい体裁にすがってうすっぺらな自尊心を守ってきたということ…。その自覚は薄々あるが、それを自ら認めるのは自傷行為のようなものだった。 それに加えて、こんな仮定までしてしまう。もしも、この社会の構造そのものが、「毒」のようなものだったとしたら。その仕組みに寄与している弁護士という職業もまた……。
そこまで考えたところで無理矢理思考を停止させた。
こんなクソみたいな悩みなんてのは時間の無駄でしかない。
今日もまた、僕は目の前の事務作業を黙々と片付け続ける。余計なことはなにも考えるな。いくら考えようがどうにもならないものはどうにもならないのだし、そんな自覚が有ったところで自らの無能が許されるわけでもないのだから。

「 あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! ) 」

突然、カラさんの絶叫が虎ノ門に響きわたる。
どうせまた性懲りもなくSOWAのアイスでも食べたにちがいない。床に撒き散らされた糞便を嬉々として舐めあさる洋さん。ほほえましい、ありふれた昼下がりの風景。
この二人はきっと、僕みたいにこんなネクラでどうしようもない悩みを抱えたことなんて一度もないのだろう。僕にわかるのは、何人も二人の関係に割りこむことなどできないということ。そして、同様の関係を僕が誰かと築けるなんてことも決してないだろうということ。
激烈な嫉妬と羨望とが胸を突き上げる。それでも僕は二人のことをとても愛していたし、尊敬もしていた。二人のそばにいられるだけで十分に救われていた。そしてそれはこれからもきっとずっと続いていくはずだった。

以前、ひねくれ者の先輩がこんなことを言っていた。事実は小説よりも奇なり、その理由がわかるかい?それはな、現実は小説と違って、人間に理解可能な理由なんてなくても勝手に進んでいくものだからだよ。実際、因果や理由なんてものは人間の認識が要求する思い込みみたいなもんなのさ……。めんどくさい人もいるものだな、と聞き流していた、そんなどうでもいいようなことをふと思い出す。高学歴特有の不要な連想。これはあきらかに現実逃避だ。現実逃避を指す英語の慣用句に " follow an ostrich policy " とかいうのがあったっけ……。こんなことばかり考えている現状がまさしくそのものだなと苦笑する。往々にして、現実逃避が行われている時というのはもはや現実逃避などしている場合ではない。ご多分に漏れず、僕もまたどうしようもない現実を前に途方にくれているところなのだった。


洋「みっみるく」ビクビク


洋さんが倒れている。むくむくと肉付きのよい肢体が不規則に痙攣している。どうしてこんなことになったのか、理由や経緯なんてものは、もはや僕にはなにもわからなかった。いまここにいる自分と眼前の光景、それだけがすべてだった。鼻腔に満ちた血の匂いはもんわりと甘ったるく、見慣れているはずの事務所はロスコの抽象画のように赤く揺れている。その一面の赤の中、ぱっかりと開いた洋さんの頭蓋骨からほの白い脳髄が流れ出していた。にじみ、したたりつたう脳髄は幾本もの筋となり、チャーミングなもみあげをより白く染める。まだ脈動の残る黒ずんだ陰茎からはたらたらと精液が垂れつづけ床を覆いつくしていく。脳髄と精液、二種類の白と白とがとろりと混ざりあい、絶妙なグラデーションのマーブル模様が浮かびあがる。おだやかな夕陽が、なにもかもを静かに包み込んでいた。この白昼夢のようなひとときを、僕はただただぼんやりと眺めつづけていた。


「 ヒロシ!もうミルクの時間ナリよ!早くするナリ!! 」


カラさんが隣の部屋で叫んでいる。
僕は静かにその場を離れる。
「カラさん、洋さんはしばらく出張だそうですよ。今日は僕がミルクを入れてあげますね。」
自分でも驚くほどにそつなくことは進んだ。
カラさんが落ちついたのを確認してすぐ、肉塊の横たわる給湯室へともどる。
床に拡がる脳髄と精液の混合液を手ですくってかきあつめる。まだ暖かい洋さんの肛門に口をつけズズズズッと大便を吸い上げる。ブルドッグソースのような独特の刺激臭がつんと鼻をつく。口にためた糞便をコップに移しかえ、先ほどの脳髄と精液とを加えてよく練り混ぜる。いつのまにか、僕の手にはココアの注がれたコップがおさまっていて、カラさんはそれを心底おいしそうに飲み干した。
「見ろやまおか!ココアもう空っぽナリよ!ミロみたいで当職メロメロナリ……日本のココア界を作っていきましょう。」
うっとりと陶酔の表情を浮かべるカラさん。僕の脳裡をかすめたのは、それとよく似た洋さんの笑顔だった。精神と肉体の均衡が一挙に瓦解する。こみあげてくる嗚咽をこらえきれず、しゃがみこむ。
「やまおか…?どうしたナリか?おなかでも痛いナリか?」
ナリナリとまとわりつくカラさんの無邪気さが僕を追い詰める。なにもわからないカラさんはただおろおろと僕の背中をさする。
「これはいけない。ラッパのマークの正露丸ナリ!」
ぺたぺたといずこかへ走ってゆくカラさんの後ろ姿、ふりふりと揺れるかわいいおしりは親譲りの小気味よい形をしていた。

『 あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!』

絶叫は、心のなかでだけ。

そのあとすぐ、僕らはオランダヒルズへ引っ越した。
虎ノ門から持っていかねばならない荷物は拍子抜けするほど少なかったが、絶対に忘れてはいけないものもあった。
当然ながらココアを作るためには洋さん ―― だったもの ―― が不可欠だった。不思議なことに、洋さんの全身、脂肪やキチン質などの諸構成物はすべて自然と精液と大便に変化していくらしく、その身をしぼませながらもこんこんと湧き出す液体は僕たちの日々の糧となった。
ときどき、カラさんは洋さんの不在をいぶかしむ。しかしそのたび、ロリドルのDVDが届いたり脱糞したり呼吸をしたりして、そのすぐ後にはもう先ほどの違和感をカラさんはすっかり忘却してしまうのだった。
もはや閑古鳥すら寄りつかない、うだつのあがらない法律事務所。
なにもせずとも一日は終わり、伸びきった影はうすぼんやりと暗闇に溶けていく。
遠く沈む夕日をながめながら、もう手のひらサイズにまで縮んでしまった洋さんから今日もココアを作る。
僕もカラさんも、きっとながくは耐えられない。
ゆっくりと、しかし着実に衰弱していく四肢と意思とを、今日はまだこのココアが支えてくれている。

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