「河野光次」の版間の差分
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近衛篤麿らの「アジア主義」に感銘しアジア各地を日本領とし欧米列強の干渉を防ごうと決意したことから上京(緑井村の河野家三兄弟のうち最初に上京した人物と思われる)し、早稲田大学に入学しつつ尾崎行雄の書生となる。<br> | |||
その後、アジア主義の理想を実現するためからか朝鮮に渡り事業を始めるも失敗。唐澤貴洋の曾祖父にあたる光次の弟・一三が京城(現ソウル)平田百貨店に就職したのも兄・光次に呼び寄せられた為であると思われ、一三は当時の朝鮮で実業家として活動していた[[村井啓助]]の妹・房を嫁ぎ、[[河野一英|一英]]が誕生した。<br> | |||
朝鮮での事業が失敗に終わった後は日本に戻り、尾崎の秘書であった畑弥右衛門らと共に田園都市株式会社(東急不動産の前身)および子会社東急電鉄と関わるようになったと見られる(光次と同じく朝鮮で事業をしつつ東急田園都市線沿線において郊外住宅地の分譲開発事業を行っていた田園都市株式会社起業のきっかけを作った畑弥右衛門もまた尾崎行雄の秘書で光次と繋がりが深かった模様であり、一三はこの兄・光次の支援で朝鮮に渡りまた後に東急に関わったのではないかと思われる)。 | |||
また、[[血となり肉となっている。|唐澤貴洋がの好きな作家の一人として挙げている]]ノンフィクション作家、猪瀬直樹はこの経緯を『土地の神話』という本の題材としており、自身の一族の事を書いているからということで読んだのではないかとする考察がなされている<ref>[http://karasawalit.tumblr.com/post/54348047261 なぜ猪瀬直樹なのか?] - 唐澤貴洋文学館</ref>。 | また、[[血となり肉となっている。|唐澤貴洋がの好きな作家の一人として挙げている]]ノンフィクション作家、猪瀬直樹はこの経緯を『土地の神話』という本の題材としており、自身の一族の事を書いているからということで読んだのではないかとする考察がなされている<ref>[http://karasawalit.tumblr.com/post/54348047261 なぜ猪瀬直樹なのか?] - 唐澤貴洋文学館</ref>。 | ||
==ギャラリー== | |||
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ファイル:Tama.jpg|尾崎行雄の妹にあたる妻・河野多満 | |||
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ファイル:FfEHtSM.jpg|『神道我観』 | |||
ファイル:1u9kzzc.jpg|近衛篤麿宛の書簡1 | |||
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== 著書 == | == 著書 == | ||
*『北米行脚便り』自費出版 1920年 | *『北米行脚便り』自費出版 1920年 | ||
*『春秋四十年』自費出版 | *『春秋四十年』自費出版 - 猪瀬直樹著『土地の神話』の参照著作 | ||
== 関連項目 == | == 関連項目 == |
2017年9月10日 (日) 16:40時点における版
河野光次 | |
基本資料 | |
本名 | 河野光次 |
---|---|
住所 | 東京府荏原郡馬込村1341(wp) |
出生地 | 広島県沼田郡緑井村(wp) |
墓所 | 不明(専蔵坊?) |
身体情報 | 故人 |
才能 | 有能 |
特定経緯 | 『週刊新潮掲示板』、人事興信録により発覚 |
騒動との関連 | 尊師の曾祖伯父 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
関係者 | |
河野 光次(こうの みつじ、Kono Mitsuji、1882年-1973年頃)とは、唐澤貴洋の曽祖伯父で河野一英の伯父である。「憲政の神様」、東京市長として知られる尾崎行雄の秘書であり、義理の娘婿である。
経歴
- 1882年 - 広島県沼田郡緑井村にて河野唯助の次男として生まれる[1]。
- 1902年頃 - 早稲田大学入学。尾崎行雄の秘書になる。
- 1903年8月 - 畑弥右衛門と共に朝鮮へ渡航。土地開発に携わる。
- 1909年 - 日本へ帰国。
- 1910年 - 尾崎の養女多満と結婚。
- 1918年頃 - 田園都市株式会社に関与。
- 1919年9月 - アメリカへ渡航。ニューヨーク、ワシントンなどを視察する。
- 1926年3月 - 友人葛原猪平の葛原冷蔵が倒産し、東洋冷蔵と改称した際に臨時株主総会の詮衡委員として名前を連ねる[2]。
考察、唐澤貴洋への影響
広島県安佐郡緑井村に河野唯助の次男?(兄・唯一?、弟・一三?)として生まれる。
近衛篤麿らの「アジア主義」に感銘しアジア各地を日本領とし欧米列強の干渉を防ごうと決意したことから上京(緑井村の河野家三兄弟のうち最初に上京した人物と思われる)し、早稲田大学に入学しつつ尾崎行雄の書生となる。
その後、アジア主義の理想を実現するためからか朝鮮に渡り事業を始めるも失敗。唐澤貴洋の曾祖父にあたる光次の弟・一三が京城(現ソウル)平田百貨店に就職したのも兄・光次に呼び寄せられた為であると思われ、一三は当時の朝鮮で実業家として活動していた村井啓助の妹・房を嫁ぎ、一英が誕生した。
朝鮮での事業が失敗に終わった後は日本に戻り、尾崎の秘書であった畑弥右衛門らと共に田園都市株式会社(東急不動産の前身)および子会社東急電鉄と関わるようになったと見られる(光次と同じく朝鮮で事業をしつつ東急田園都市線沿線において郊外住宅地の分譲開発事業を行っていた田園都市株式会社起業のきっかけを作った畑弥右衛門もまた尾崎行雄の秘書で光次と繋がりが深かった模様であり、一三はこの兄・光次の支援で朝鮮に渡りまた後に東急に関わったのではないかと思われる)。
また、唐澤貴洋がの好きな作家の一人として挙げているノンフィクション作家、猪瀬直樹はこの経緯を『土地の神話』という本の題材としており、自身の一族の事を書いているからということで読んだのではないかとする考察がなされている[3]。
ギャラリー
著書
- 『北米行脚便り』自費出版 1920年
- 『春秋四十年』自費出版 - 猪瀬直樹著『土地の神話』の参照著作
関連項目
外部リンク
註釈