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恒心文庫:兄さんの痣

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本文

お兄さんがいそうだね、と何処へ行っても言われた。甘えるのが上手いからだって。実際俺には兄さんがいて、俺は兄さんが大好きだった。
兄さんは優しく、理知的で、俺の知らないことを何もかも知り尽くしていて、それらを全部教えてくれた。転んで泣いてしまったとき、絆創膏を貼ってくれるのはいつも兄だった。

だから俺が東京の大学へ進学して、年上の先輩と付き合い始めたのも、ごく自然な流れと言えるだろう。俺は兄を求めていたから。
別れたのも自然な流れだ。俺は兄を求めていたから。
先輩と初めて寝たとき、太ももの内側にある痣について聞かれた。ああ、これは小さいときからあるんです、初めは小さな痣だったんですけど、段々大きくなってきちゃったんですよ、でも痛んだりはしないんで放って置いてるんです。
俺が言うと先輩はそれ以上何も聞いてこなかった。
あの赤黒く濁った痣のことは、俺と寝た人間しか知らない。
先輩と別れたあと、感情や欲望のやり場に困って色んな奴と寝た。ほとんど全員が年上で、ほとんど全員が俺の痣について聞いた。俺はその度に同じ説明を繰り返した。ああ、これは小さいときからあるんです……
痣は最終的に五百円玉ふたつ分くらいの大きさになった。痣について聞かなかったのは、二十代後半になって付き合い始めたYひとりだけだ。フェラチオをさせているとき目に入ったはずだが、彼は一切痣に触れることなく口淫を続けた。
Yは俺と同い年で、神経質で、あまり器用な方でなく、秘密主義だった。関係が始まってもう数年が経つが、まだ知らないことの方が多い。俺は彼のことをもっと知りたい。いままでで一番、彼のことが好きだ。あいつはああ見えて繊細なたちで、勿論比喩だがよく転ぶ。擦りむいた傷には、誰かが絆創膏を貼ってやらなくちゃならない。

ある日、数年ぶりに先輩から連絡が来た。渋谷の映画館が閉館するから、ラスト上映を二人で見に行こう。そこは初めてデートした場所だった。
映画はつまらなかった。つまんなかったですねと笑いあって、むかしを思い出しながら道玄坂のホテルに行き、シャワーを浴びた。
先輩は俺に言った。痣が消えてる。

挿絵

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