編集の要約なし
>唐澤貴洋が人間革命燃やしつつ創価学会インターナショナル馬鹿にした 編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
13行目: | 13行目: | ||
|HP=[https://tokyugroup.jp 東急グループ] | |HP=[https://tokyugroup.jp 東急グループ] | ||
|関係者=<div> | |関係者=<div> | ||
* 渋沢栄一 - 創立者 | * {{wpl|渋沢栄一}} - 創立者 | ||
* 畑弥右衛門 - 尾崎行雄書生、渋沢栄一に荏原郡(現・世田谷区、大田区)開発を提案したことで田園都市株式会社設立のきっかけをつくる | * {{wpl|畑弥右衛門}} - 尾崎行雄書生、渋沢栄一に荏原郡(現・世田谷区、大田区)開発を提案したことで田園都市株式会社設立のきっかけをつくる | ||
* [[河野光次]] - 畑弥右衛門の同僚 | * [[河野光次]] - 畑弥右衛門の同僚 | ||
* [[河野一三]] - 五島慶太と親しかったらしい | * [[河野一三]] - 五島慶太と親しかったらしい | ||
* 五島慶太 - 会長、中興の祖 | * {{wpl|五島慶太}} - 会長、中興の祖 | ||
* [[河野典男]] - 東急建設取締役社長、世紀東急工業会長 | * [[河野典男]] - 東急建設取締役社長、世紀東急工業会長 | ||
</div>}} | </div>}} | ||
39行目: | 39行目: | ||
*未詳 - この頃、兄・光次に呼び寄せられる形で光次の弟・[[河野一三]]が朝鮮京城へ渡航(1915~1920年頃まで京城にいたことが確認されている)、平田百貨店京城店へ就職。このとき一三は当時朝鮮龍山水産取締役であった[[村井啓助]]の妹・房を娶り、長男・[[河野一英|一英]]が誕生した。村井啓助の属していた三協商会店主、萩原六三郎は荏原郡の大地主であったとされる。 | *未詳 - この頃、兄・光次に呼び寄せられる形で光次の弟・[[河野一三]]が朝鮮京城へ渡航(1915~1920年頃まで京城にいたことが確認されている)、平田百貨店京城店へ就職。このとき一三は当時朝鮮龍山水産取締役であった[[村井啓助]]の妹・房を娶り、長男・[[河野一英|一英]]が誕生した。村井啓助の属していた三協商会店主、萩原六三郎は荏原郡の大地主であったとされる。 | ||
*1909年 - 河野光次、朝鮮での事業に失敗し日本へ帰国。東京府荏原郡馬込村1341(現・大田区馬込)に移住。 | *1909年 - 河野光次、朝鮮での事業に失敗し日本へ帰国。東京府荏原郡馬込村1341(現・大田区馬込)に移住。 | ||
*1915年2月 - | *1915年2月 - 畑弥右衛門が{{wpl|小林一三}}(阪急東宝グループ創業者)の都市郊外田園都市構想実現に感化・影響されたことから、尾崎行雄の紹介で渋沢栄一を訪問して郊外鉄道の計画及び同鉄道路線沿線郊外住宅地の分譲開発事業による荏原郡(現・世田谷区、大田区)開発を提案、渋沢は中野武営に相談し欧米の都市を念頭に置いて田園郊外住宅地開発とそれにともなう鉄道など諸般設備の整備を構想する | ||
*1916年11月 - | *1916年11月 - {{wpl|渋沢栄一}}によって「{{wpl|田園都市株式会社}}」創立 | ||
*1919年8月25日~ - | *1919年8月25日~ - 渋沢の四男・{{wpl|渋沢秀雄}}が田園都市視察のため欧米11カ国訪問 | ||
*1918年頃~ - [[河野光次]]、田園都市株式会社に関与<ref>「[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1124913 東京横浜電鉄沿革史]」(1943年)</ref>。 | *1918年頃~ - [[河野光次]]、田園都市株式会社に関与<ref>「[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1124913 東京横浜電鉄沿革史]」(1943年)</ref>。 | ||
*1920年 - [[河野一三]]、当時生後1ヶ月の[[河野一英]]を連れて朝鮮京城(現・ソウル特別市)から東京府下荏原郡東調布町字下沼部(現・田園調布)に帰国・移住<ref>[http://krsw.shoutwiki.com/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E4%B8%80%E8%8B%B1.jpg 一英紳士録]</ref>。 | *1920年 - [[河野一三]]、当時生後1ヶ月の[[河野一英]]を連れて朝鮮京城(現・ソウル特別市)から東京府下荏原郡東調布町字下沼部(現・田園調布)に帰国・移住<ref>[http://krsw.shoutwiki.com/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E4%B8%80%E8%8B%B1.jpg 一英紳士録]</ref>。 | ||
*1922-1923年 - | *1922-1923年 - 田園都市株式会社の子会社として目黒蒲田電鉄が設立し{{wpl|五島慶太}}が専務取締役に就任。翌年、[http://www5b.biglobe.ne.jp/~t-rail/meguro-line/history1.htm 目黒~蒲田間に目蒲線(現・東急目黒線~多摩川線)]を開通させたのに合わせて、荏原郡玉川調布(現・田園調布)の田園都市・大規模分譲開発が開始。 | ||
*1929年 - 河野一三や当時の横浜・川崎市長らによって「[[河野一三#「桜の多摩川」|大多摩川愛櫻会]]」発足。一三は同会の幹事として多摩川河川敷に桜の木を植樹する運動を主導した<ref>[http://kosenrufu.ldblog.jp/archives/1565479.html 桜樹燦爛]</ref><ref>[http://touyoko-ensen.com/mini%E2%80%90info/cook/ht-txt/059tamaagwa.html 昔の多摩川]</ref>(五男に「櫻樹」と命名したことや墓碑に桜の紋章を入れたことから桜に思い入れがあったと思われる)。 | *1929年 - 河野一三や当時の横浜・川崎市長らによって「[[河野一三#「桜の多摩川」|大多摩川愛櫻会]]」発足。一三は同会の幹事として多摩川河川敷に桜の木を植樹する運動を主導した<ref>[http://kosenrufu.ldblog.jp/archives/1565479.html 桜樹燦爛]</ref><ref>[http://touyoko-ensen.com/mini%E2%80%90info/cook/ht-txt/059tamaagwa.html 昔の多摩川]</ref>(五男に「櫻樹」と命名したことや墓碑に桜の紋章を入れたことから桜に思い入れがあったと思われる)。 | ||
*1930年 - 河野一三の大多摩川愛櫻会が旧中原街道切通し坂「沼部の大坂」の両側に桜の木を植樹し「{{wpl|桜坂 (大田区)|桜坂(さくら坂)}}」と命名・創設<ref>この「さくら坂」は2000年、{{wpl|福山雅治}}の楽曲「{{wpl|桜坂 (曲)|桜坂}}」が200万枚以上を売り上げる大ヒットとなったことで一躍有名となり、また2008年放送のアニメ『{{wpl|CLANNAD}}』にも登場し同作品の聖地巡礼場所となった</ref> | *1930年 - 河野一三の大多摩川愛櫻会が旧中原街道切通し坂「沼部の大坂」の両側に桜の木を植樹し「{{wpl|桜坂 (大田区)|桜坂(さくら坂)}}」と命名・創設<ref>この「さくら坂」は2000年、{{wpl|福山雅治}}の楽曲「{{wpl|桜坂 (曲)|桜坂}}」が200万枚以上を売り上げる大ヒットとなったことで一躍有名となり、また2008年放送のアニメ『{{wpl|CLANNAD}}』にも登場し同作品の聖地巡礼場所となった</ref> | ||
*1933年 - 河野一三、東京実業学校の蒲田移転に関与。、同学出身の[[河野典男]]によると設立者にして校長を務めた上野清は河野一三の弟分であったらしい。 | *1933年 - 河野一三、東京実業学校の蒲田移転に関与。、同学出身の[[河野典男]]によると設立者にして校長を務めた上野清は河野一三の弟分であったらしい。 | ||
*1933年 - | *1933年 - 五島慶太の目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道(現・{{wpl|東急池上線}})を買収・合併 | ||
*1935年 - 河野一三が建設を計画し、鉄道会社<ref> | *1935年 - 河野一三が建設を計画し、鉄道会社<ref>典男によると「{{wpl|東急電鉄}}」とあるが目黒蒲田電鉄か東京横浜電鉄のいずれかは不明</ref>に土地を寄付させて東京側から着工した{{wpl|丸子橋}}(東急東横線多摩川橋梁に隣接する橋)が完成する。 | ||
*1938年 - 五島慶太の目黒蒲田電鉄が玉川電気鉄道(東急新玉川線を経て現・東急田園都市線 渋谷~溝の口間)を買収・合併 | *1938年 - 五島慶太の目黒蒲田電鉄が玉川電気鉄道(東急新玉川線を経て現・東急田園都市線 渋谷~溝の口間)を買収・合併 | ||
*1938年 - [[河野一英]]、東京府立第一商業学校(現・{{wpl|東京都立第一商業高等学校}}、渋谷区鉢山町)を卒業 | *1938年 - [[河野一英]]、東京府立第一商業学校(現・{{wpl|東京都立第一商業高等学校}}、渋谷区鉢山町)を卒業 | ||
*1939年10月 - | *1939年10月 - 五島慶太の目黒蒲田電鉄が旧東京横浜電鉄(現・{{wpl|東急東横線}})を合併し、目黒蒲田電鉄が名称を逆に「東京横浜電鉄」と改称、現在の東急電鉄の原型が完成する | ||
*1939-1948年 - | *1939-1948年 - 私鉄統合政策(陸上交通事業調整法)による戦時中の「大東急」時代を経たのち財閥解体により五島の「東京横浜電鉄」が「東京急行電鉄({{wpl|東急電鉄}})」となる | ||
*1953年 - [[河野典男]]、父・河野一三が五島慶太と親しかった縁で東急電鉄に入社 | *1953年 - [[河野典男]]、父・河野一三が五島慶太と親しかった縁で東急電鉄に入社 | ||
*1966-1977年 - | *1966-1977年 - 五島自らが渋沢栄一の田園都市構想を継承して提唱した「多摩田園都市構想」に基づき、路面電車であった東急玉川線を高架・地下通勤電車線路に改軌し「東急新玉川線」として開通させた上で溝の口から中央林間に向けて延伸し「{{wpl|東急田園都市線}}」を建設 | ||
*1967年 - {{wpl|東急建設}}が道路部門を分社し、東急道路(後に「{{wpl|世紀東急工業}}」と改称)を設立 | *1967年 - {{wpl|東急建設}}が道路部門を分社し、東急道路(後に「{{wpl|世紀東急工業}}」と改称)を設立 | ||
*1968年11月23日 - 河野一三、死去(享年82)。この後、[[東光院]]に「大多摩川愛櫻会さくら坂創設者 河野一三家」墓が建立されたと見られる。 | *1968年11月23日 - 河野一三、死去(享年82)。この後、[[東光院]]に「大多摩川愛櫻会さくら坂創設者 河野一三家」墓が建立されたと見られる。 |