恒心
恒心(こうしん)とは、「常に変わらない心」を意味する熟語である。唐澤貴洋がかつて設立した法律事務所にこの単語が引用されており、恒心関連でも独立した用語になった。英語ではsteadinessと訳され新事務所の名前になった。 頭の中心が「唐澤貴洋・長谷川亮太」で出来ている極めて残念な陰キャの集合体である(失笑)
概要
元は「孟子」の中に登場する「恒産無くして恒心有る者は、ただ士のみ能くするを為す。民の若きは即ち恒産無ければ、因りて恒心無し。」で、ざっくりと訳せば「低収入でも平常心を保てるのは凄い人だけであり、一般人にそれは難しい。」という意味である。これが後に縮められ「恒産なくして恒心なし」という故事となった。意味は先述のものを縮めて「一定以上の収入が無ければ心の余裕は保てない」という意味である。
恒心との関わり
唐澤貴洋が坂本総合法律事務所をそそくさと辞めて設立した事務所の名前にこの単語が冠されている。素心若雪といい彼は中国の故事が好きなのだろうか。しかし平均以上の財を蓄えているであろう唐澤は極端に煽り耐性が低く、上記の故事を達成できているとは言えない。また事務所トップページの「理念」には「恒心綜合法律事務所は、正しき心を恒に持ち仕事を行うという理念のもと」と書かれており、原典とは若干意味が異なっている。これは素心若雪のように唐澤が意味を誤解しているのか、それとも自らが発案した造語に見せたいのかは不明である。
なんJへの唐澤降臨直後から「恒心」という単語は注目され、その独特の響きから勝手に宗教団体の名前にされ、「教徒」という概念が誕生、以降教徒の活動の旗印のような扱いとなりつつ自称としても用いられ、対極的に「ハセカラ民」は包皮民からの蔑称としてのニュアンスの強いものとされた。
また一方「更新」の当て字としても活用され、転じて唐澤が自らのFaithbookやTwitterを更新(=何か発言する)ことを「恒心」と呼ぶようになり、さらに転じて唐澤による発言そのものや、唐澤が何か行動を起こす事を「恒心」と呼ぶようになった。
さらに、原典から新たに「恒産」という言葉が引用され、響きから教徒が芸術路線や事実追求路線において何かを生み出すことを「恒産」と呼ぶこともある。ここから原典の「恒産なくして恒心なし」という故事も、「教徒が活動を行わなければ尊師からの神託はない」という意味にすり替わりつつある。
外部リンク
- 恒産なくして恒心なし 故事百選