恒心文庫:帰路に立つ人影
本文
仕事終わり、すっかり暗くなった道を男は歩いていた。
重い靴底がコンクリートの地面を叩き、誰もいない通りを冷たい風が吹き抜けていく。
笛の音の様な風が耳元を撫でていく肌寒さに、思わず首をすくめて息を吐く。硬い靴音は一定の間隔で、男自身の耳を打っている。
その静寂の中、視界の端を電灯の明かりがよぎった。等間隔に並んだ電灯が、絶えず吹く風の音に紛れるように点滅を繰り返している。
通りに点々と浮かぶそのスポットライトに吸い寄せられる様に、しかし少し外れる様にして男は次の明かりへ近づいていく。
そうして幾つかの電灯を通り過ぎ、また次の電灯にぼんやりと目を向けながら、しばらく足を動かしてふとおもう。
次の電灯、その白光に照らされたポールの陰に、影がチラついている。男は歩を進めながら、蛾でも飛んでいるのだろうと考えた。ただ、近づいていく内にその影は考えたよりも大きいように男には思えた。
コウモリでも飛んでいるのだろうか。男は耳をすませると、なるほど、心なしかパタパタと音が聞こえてきた気がする。
男は知らず知らずの内に、しかし半ば意識しながら息をひそめてその明かりへと一歩一歩近づいていく。見ればポールの影から布状のものがはためいている。風に飛ばされたハンカチが柱にでも引っ掛かっているのだろうか。
どこか奇妙な沈黙を感じつつ、男はやがて電灯の側で顔をあげた。
そして、ウッと、自分の喉から不意に漏れた呻き声を聞いて、そのまま動けなくなった。
そこにはスーツ姿の男が立っていた。ジャケットから覗いた胸元、そこからのびたネクタイの先が、風に吹かれてパタパタとはためいているのだ。
その重苦しい沈黙に身動きできない自分を、スーツ姿の男はただ見つめている。
団子のような鼻。薄く弧を描く口元。ふくよかな輪郭。そしてつぶらな瞳。
柔和な笑みを浮かべながら、男は黒々とした視線で私を刺し貫いている。
私はまるでピン留めされたムシにでもなってしまったかの様に、しかしネクタイのはためく無表情な音に心の平静を保つことすら許されず体をブルブルと震わせる。その様子を愉しんでいるのか、男はその丸みを帯びた体を微動だにせず、変わらず柔和な笑みを浮かべている。
「あああああああ~!!!」
その沈黙を、どこかからか上がった叫び声が唐突に引き裂いた。私はスーツ姿の男の視線を振り切るように、突発的に後ろへと飛び退いた。跳ねるようにして尻餅をついた私は、荒い息をあげながら不恰好にも手足で地面を掻きつつ辺りを見渡した。
すると私の遥か後方、白い何かが激しくはためいているのが見えた。それは叫び声をあげながら、通りに沿ってこちらへ向かって走っているようだった。
私はもう訳もわからず、無茶苦茶に手足を振り回すものの、意味はなかった。そうしている内に白い影は叫び声を伴ってすぐ目の前までやってきた。
それは年老いた男だった。アヒル口の端から泡を立てながら金切声をあげ、自身の真っ白な揉み上げに弛んだ五体を絡ませて疾走する老人だった。
私は諦めた様に動きを止め、その老人は枯れた木の様なかすれた香りを振りまきながら、そのまま通り過ぎた。
「そうなんですよ、わははははははははははははははははははタカどの ……タカどのタカどの!!ああ~~~っ」
そして猛烈な勢いでスーツ姿の男へと突進し、電灯の影へともつれ込んだ。
打って変わって、再び訪れた静寂。
風に吹かれた葉が擦れる音をしばらく聞いた後、私はおそるおそる柱の影を覗き込んだ。
誰もいない。
私は安堵のため息を漏らし、思わず満面の笑みを浮かべた。
挿絵
リンク
- 初出 - デリュケー 帰路に立つ人影(魚拓)