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恒心文庫:月の見える崖で今夜

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

もう死のう。
僕は崖へ続く夜道を歩いていた。死に場所を求めて。楽になれる場所を求めて。
家から電車を何本も乗り継いだし、駅からも何時間も歩いていた。
ここなら楽に死ねる。そう名高い身投げの崖だった。死ぬことは怖くなかった。むしろこのまま生き続けることのほうが怖かった。
僕に兄がいた。凶暴で、強欲で、根性のネジ曲がった男だった。そのうえ、力ばかりは強かった。
学校にもろくにいかず家にひきこもっては僕のことを殴り、蹴り、叩いた。
やめてと叫んでも兄の耳には入らなかった。父に頼んでも知らんぷりをされた。学校の教師は頑張ってくれたが、それでも家庭内の問題に介入することはできなかった。
僕にとって家は家ではなくなり、家族は家族ではなくなった。
年中殴られ腫れ上がった僕の眼は、世界をゆがんでしか見ることができなかった。
いつも踏みつけられ折れ曲がった僕の手は、世界の優しさに触れることはできなかった。
拠り所をなくし、ついに僕は僕ではなくなった。世界から除外された何かになったのだ。
もう死のう。そう思うのは当然のことだった。自殺はよくないことだという人は、人が人でいられる世界での価値観で語っているのであり、僕が押し込められた世界はそんなありふれた幸せな世界ではなかったのだ。
崖に続く道すがら、なにかいい思い出を心に浮かべようとしてもなにも出てこなかった。これでいいのだ。
だって少しでも未練を感じてしまったら、僕はこの道を進み続けるための勇気を失ってしまうかもしれない。
森を抜けると崖が見えた。先程から聞こえていた波の音は、何にも邪魔されず僕の耳に届いた。潮の香りが僕の鼻をくすぐった。
目の前の空には月がやたらくっきりとまあるく煌々と輝いていた。潮風が僕の体を心地よい涼しさでつつんでくれた。
死のうという間際なのに、生きているということを体中で感じていることがなんだかおかしかった。
いやむしろ、これから死のうとしているからこそ僕の生は最後の輝きを増しているのかもしれなかった。
風で流されてきた雲に隠され見えなくなってしまった月から、僕が踏み切ることになる崖の先に目を移すと、そこには靴があった。
ああ先客がいたのか。
なにしろここは有名な身投げの名所なのだから先客がいたっておかしくない。
風で飛ばないようにだろう、靴の下に遺書がおいてあった。僕はきっと遺書なんて書かないだろう。
だって遺書というのは、生きてきた人が残すものなのだから。僕には残す資格がない。
少し罪悪感はあったが遺書を覗いてみることにした。死ぬ前のほんの気晴らしのつもりだった。
遺書にはこの世界に残す言葉とともに、彼の身分証明書が入っていた。
雲が晴れ月がまた明るく照りだし僕の手元を明るくした。
僕は彼の身分証明書をみて驚いた。

(続く)

「山岡先生」
事務所秘書が僕の執務室をノックし話しかけてくる。
「増永所長がお呼びです。なんでも重要な話だとかで」
それを聞いて返事する。
「ああわかった。すぐいくよ」
所長がお呼びだとは、どうせろくなことではないだろう。難しい案件の処理だとか、面倒な顧客の対応だとか。
しかしそれも弁護士の仕事の一部であるし、僕自身この仕事に誇りを持っていたから、面倒とは思うことはあっても苦しいと思うことは今までなかった。
所長室まで向かいドアをノックする。
「所長、山岡です」
「ああ、入ってください」
所長の穏やかな声が聞こえる。僕はドアを開け部屋に入り、所長の手をソファーに向けて頷く動作を見て腰を下ろした。
「ごめんね。呼び出してしまって」
「いえ大丈夫です。どんな御用でしたか?」
所長は深く座り直して話し始めた。
「君に事務所を移ってもらいたいんですよ」
移ってもらう?移籍しろということか?なぜ僕の仕事ぶりになにかいけないところがあったのか?
そんな疑問を所長にぶつけると、所長はすぐさま首を振り答えた。
「ちがうんだ。私の親友が、事務所を手伝ってくれる有能な弁護士を探していて、それで君を推薦しようとおもったんですよ」
「親友、ですか?」
「ああいや、厳密には私の親友の息子さんなんですけどね」
「はあ、でもどうしてまた弁護士を探しているんですか」
「なんでも、その息子さんも弁護士をなさっていて事務所の規模を拡大したいと。
それで、アソシエイトではなくパートナー待遇で誰か弁護士をということで私に相談があったんですよ」
パートナーとして事務所がもてるのであれば悪い話ではない。裁量も増えるし、収入だって増えるだろう。
僕はこの話に興味を持ち始めた。
「それでその弁護士はどういった方なんですか」
「私の親友は例のブルドッグのときに知り合ったんだが」
「え?ブルドッグ?」
僕の体に戦慄が走った。にわかに鼓動が速まるのを感じた。
「ブルドッグのときの仕事仲間が所長の親友で、その息子さんが弁護士なんですか?」
「ああ、そうだが」
所長は不思議そうな顔をして僕のことを見た。
「その弁護士の名前は―」
脈拍は抑えきれないほど上昇し、息もあがり始める。顔が紅潮するのを自分でも感じる。
「どうしたんですか山岡くん。まるで生き別れた兄弟を見つけたかのような顔をして」
所長は依然として不思議そうな顔をしている。
「いえ、なんでもありません」
「そうか、それならよかった。それですぐには決められないだろうから回答の期日は―」
「やります。移籍します。そこに」
僕は即答した。

(続く)

まさかこんなところでまた会う事になるとは思わなかった。
僕の尊厳を踏みにじった、あの劣悪で醜悪で貪欲で強欲な兄に再び会うことになるとは。
あいつが弁護士をやっているなんて知らなかった。あんな奴が弁護士になれるなんて、日本の司法制度が崩壊している証拠だ。
もちろん向こうも僕が生きているなんて知らない。夢にも思わない。
なぜなら僕はあの日、あの崖で死んだのだから。そして、山岡として生まれ変わったのだから。

月明かりが照らす中見えた僕の先客の身分証明書、そこに載っていた顔は僕にそっくりだった。
年齢こそ一回り違ったが、それをごまかせるほど僕に似ていた。
これは運命だと僕は悟った。
今から山岡に生まれ変われば、僕は新しい僕でいられるのだ。兄の呪縛からも逃れられるのだ。
この考えはとても僕を魅了した。
崖の上に残っていた靴を崖下に投げ込み、遺書もばらばらに引き裂いて、潮風にその行方は任せた。
僕を包む世界のすべてが、僕のことを認めてくれている、そんな気分になった。
それから僕は山岡の身分証明書に書かれている家まで行った。一人暮らしだから問題はなかった。
自殺をしたくせに、玄関の近くに鍵は隠してあったから部屋に入ることはできた。
親や親戚がいないこと、知り合いとよべる人間もいないこと、それらを僕は遺書を読んで知っていたから、
これから僕が本当の山岡ではないとばれる心配はしていなかった。
すぐに僕はアルバイトをはじめがむしゃらに働いた。夜は夜間大学に通い法律を勉強した。
弁護士になろうとおもった。弁護士になって僕みたいな思いをしている人間を救うのだと決意した。
どうせ一度捨てた命だ、他人のために使うことになんの未練も感じなかった。
眠気で気を失うまで毎日勉強をした。
そして数年後、僕山岡は司法試験を突破し司法修習も終え、晴れて弁護士山岡になった。
弁護士になってから充実したひびが続いた。大変ではあるけれど、人のためになれることがとても嬉しかった。
お金のない人の相談には無料で応じた。所長は怒ったがなんだかんだいって許してくれた。
幸せな日々だった。

そんな日々にまたあいつが現れるなんて。これは運命に違いない。
事務所の移籍を快諾したのにはもちろんわけがある。目的がある。
あの人間を殺すこと、それこそ生まれ変わった僕の使命なのだろう。
そんなことをしても、結局、僕は幸せにはなれないかもしれない。
それでも、僕はそれが正しいと感じている。
普通の世界だったら人を殺すのはよくないことかもしれない。でも僕は一度、この世界からはじき出された存在なのだ。
事務所設立の話し合いがこれからある。
夜空には明るく月が光っている。
かばんにナイフをいれたことを確かめ、僕は待ちあわせの場所へと急いだ。

(終わり)

挿絵

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