インフレーシヨンと物價對策
インフレーシヨンと物價對策(いんふれーしょんとぶっかたいさく)は、明治大学商科二年の柳下喜代(尊師の母方祖母)が、『明治大学女子部創立十周年記念論文集 : 皇紀二千六百年』に寄稿した論文である。
全文
インフレーシヨンと物價對策
商科二年 柳下きよ
目次󠄁
序
一、インフレーシヨンの意義
數量說による賃幣󠄁[原文ママ]價値の決定
貨幣󠄁價値決定に關する諸󠄀學說
貨幣󠄁價値の表現
インフレーシヨンの意義
二、インフレーシヨンの顯現形態
貨幣󠄁インフレーシヨン
信用インフレーシヨン
現今に於ける我が國戰時經濟とインフレーシヨン
三、インフレーシヨンの影響󠄃
四、インフレーシヨンと物價對策
序
現今の我國民經濟生活にとつて、インフレーシヨンの問題が如何に重要󠄁であるかは、此處に云ふ迄もない事である。
インフレーシヨンの進󠄁行は、我が國民經濟に於ける生產諸󠄀力に影響󠄂し、戰時體制の基礎を破壞するのであるから、我々は凡る努力と犧牲とによりインフレーシヨンの防止に當らなければならない。
然るに、戰爭と貨幣󠄁價値維持とは常に相容れない問題で、從來の例にも見る如く、其の程󠄁度の差こそあれ、戰爭には必ずインフレーシヨンはつきものである。
而して近󠄁代的戰勝󠄁の意味は、單に局部的領土の占領を指すのではなく、敵國の國家機󠄁構󠄁を破壞して、國家としての生存を不可能ならしめるにあるから、國家機󠄁能の最も根本的なる經濟體制は最も强力に組立てられ、其の機󠄁能は、保全󠄁されねばならないのである。
而して、經濟機󠄁構󠄁の根本的な基礎をなすものは、貨幣󠄁價値である。
故に貨幣󠄁價値の下落によつて有󠄁らゆる經濟機󠄁構󠄁が破綻を生ずれば、最早や國家としての存續󠄁は不可能となり、戰果は旣に明󠄁らかな所󠄁である。
如斯貨幣󠄁價値の維持、換言すればインフレーシヨンの防止は、戰時經濟政䇿の重要󠄁なる課題であり、又󠄂凡る戰時經濟政䇿がこの一點に向つて集中されてゐる事は、此處に論ずる迄もない事である。
而して、私はこの小論に於て、インフレーシヨンの意義を明󠄁らかにし、次󠄁にインフレーシヨンが如何なる形體に於て顯現するかを把握し、次󠄁でインフレーシヨンの影響󠄂を考察して、最後にインフレーシヨンの對䇿を究明󠄁すん[原文ママ]と意圖󠄃するものである。
一、インフレーシヨンの意義
數量說による貨幣價値の決定
インフレーシヨンと云ふ言葉は、極めて一般的に使󠄁用されてゐるにも拘らず、其の內容の規定は極めて區々である。
例へば、橋爪明󠄁男敎授󠄁は、インフレーシヨンの意義を「その語義は獨の Aufblahüüg[原文ママ] に該當し、吾國に移せば通󠄁貨膨脹とするが最も適󠄁當であろう[原文ママ]。…………」⑴ とせられ、
荒木光太郞敎授󠄁は、「最も一般的にはインフレーシヨンとは、貨幣󠄁の供給量がそれに對する需要󠄁量を超過󠄁し、その結果一般物價謄󠄁貴[原文ママ]を惹起󠄁する樣な場合を言ふのである。」となされ⑵、
又󠄂「インフレーシヨンとは、流通󠄁に必要󠄁なる數量以上に貨幣󠄁並に信用が流通󠄁界に投入せらるる結果貨幣󠄁價値が減少し、物價が騰󠄁貴する現𧰼である」と云ふ。
斯くの如くインフレーシヨンの規定は區々であるが、其れが貨幣󠄁價値の下落に關する事であり、其の原因を貨幣󠄁數量の增加に求める傾向にあり、然も量と共に其の流通󠄁速󠄁度にも變化ある事及び結果的にも必ず物價騰󠄁貴ある事が一般に認󠄁識せられてゐる所󠄁である。
かゝる一般の通󠄁說に從つて、インフレーシヨンを貨幣󠄁價値の下落であるとするならば貨幣󠄁價値は何を基準に下落と云ひ、或は騰󠄁貴と云ふか、先づ貨幣󠄁價値の決定からしてかゝらねばならぬ。
而して、貨幣󠄁價値決定に當つては、根本原因として、アーヴイング・フイツシヤー氏の數量說によるを今日の通󠄁說にして同時に又󠄂、適󠄁當なるも[原文ママ]と考へるのであるが、フイツシヤー氏の數量說に更󠄁に修正要󠄁素を加へられた春日井先生は次󠄁の如く說かれてゐる。
「一財貨の交󠄁換價値は其の財貨の効用性と稀少性によつて生じ、其の高は同樣にして生ぜる他の財貨の價値との比例に外ならない。
然らば貨幣󠄁の交󠄁換價値も同樣に貨幣󠄁對一般財貨の間に於ける効用及稀少性の比率󠄁關係によると解すべきである。
之を他面より考察するに貨幣󠄁は本來流通󠄁財貨と對立關係に立ち、全󠄁流通󠄁財貨量と全󠄁貨幣󠄁流通󠄁量とは凡て等價の關係に在る。
然るに貨幣󠄁は價値流通󠄁の要󠄁具󠄁にして交󠄁換以外の一方的價値流通󠄁にも使󠄁用さるゝを以て、流通󠄁する財貨と對立關係にあるのは、之等に用ひられたる貨幣󠄁額を除外したる部分である。
更󠄁に今日の社󠄁會にては小切手等の信用要󠄁具󠄁が交󠄁換等に於ける財貨と對立し、且つ屢々物々交󠄁換も行はれ、流通󠄁を本性とする商品以外の財產たる資󠄁本も貨幣󠄁と交󠄁換されて對立關係となる。
かくして除外例を附したる貨幣󠄁對財貨の關係は、平等對立關係にして一定の時、所󠄁に於ける前󠄁者󠄁の全󠄁額と後者󠄁の全󠄁額とは全󠄁く等價となるべきである。
然るに流通󠄁財貨の一定の時に於ける量は事實上判󠄁定不可能である。
故に一定時日間を通󠄁じてなさるゝ財貨の流通󠄁量を選󠄁び、之を同一時日間に全󠄁貨幣󠄁の流通󠄁せる回數を貨幣󠄁に乘じたるものと對立せしむべき事となる。」⑶
となされ、フイワシヤー[原文ママ]の所󠄁謂交󠄁換方程󠄁式𝑇𝑃=𝑀𝑉+𝑀′𝑉′を修正されて、全󠄁貨幣󠄁活働額よりは一方的價値流通󠄁として活働せる量を除かれ、全󠄁流通󠄁財貨よりは、相殺取引、物々交󠄁換高を除外され、資󠄁本財流通󠄁高除外を附加されて次󠄁の如くなされたのである。
𝑃= 𝑀𝑉+𝑀′𝑉′-𝑚 𝑇+𝐶-2𝐵
∴ 1𝑃 = 𝑇+𝐶-2𝐵 𝑀𝑉+𝑀′𝑉′-𝑚
𝑃=一般物價 𝑇||[原文ママ]商品流通󠄁高
𝐵=物々交󠄁換及相殺取引高 𝑀=貨幣󠄁高
𝑉=貨幣󠄁流通󠄁速󠄁度 𝑀′= 信用(貨幣󠄁代用物の高)
𝑉′=信用の流通󠄁速󠄁度 𝐶 = 資󠄁本財流通󠄁高
𝑚 = 一方的支拂に用ひられたる貨幣󠄁高⑷ 1𝑃 = 貨幣󠄁價値
貨幣󠄁價値は斯の如く除外例を附したる財貨對貨幣󠄁の對立關係の比率󠄁に求むべきであつて私も亦、春日井敎授󠄁の說に追󠄁從するものである。
⑴ 橋爪明󠄁男著󠄁「貨幣󠄁理論」
⑵ 荒木光太郞著󠄁「貨幣󠄁槪󠄁論」
⑶ 春日井先生著󠄁「貨幣󠄁及金融原理」九九頁參照。
⑷ 春日井先生著󠄁 前󠄁揭書一〇四頁參照。
貨幣󠄁價値決定に對する諸󠄀學說(數量說反對說としての)
品 質 說 この說によれば、貨幣の流通に對して抱く世人の信任の變化、換言すれば貨幣の品質に對する判斷が貨幣價値に極めて重大なる影響を及ぼす、と云ふのである。 而して、貨幣の流通に對する信任の動揺は、貨幣の流通速度を增大させて商品の側に於ては賣り惜み、と云ふ現象が現はれ、この兩者が相俟つて貨幣の價値を異常に低下させるから、 貨幣價値決定上、その數量のみでなく、信任の要素即ち(即:旧字体)品質も亦重要なる役割をなすと云ふのである。 乍然、この説(説:旧字体)に云ふ商品販賣者が賣惜むのは、將來貨幣が增發されて、流通貨幣量が增加し、その結果貨幣價値が低下するだらうと云ふ豫測だからであり、 貨幣の流通速度の增大が貨幣價値に影響(響:旧字体)するのはそれが流通貨幣積數を增加させるからであり、この説(旧字体)は結局數量説(説:旧字体)の否定ではなくして、 數量説(説:旧字体)を前提として始めて説明可能(説:旧字体)なのである
商 品 説(説:旧字体) この説(旧字体)によれば、貨幣の價値はそれを構成する材料の商品價値によつて決定されるとなすのである。 乍然、貨幣は商品に非ずして其の價値とは全く獨立なる經濟手段である。故に地金の價値と貨幣の價値との關係について商品説(旧字体)の唱へる所は正鵠を失するものである。 即ち(旧字体)鑄貨等の如く商品に還元し得る貨幣については一應適用するものであるが、實際價値以上の大なる通用力を有する補助貨幣に於ては適合し難いものであり、更
一八三 一八四
に不換紙幣の如く商品還元の無意味なる貨幣については全く適合し得ぬものである。
主 觀 價 値 説(説:旧字体) 貨幣が使用價値の獨立性を認めて、貨幣の交換價値については第一次的交換價値と第二次的の交換價値とを認めるのである。而して前者を内部交換價値とし、 後者を外部交換價値として、この内部交換價値の變動の原因をなす所の貨幣の價値であるとするのである。 即ち(旧字体)貨幣の價値は、貨幣に對する主觀價値説(説:旧字体)を通じて決定されると見る所の學説(説:旧字体)である。 この説(旧字体)も結局貨幣品質説(説:旧字体)と同様に數量説(説:旧字体)を基本としてのみ説明可能(説:旧字体)であり數量説(説:旧字体)に對立する學説(説:旧字体)ではない。
職 分 説(説:旧字体) 職分説(説:旧字体)は需給説(説:旧字体)は、貨幣に對する慾求である。供給とは、貨幣によつて商品、勞力を得んとする慾求である。 故に前の慾求が強ければ(旧字体)物價は低落し、後の慾求が強ければ(旧字体)物價は謄貴するとなすのである。 固より貨幣の價値を現實に決定するものは需要、供給の關係であるが、この場合の供給こそ貨幣數量説(説:旧字体)に云ふ所の他の事情(情:月→円)にして同一なれば供給數量によるとの説(旧字体)に外ならぬのである。 其の如く、從來貨幣數量説(説:旧字体)に對しては幾多の論あるに不拘、數量説(説:旧字体)が依然として貨幣經濟社會(社:旧字体)に於ける貨幣現象を説明(説:旧字体)する最基本的な理論たる所以は、 數量説(説:旧字体)を他にしては貨幣現象を説明(説:旧字体)することは不可能であり、又數量説(説:旧字体)に對立する所の第二の貨幣理論の無い爲である。
貨幣󠄁價値の表現
然らば貨幣価値は何によつて表現されるかに就いては、一般物價指數の逆數によつて貨幣価値の正當なる表現と見るものである。 即ち(旧字体)貨幣の價値を其の交換價値と解釋する時は、この交換價値即ち(旧字体)購賣力は、諸種の財貨を取得し、又は勞務を享受する場合に實現し、交換比例に於て數字的なる表現を見るものである。 故に、例へば米一俵十八圓なりと云ふのは、米と貨幣との交換比例である。 この場合、貨幣十八圓の交換價値は米一俵で表現せられ、又逆に、米の價値は米と對立して交換される貨幣の量、即ち(旧字体)十八圓なる價格に表現されるべきものである。 即ち(旧字体)價格なるものは、財貨にのみ存するのではなく、貨幣の方面から見れば同じく其の交換價値を示すものである。 故にこの場合の貨幣の價値は、其一定量が交換により支配する米の量に依つて表現されると共に、一定量の米に對して提供される貨幣の量、即ち(旧字体)米の價格の逆數に依つても表現される事になる。 貨幣と交換される價値物の種類は極めて多き故に、その財貨及び勞務の諸價格總合平均位を求めた所謂 一般物價指數の逆數によつて貨幣價値を表現するとなすのである。 然るに職能價格説(説:旧字体)の論者は諸物價の平均的中心的な變化其のものを否定し、引いては諸物價の中心的な地位と規定された物價水準や一般貨幣價値の思想を無用なりとなすものである。 通貨の事情(情:月→円)によつて諸商品價格の影響(響:旧字体)されることは是認するが、この關係ではないと云のである。 乍然、貨幣の購買力が物價水準によつて表現されると云ふのは、貨幣の購買力其のものヽ性質から見て固よりさうならなければならぬのであつて、決して現實的な諸物價の變動があるといふのではない。然る
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(中断)
脚注