「河野一三」の版間の差分
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<strong>河野一三</strong> | <strong>河野一三</strong>(こうのかずみ、こうのかずぞう、Kono Kazumi/Kazuzo、189?年-?)は、[[唐澤貴洋]]の曽祖父で[[河野一英]]の父である。地元活動の有力者。 | ||
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2016年3月10日 (木) 00:34時点における版
河野一三 | |
基本資料 | |
本名 | 河野一三 |
---|---|
住所 | 田園調布 |
出生地 | 広島県?(wp) |
特定経緯 | 河野一英の紳士録により発覚。 |
騒動との関連 | 唐澤貴洋 の曾祖父 |
所属 | 創価学会、田園調布風致協会、大多摩川愛櫻会常任幹事 |
関係者 | |
河野一三(こうのかずみ、こうのかずぞう、Kono Kazumi/Kazuzo、189?年-?)は、唐澤貴洋の曽祖父で河野一英の父である。地元活動の有力者。
経歴
- 189?年 - 広島県にて誕生?
- 1915年 - 遅くともこの年までには朝鮮に渡る。朝鮮では朝鮮京城(ソウル)五大百貨店のひとつであった平田百貨店(現・大然閣センター)の前身である平田屋の関係者であると言われる。
- 1918年 - 田園都市株式会社が設立される。
- 1920年 - 生後1ヶ月の河野一英を連れて帰国(の可能性あり)し、田園調布に移住[1]
- 1923年 - 東急電鉄が東急多摩川線「目黒~(現在の)沼部」間を開通させたのに合わせて、田園都市株式会社(後の東急不動産・東急建設等の東急グループ系列)による田園調布の大規模開発分譲開始。このことから東急グループ会長・創業者である五島慶太と親しくなり、その縁で一三の四男・典男は東急電鉄へ入社し、同グループ系列企業である東急建設・世紀東急工業の重役・社長を歴任した。
- 1933年 - 東京実業学校の移転に関与
- 1935年 - 彼が建設を計画した丸子橋が完成する。
- 晩年 - 長女・喜久の勧めにより創価学会に入信。田園調布における有力者として田園調布風致協会常務理事・方面委員を務め、大多摩川愛櫻会常任幹事として多摩川河川敷に桜の木を植樹する運動を主導した[2][3]。(五男に「櫻樹」と命名したことからも桜に思い入れがあったと思われる。)
「桜の多摩川」
大多摩川愛櫻会は、人々が設立したと言うよりも、時が生んだものと見るほうが適当かも知れない。 その議の初めて起ったのは、昭和四年の春である。当時内務省が大正七年以来着々進捗せしめつつあった多摩川下流治水工事は、将に竣成せんとし、河口より遡ること五厘あまりに及ぶ両岸の大堤防地域六百万坪は、徒らに雑草の繁るがままに放任してあったので、毎日これを眺める両岸の市町村民のみならず、国家的見地よりその利用方法について心を碎く人々が多かった。 天に声無くし人をして言わしむ。遂にその第一声は河野一三氏によって発せられた。 滅私奉公を地で行く河野氏――田園調布の高台の自邸の庭先から毎朝多摩川を俯瞰して考え込んでいたが、昭和四年二月の肌寒いひと朝。ブラリと当時町長の天明啓三郎氏を訪ねて 町長さん、あの大堤防を利用することにしようじゃありませんか。と例の熱のこもった一言に、町長が ただ放って置くのは全く勿体ない、皆が屋根替に困ってるから、茅でも植えさせて貰おうかと考えてるところなんだが…というと 茅の恩恵を受ける人は少数だ。長堤に植えるのは櫻ですな。百年後の櫻の名所をつくるんです。春は花、夏は鬱蒼たる緑樹帯です。京浜幾百万の健康道場になるじゃありませんか。 と河野氏一流の大乗論を始めたので、町長も「よいところに気がついてくれた」と早速大賛成。 議は次第に熟して、同三月七日には多摩川畔丸子園に雑談会が開かれた。発起人は河野氏、天明氏の他に当時の中原町長安藤安氏等、集まるもの東京府の砧村、玉川村、東調布町、矢口町、六郷町、羽田町並に神奈川県下の川崎市、中原町、高津町等、両岸の一市八ヶ町村の代表者で、協議の結果、両岸の長堤に櫻樹移植の請願運動を起こすことに一決し、 超えて十日、川崎市長春藤嘉平氏連盟市町村長一行は、内務省に望月圭介大臣を訪問して第一回の陳情をなし、河川関係当局にも諒解を求めたのであったが、春藤市長はかつて山形県知事に転任に先立ち、山梨県内務部長として甲府城跡に櫻樹移植を唱道して、今日の櫻の名所を作り上げた経歴を有するだけあって、櫻花と武士道を説き、櫻の多摩川と京浜幾百万の(中略) 身に寸暇さえあらせぬ有吉会長、愛櫻会のことと何を措いても河野幹事を引見される、病床の枕邊にさえ呼ばれて厭われない。「河野君の熱心に動かされるのだ」と会長は仰っしゃる。 何れの熱誠が何れを動かすかは兎も角して、霜山顧問の溌刺たる計画の才、と共に三者は本会の至賓と言うべきであろう。(中略) 有吉会長の徳、霜山顧問の智、そして河野幹事の熱、この智、徳、熱の三社が愛櫻会を永続せしめ発展せしめる要素であろう。ある人は河野氏をして、佐倉宗吾と指称した。まことに氏は櫻宗吾とも言うべく、多摩川開発を生命として寝食を忘れてた闘う義人である! 多摩川へ櫻植初めの東郷元帥引出し、濱口首相の祝辞請賜、独伊防共盟邦への櫻の寄贈、伊国訪日親善使節の多摩川招致等々、多くは霜山氏の智に出て、河野氏の熱と押しで賓行んい現れたと言うものが多いであろう。 而して三氏に共通するものは正義観念の強烈なことである。義のために劣化の中に躍り入る意気があると共に、その反面不義を嫌うこと蛇蝎の如く、正と不正に処する限界が明らかに区別される。(中略) 我が愛櫻会長有吉忠一氏並に幹事河野一三氏は、三月二十三日夜、訪日使節団長から公式晩餐会に招待されて出席した。(有吉会長のご招待は横浜商工会議所会頭の資格が主であったかも知れない) 当夜は、梨本宮殿下も御台臨あらせられ、近衛首相他各大臣、枢密院議長、その他と共に席に列するを得たのは櫻外交があった故に我が会に敬意を表されたものと思うが、すこぶる光栄の至りであった。
一三の四男、典男による建設人より 父が、当時の横浜市長と多摩川の両岸10里に桜を植えさせたり、丸子橋の架橋を計画し、 東急電鉄に土地を寄付させて東京側から着工するなどの地元活動をした土地の有力者だったので、小学校を終えると、 その父の弟分が校長をしていた東京実業学校に進む。本科を卒業するに当たって、 父が当時の東急会長五島慶太氏(故人)と親しかったので東急電鉄を受けて合格、28年7月入社した。
広宣流布は俺がやる!桜樹燦爛より 私のふるさと太田の多摩川のほとりにも、有名な桜並木がある。 流れに沿い、堤に沿って、にぎやかに万朶(ばんだ)の春を展(ひろ)げる、平和の園となっている。そこにも、ひとつのドラマがあった。 その昔、多摩川は決壊を繰り返す「暴れ川」であった。 大正七年から、政府は多摩川の下流の治水工事を推進した。 昭和四年春、十余年におよぶ工事が竣工しつつあったが、河口から二〇キロにおよぶ地域は、雑草が茂るままであった。 今の太田文化会館のあたりの両岸がそうである。 さて、この土地をどうするか――町長は「屋根替」のために「茅」でも植えようかという。 すると、ある人いわく「茅の恩恵を受ける人は少数だ。長堤に植えるのは桜です。百年後の桜の名所をつくるんです」。 春は花、夏は緑。「京浜地域の幾百万の健康道場」にすべきだというのである。 彼、河野一三(かずそう)氏の無私の情熱が、多くの人を動かして、障害を乗り越え、雑草の堤は、桜の公園に生まれ変わった。 そして戦火にも負けず、生き抜いて、今、二十一世紀を迎えんとしている。「百年後の桜の名所を」との尊き思いの通りに。 河野さんは、学会の文芸部員として活躍された娘さんの勧めで、晩年に学会員となられた。
恒心スポーツより 「桜の多摩川」より、河野十三氏の記述抜粋 簡約:多摩川治水工事は成功と相成ったが、その周辺地域の運用法が見つからず、 多くの住民の頭を悩ますところであった。そこで河野十三氏は、両岸の更地に桜を植えることを提案し、 そのことが愛櫻會(あいおうかい)発足のきっかけとなった。(簡約ここまで)
関連項目
外部リンク
註釈