「恒心文庫:暴力に強い弁護士」の版間の差分
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2019年11月29日 (金) 21:43時点における版
本文
「逆に天晴れっすね」
深夜になっても仕事をしている山岡に声をかけると、書類に目を落としていた彼は顔を上げ、やや首を傾げた。眉を少し下げ、「なんの話かな」と苦笑している。
「人当たりの良さとか?」
「ああ。生まれつきなんだ。そういう性格なんだよ」
「いや。あれ演技でしょ」
俺が答えると山岡の目が一瞬据わった。ビンゴだ。
しかしすぐにいつもの人当たりの良さそうな表情に戻って首の後ろに手をやった。誤解だよ、なんできみがそんなことを思うのか分からない、などとほざきながら。
あのデブは無能だから何も気付かず「彼は優しいナリ」「いまの当職があるのは山岡くんのおかげナリよ」とか馬鹿なことを抜かし右腕として扱っているが、あいつは俺と殆ど同じ生き物だ。
ずる賢くて金に汚くて、生まれた時から優しさなんて持ち合わせていない。俺と同じ生粋のサイコ野郎だ。ただ俺より優れている点があるとすれば演技力だろう。
真面目で、優しく、思いやりがある、善良な人格を演じることができる。素晴らしい処世術だ。
しかし同類は見抜く。こういう奴は大抵、笑顔の合間、一瞬目が冷たくなる。
「俺許せないっすよ、そういうの」
「きみが何を言っているのか、僕には全然分からない」
「デブにヘラヘラ媚び売って気に入られてんじゃねえって話ですよ」
俺と同じ生き物のくせに。思い切り山岡の顔を殴った。すると彼はどさりと床に倒れ込んだ。椅子も倒れて硬い音を立てる。なんだこいつ? 見た目より弱いのか。あまりにもあっけない。
馬乗りになってもう一発。ドカッ、と気持ちのいい音がした。俺は人を殴るときの鈍い音が大好きだ。山岡は切れ切れに「やめ、て、くれ」と苦しげな言葉を発する。
「認めるまでやめませんよ」
今度は腹に一発。彼は「ぐあっ」と声を漏らした。腹パンはダメージでかいだろうなあ。顔を歪ませ呻いている彼を上から見下ろしていると、なんだか滅茶苦茶に興奮してきた。
「あー、なんか立ってきたんですけど」
「……は?」
「俺、あんま男に興味ないんだけどなあ。しゃぶるかなんかしてもらっていいっすか。苦しいんで」
ふざけんなよ、とでも言いたげな顔をもう一発殴る。ああもうだめだ。股間が痛い。
こいつはあくまで抵抗する気らしく、向こうからは何もしてくれそうにないので俺は自分でベルトを外してペニスを山岡の口元に持っていってやった。
「抜いてくれたら何もしないであげますから」
「何をだ」
「あんたの人生めちゃくちゃにすることかな」
優男風の表情はもうなく、ゴミを見る目で俺を睨みつけている。たまらないな。
「ネットって怖いですよね。奴らが今あのデブに向けてる行動力が全部あんたに向いたらどうします? あのデブが何もしないから暇を持て余して、関係ない他人の人生終わらせるような奴らですよ」
「……」
「あんたが今までしてきたことをネットにリークしたらどうなるんでしょうねぇ。失うのはあのデブの信用だけじゃなさそうっすけど」
俺の言葉で、山岡は観念したようだった。ぎゅっと目を閉じ、俺のペニスを咥えた。ざらざらとした舌が裏筋を舐め上げ、舌先に鈴口を刺激される。山岡の口内は唾液が溢れてじゅぽじゅぽと音までさせ始めた。
「うわ。えっろい舐め方っすね。絶対初めてじゃないっしょ」
「……」
「あー、そういうやり方でのし上がってきたわけっすか。なるほどね」
俺が言うと山岡は相当屈辱的だったのだろう、顔を赤くして口の動きを止めた。
「初めてじゃないなら後ろはどうなんすかねぇ」
口からペニスを抜き取り、山岡の肩を掴んでうつ伏せにしようとした。
「やめろ!」
彼は大声を出し、あろうことか俺に拳を振り上げたので、それを避けてまた腹にお見舞いしてやる。山岡の動きが止まった。全く往生際が悪い。腹に腕をやり、はあはあと息を荒くしている彼を四つん這いにさせた。スラックスを下ろして尻たぶを指で割り開いた。この後に及んで「やめてくれ」とか呻いている彼の声に俺は余計に燃えた。亀頭をアナルにぐりぐり押し付ける。こいつの唾液でべとべとだし、まあ大丈夫だろう、と俺は一気に挿入した。彼は痛がり絶叫するだろう……しかし、俺の予想は外れた。彼は荒い呼吸を繰り返すのみ。中は締まって気持ちいいが、彼が痛がらないのはつまらない。尻を叩く。ぱん!と良い音がした。山岡は「あっ」と声を漏らした。……マジかよ。
連続で尻を叩く。ぱん!ぱん!と小気味いい音が事務所に響く度に山岡の身体からは力が抜け、びくびく震えた。腕を回して奴の股間に触れてみる。ぎんぎんに勃起していて、我慢汁まで溢れている。思わず笑ってしまった。
「おい、開発済みかよ」
腰を一度引いて、後ろから思い切り突く。
「誰に女にされたのか教えてくださいよ」
山岡は答えず、ふぅふぅ呼吸するのみだったが、よがっているのは確かだった。
ピストンを続けながら時折尻を叩いてやった。その方が嬉しいようだから。やがて俺に限界が近付き、ペニスを抜き取って山岡の尻にかけてやった。
床が濡れている。いつだか知らないが奴も射精していたようだった。力の抜けた身体をどさっと放り、ティッシュでペニスを軽く拭いて服を着た。
「感謝してくださいよ。ちゃんと外に出しましたから」
山岡の虚ろな目が俺を見上げる。
「女の子は妊娠したら大変っすから」
数時間、あるいは数分かもしれない。僕は床に横たわったままぼうっと壁を見つめていた。
シャワーを浴びなければならないことは分かっているのに、どうしても身体が動かない。先程まで僕の体内に入っていた、あの男のモノの感覚がまだ残っていて吐き気がする。尻にかけられた精液はとっくに乾いていて一層不愉快だ。
あの男は一体、僕の何が気に入らなかったというのだろう。同類のくせに、と彼は繰り返していた。僕だって、自分が偽善者だという自覚はある。
依頼人に同情するふりをして心の中は常に冷めている。他人の不幸にほっとする。悲惨な境遇をヒアリングしながら夕飯のことを考える。しかし、それは僕に限った話だろうか。誰しも自分が一番かわいいのだ。
それに僕は、先輩に対して意図的に媚を売ったことなど一度もない。たったの一度だって。
デスクの上のスマートフォンが震えた。それを手繰り寄せ、画面を見る。からさんだ。数秒躊躇ったが、通話ボタンを押す。
「はい。僕です」
「起こしてしまったナリか? 今夜は電話がないから心配していたナリよ」
「すみません。まだ仕事をしていたので」
「まだ事務所にいるナリ? 遅くまで申し訳ないナリね」
「……からさんが謝ることではないですよ。僕の作業が遅いだけですから。今日泊まってもいいですか? もう終電、無いので」
「構わないナリが、山岡くん、どうかしたナリ? 声に元気がないナリよ」
突然同僚にボコられてレイプされました、なんて言えるわけがない。気のせいですよ、と僕は答えた。
「山岡くん」
「はい」
「冷凍庫の奥の方に、当職が隠しておいたアイスがあるナリ。本当は当職が食べたいナリが、きみにあげるナリ」
「……はい。頂きます」
「バニラ味ナリよ」
「からさん」
「はいナリ」
「好きです」
僕はそこで通話を切った。スマートフォンの電源を落とす。
よろよろと起き上がり、念入りにシャワーを浴びた。鏡を見ると左の頬がやや腫れている。身体にもいくつか痣が出来ていた。階段から落ちたと言えばいいか。ベタな言い訳だが。
今日着ていたスーツはゴミ袋に入れて捨てた。
からさんは僕をどう思うだろう。他の男と寝て快楽を得たことについて。からさんと出会ってからずっと彼だけを抱いてきたのに、僕はとんでもない罪を犯してしまった。
いや……何も考えたくない。ただ眠りたい。
ベッドに横たわり、数時間眠った。身の回りの人間が全て知らない顔になっている、気味の悪い夢を見た。
吐き気のするような朝だ。腫れの広がってきた顔に湿布を貼る。
せめて事務所だけは綺麗に保とうと隅々まで掃除をした。床も窓もぴかぴかに磨き上げる。クリーナーでデスクをごしごし擦っていると気分が少し落ち着いた。
わずかに腹が減った。そういえば、昨日アイスがあるとからさんが言っていた。冷凍庫を探ると、氷の裏の裏の方に、本当にアイスが隠してあって思わず微笑む。いつもの棒アイスでない、高級なものだ。それを口に運ぶ。甘くて美味しい。今日会ったらお礼を言わなくては。
半分ほど食べ、ふう、と深呼吸をした。窓の外からきれいな朝焼けが差し込んでくる。何もかもまぼろしに思えた。
昨夜のことなど悪い夢だ。山本くんは僕に何もしていない。僕はなにもされていない。彼はけして暴力的な人間ではなく、僕は本当に優しい心根を持っている。そうであってくれたらいいのに。
ドアホンの音で一気に緊張が走った。あいつだ。
おはようございまーっす! と楽しげな声と共にドアが開いた。今世界で一番会いたくない相手。
彼は僕を見るなり「よう、ビッチ」と呟き、顔の半分だけで笑った。
つかつかと僕に近寄ってきたので思わず立ち上がり、男と距離を取った。
しかし無遠慮に距離を詰めてくるこの男は「わあ、男前が台無しっすねえ」と顔の湿布をじろじろ見ている。
「ねえ、昨日の続きしません?」
「……馬鹿なこと言わないでくれ」
「今度は優しくしますって。ゴムとかローションとか今日はちゃんと持ってきたんでー」
「そういう問題じゃ……」
「まさか、俺の言ったこと忘れたわけじゃないっすよね」
耳元で囁かれゾッとする。奥歯を噛み締めた。
「……後にしてくれないか。先輩も出勤してくる」
「ふぅん」
残念そうに肩を竦めた彼と離れたくて背を向けたのが間違いだった。腕を取られ、気付くと床に落とされていた。歯を見せて笑う彼に、さらに鳩尾を突かれ息が出来なくなる。流れるような動きだった。
「システマって知ってます? ロシアの格闘技」
腕を掴まれ床を引き摺られる。彼は寝室のドアを開け、僕をベッドに放り投げた。ガチャ、と鍵をかけられたのが分かった。
「あれすごいんすよ。一発で相手を落とせる上に、こっちは何か食らっても全然痛いと思わないんすわ」
彼は昨日と同じく勝手に僕に跨り、服を乱し始める。大きく脚を開かされたかと思うと、持ってきたらしいローションをアナルに塗りこまれた。ひやっとするローションがじんわり熱くなってくる感覚を、僕は知っている。
「つまり、山岡さんが必死で抵抗しても無駄なんで、せっかくだし楽しみましょうよってことです」
指を挿入される。僕は歯を食いしばって耐えた。どこかなー、なんて独り言を言いながら指を動かす彼の表情は、宝探しでもしている子どもそのもので恐ろしくなった。やがて探し当てられ、身体が勝手に震えた。
男はニッと笑う。彼の左手が僕の陰茎を掴み扱き始めた。
「昨日は俺が一方的だったんでー、今日は山岡さんを気持ちよくしてあげますねー」
死ね。
迫り来る快楽に必要以上の反応を見せないよう努めた。彼は僕を面白がっているに違いないのだから。
「ちょっと、静かすぎて盛り上がんないじゃないっすか。気持ちいいんでしょ? 女の子みたいに喘いでみてくださいよ」
「断る」
「あっそ」
やにわに彼は、左手の指を僕の口に突っ込んできた。親指で唇を触り、舌を弄り回された。唾液が溢れる。
やっぱやめた、と言い、アナルに入っていた指が引き抜かれる。飽きたのかもしれないと安堵したのは束の間で、彼は勃起したそれを僕の中に挿入した。ローションのおかげで痛みは少ない。それどころかしっかり解されたせいで昨日の数倍の快楽が襲いかかってきた。
「気持ちよくなってくれないなら俺が気持ちよくなるしかないっすね」
頭がぼうっとして、なにを言われているのか分からない。早く終わってくれよと念じながら目を閉じた。もうどうでもいい。
が、ドアフォンの音で我に返る。からさんが、来てしまった。
「おはようナリ~」
あからさまに動揺してしまう僕を見下ろして、山岡さんの彼氏だぜ、と男は笑顔を見せた。
「誰もいないナリか? 遅いナリ。もう二人は何してるナリか」
からさんの独り言を聞いた男が僕の耳元に顔を近づけ、「セックスですね」と言った。顔が熱くなる。
そして、寝室のドアがノックされた。最悪だ。
「山岡くん、朝ナリよー。起きるナリ」
からさんどうかこの場所を離れてください。ドア一枚挟んで、僕が他の男と繋がっているなんて耐えられない。男の身体を押し、中断するよう懇願した。聞き入れられるわけがなかった。それどころか激しくピストンをされ、競り上がる快楽と羞恥にあっけなく射精をしてしまった。男は声を抑えて笑っている。殺してやる。僕は呟いた。
「……あ?」
「お前を殺してやるって言ってんだよ。聞こえないのか」
男はまた顔の半分を歪ませ笑った。
「あんた最高だよ」
部屋の外から、またからさんの独り言が聞こえた。
「アイスとけちゃってるナリ」
からさんは確かにそう言った。
スマホが震えた。誰だよ邪魔すんなよ、舌打ちしながら画面を確認するとあのデブからだった。「山本くん、遅刻厳禁ナリ!当職はちょっと散歩してくるナリ~」……また俺たちに仕事押し付ける気かあのデブ。
腰を振りながらスマホをタップし「すみません。電車が遅延していたためあと五分くらいで着きます」と返信した。そして、山岡にも画面を見せてやった。
「あいつ、出て行きましたよ。命拾いしましたね」
山岡はどういうわけか呆然としている。視線は俺をすり抜け何処か遠くの方を見ていた。頬を叩いて「聞いてますー?」と声をかけたが、無反応。ノーリアクションほどつまらないものはない。ピストンを激しくしてさっさと射精した。引き抜いてやると山岡は俺を押し除け、ローションまみれの下半身を拭きもせずスラックスを履いて寝室を出て行った。
シャワーでも浴びに行ったのかと思いきやすぐ戻ってきて俺に言った。
「アイスが溶けている」
「……で?」
「あれはからさんが僕にくれたものだ」
「たかがアイスじゃないっすか。また買えばいいでしょ? それとも愛しのからさんからのプレゼントだから特別なんすか? 女々しいこと言わないでくださいよ、」
萎えるなぁ、と言い終わらないうちに山岡は俺に掴みかかってきた。ガッ、ガッ、ガッ。容赦なく俺の顔に拳を浴びせる。今にも泣き出しそうなツラがあまりにも哀れだったので二、三発殴られてやった。口の中が切れて血の味がする。哀れな山岡を見上げてニッと笑うと彼は更に激昂し俺に拳を振り上げたが、それは腕で止めた。痛いのは大嫌いだ。
もう片方の手で、奴の首を思い切り掴み強く締めてやる。呼吸を止められた山岡の身体からじわじわ力が抜けていったので、そのまま体勢を逆転させた。
俺は手を離して呼吸を許可する。眉間にしわを寄せ、肩を大きく上下させ酸素を取り込もうとする彼の表情は俺の勃起を誘った。充分に解したアナルに再び挿入してやる。するとこいつはまた「ころす」と切れ切れに呟いたので危うく射精するところだった。
「窒息プレイって気持ちいいらしいですね」
山岡の首に手をかけ俺は言った。
「キメセク並みに感度上がるらしいっすよ。俺は他人に首を絞められるなんて絶対に嫌だから知らないけど。死なないように気をつけてくださいねー」
首を締めながら突く。何度も何度も。苦しげな喘ぎを漏らす山岡の目は次第にとろんとしてきた。低酸素状態でセックスのこと以外何も考えられなくなっているに違いなかった。
このままだと死ぬかな? おもちゃは大事にしなければならない。俺は手を離してやった。彼は激しく咳き込んだ後、肩を上下させながら呼吸し、何かを呟いた。ぶつぶつ言っている彼に顔を近づける。
「からさん」
はあ? 思わず顔が歪む。
「俺からさんじゃないんだけど」
「……」
「今あんたとセックスしてんの俺なんだけど」
なんであいつの名前呼んでんの? 悪い奴にレイプされてるから白馬の王子様を呼んでるわけ? ふざけんなよ俺よりあのデブがいいって神経信じらんない、あんた馬鹿だろ本当に馬鹿なんだろ、やっと俺と同じ人間見つけたと思ったのにとんでもねえ馬鹿でがっかりだわ、十五秒で敗訴したこともあるしな、仕方ないっすわ、でも犯されてしっかり勃起してんじゃねーかこの売女がよ。やっぱりこいつのことは滅茶苦茶にしてやらないと気が済まない。
「いつもこのベッドで愛しのからさんとセックスしてるんですか? 抱く方? 抱かれる方? どっちでもいいか」
山岡は黙っている。
「愛のあるセックスなんて幻想なんだから、これからも俺と楽しみましょうね」
やや癖のある髪を撫でてやったが、彼は俺の方を見ることすらしなかった。
酒は飲まない。だがどうしても飲まなければ正気を保てない夜というのがある。
バーボンのグラスについてきたレモンカットを絞って飲み口に塗り、氷の中に沈めた。一口飲んでから僕は煙草に火をつけた。ずっと前に禁煙したから、久しぶりのニコチンに脳が揺れる。
今日は、あいつに何か言われる前にさっさと仕事を終え事務所を後にした。いつもはタクシーで帰るが、駅のすぐそばまで歩きバーで一人飲んでいる。ぎりぎりまで落とされた照明にキャンドルの灯りが揺らめいて、店内に影を一層濃くした。僕はその影に吸い込まれていくような錯覚を起こす。流れているジャズボーカルに混ざり、ふかしている煙草の火がじりじり音を立てた。
酒を飲んで煙草を吸う。酒を飲んで煙草を吸う。酒を飲んで煙草を吸う。フロアスタッフが灰皿を替えに来ないので吸殻はどんどん溜まった。
「ここにいたナリか」
はっとして振り返るとからさんがいた。僕の座っていたスツールが軋む。彼は僕の隣に座り、「心配したナリよ」と笑った。外で雨が降り出したらしく、彼は傘を持っていた。
「……よく分かりましたね」
「きみはつらいことがあるとここに来るナリ。当職はわかってるナリよ」
「……そうですか。からさんも何か飲みますか」
「オレンジジュースでいいナリ」
ふ、と笑みが零れた。
「可愛いですね」
「からかってるナリか」
「違いますよ」
カウンターに並んでいるボトルを眺めた。きらきらしていて綺麗だったから触れようとして、やめた。酒は客のものだが、瓶は店のものだから触ってはいけないと聞いたことがある。
物事はいつだって曖昧だから、どこまで踏み込んでいいのか、何が良くて何がいけないのか、僕にはよくわからない。
僕が黙っているので、からさんは運ばれてきたオレンジジュースのグラスをストローでぐるぐるかき混ぜていた。かわいいな。キスをしたい。
僕は煙草に火をつけた。それと同時に曲が切り替わる。昔の歌だ。煙草を持っていない方の手で天井を指差した。
「この歌知ってますか?」
「聞いたことはあるナリ」
彼はグラスについた雫を親指で拭っている。テネシーワルツです、と僕は言った。
「綺麗なメロディだけど、浮気の歌ですよ」
彼が嫌がるだろうから僕は反対側を向いて煙を吐く。
「信頼していた人に裏切られて、恋人を取られる歌です、なんでバレてるんだろう、バカなんですかね、なんだか泣けてくる歌ですよ」
彼の目を見たくなくて、僕は煙が空気に溶けて消えていくのをぼうっと眺めていた。
山岡くん、と名前を呼ばれ、顔を彼の方に向ける。
「きみが過去に何をして、これから何をしても、当職はきみを大切に思っているナリよ」
彼の言葉に対して、僕は何も言えなかった。灰皿で煙草を揉み消し、ただ頷いた。
「この後、どうしますか」
いつも通りでいいと彼は言う。ひどく酔っ払っているので何も出来ないかもしれないと一応断ったが、構わないと笑ったので僕は泣き出しそうになった。
それからのことはよく覚えていない。
本当に何もしなかった気がする。
覚えているのは彼がコンビニで買ってくれたトマトジュースが美味しかったことと、ビルの影に隠れてキスをして幸せを感じたこと、雨が止んだあとのアスファルトの匂い、心地のいい初夏の風。
その他は忘れてしまった。何もかもすべて。
いくら勤務先が金持ちの邸宅だからといって自分の生活レベルが上がるわけではなく、俺はいつも通りコンビニで弁当と煙草を買いオフィスに戻った。
デブはしょっちゅう高級ケータリングを呼んでいる。食事に連れて行って貰えることもある。
良い家に住み、良い飯を食う。
俺もそんな生活に憧れていたけれど、いざ良い飯を食ってみると美味いのか不味いのかよく分からなかった。高い舌を持たない自分が惨めになるばかりで、近頃は奴との食事を避けるようになった。質が高ければ満足するってわけでもないのだ。
デスクで弁当を完食し、煙草とライターを持ってバルコニーに出る。すると先客がいたので「わ」と声を出してしまった。山岡だ。壁に寄りかかって遠くを見ていた彼は俺を見て微笑んだ。
「山岡さん、煙草吸うんですか」
「うん。一回止めてたんだけどね。きみは何吸ってるの」
懐からマルボロを取り出す。「いいね」と彼は呟いた。
「きみに似合ってる気がする」
似合ってるとか似合ってないとかあんのかよ。俺は「はあ」と適当に返事をして煙草に火をつけた。山岡の手にあるのはクールのボックスだった。同じフィリップ・モリス。
山岡の空気がいつもと違う気がして俺は居心地の悪さを感じた。普段は俺を見るなりびくびく警戒して、早足で逃げ出すことだってあるのに、今日は妙に堂々としている。俺がどんな人間なのか忘れてしまったのだろうか。山岡は言った。
「きみを待ってたんだよ」
「は?」
「話がしたくて」
「なんの?」
「僕はもうきみとは寝ない」
「……なんで?」
やっぱりこいつ俺が何をして何を言ったのか忘れたんだな。俺を拒否したら人生がめちゃくちゃになるって、もう一度教えてやる必要がある。苛々しながら煙草を灰皿で揉消すと、彼も同じようにした。
俺が何か言うより先に山岡は「もういいんだ」と口を開いた。
「僕に仕返しがしたいなら、きみの好きにしたらいいよ。本当は何もいらないんだ。金も権力も。こんな立派なマンションも、与えられたら多分僕は持て余すよ。田舎育ちだからね。僕が欲しいのはもっと些細なことだよ」
なにもいらない、と繰り返す山岡は相変わらず微笑んでいる。いつもの怯えた目でなく、まっすぐ俺を見つめた。思わず目を逸らした。それにさ、と彼は言葉を続けた。
「それに、仮に僕が山本くんのものになったら、きみはきっと僕に興味をなくす」
彼から発せられた言葉に俺は唖然とした。俺が?
意味を懸命に咀嚼して飲み込み言葉を返そうとするものの、引っかかって出てこない。誤解だ。
「きみは手に入らないものに価値を感じているだけだ。そうだろ?」
新しく煙草に火をつける彼に、そんなことない、と俺は言いたかった。だがそれを口に出すのはひどく恥ずかしいことだ。だって、そんなの、愛の告白じゃないか。
「え、僕の勘違い?」とか言って彼は眉を下げたが、俺はそれを無視した。山岡がわずかに動揺しているのを感じ取ったが何も言いたくなかった。懐を探り、煙草を咥える。ライターなくしちゃったな、とぼやいた。
「貸そうか」
「いや……火だけ貰えれば」
指に挟んだ煙草を咥えて、彼に顔を近付けた。
「煙草、ただくっつけただけじゃ酸素足りなくて燃えないです」
「あ、ああ」
山岡も煙草を咥えて息を吸った。オレンジ色の火が燃え移ったのを確認し、顔を離した。思い切り呼吸をする。
直接煙草の火を貰う瞬間、今までで一番顔が近付いた。何度も彼を抱いたけれど、一度もキスをしたことがない。恥ずかしかったから。
しばらく無言が続いた。
突然山岡が言う。
「マルボロって、どういう意味か知ってる?」
「……どっかの将軍の名前でしたっけ」
「うーん、そっちでもいいけど」
違うの? 俺が首をかしげると山岡は口籠った。頬をかいている。
「なんなんですか、はっきりしてくださいよ」
「いや……僕の口から言うのはちょっと恥ずかしいな」
「じゃあなんで話題にしたんすか」
「あとさ、このクールって銘柄にもちゃんと意味があるんだよ」
「へー。山岡さん雑学博士っすね」
あはは、と声を出して彼は笑った。
「これ、あげるよ。僕はまた禁煙するから」
「……はあ」
俺にクールのボックスを押し付け、山岡は軽く手を振って室内に戻った。知らない煙草の匂いが残った。
貰ったボックスを開けてみる。……一本しか残ってないじゃん。
試しに火をつけて吸ってみた。やたら軽くて、しかもまずい。
けれど、ひっくり返りそうだった胸の中をメンソールがすっと冷やしてくれたから、俺は少しだけ落ち着いた。
これはきっと、悪夢を見た翌朝にペットボトルの水を愛おしく思うのと同じだろう。
俺も自分のデスクに戻り、PCを開く。山岡からメールが来ている。それを読むと、例の銘柄の意味が書いてあった。
似合ってる気がする、という言葉の真意を理解し顔がかっと熱くなる。
俺は鼻持ちならないキザ野郎の顔を睨みつけた。彼は笑っている。目を細めて、本当に楽しそうに俺を見ていた。
頑張って、とでも言いたいんだろうか。たった今俺を振ったくせに嫌味なやつだ。
俺はあんたのことが好きだけど、あんたの相手は俺じゃなくて、俺の相手もあんたじゃないって、そう言いたいんだろ。ふん、と鼻を鳴らし、席を外す。
俺はいつどこで誰と出会い、誰を好きになるのか分からない。また来るかもしれないその日のために大きく伸びをしたあと、鏡の前でネクタイを締め直した。
了
※
あのデブが「急用が出来たナリ」と言い、あからさまな動揺を見せた山岡の顔を見てムラついた。
「僕も付いていかなくて大丈夫ですか」
彼の声が震えているのを感じ取って益々興奮してくる。すぐタクシー拾うから大丈夫ナリ~と呑気に笑うデブに対して山岡は更に食い下がる。
「でも、一応警戒しておいた方が……」
「大丈夫じゃないっすか?」
俺が口を挟むと、山岡は目を見開く。
「今まで知らない奴に暴力振るわれたりなんてしてないでしょ? あいつらみんな唐澤さんのことが大好きだからいじめちゃうだけっすよ」
山岡はデブに見えないよう口の動きだけで「しね」「おまえがころされろ」と言った。こいつは本当に俺の情欲を煽る才能がある。僕をこいつと二人きりにするなと山岡が言いたいのを理解しない愚鈍なデブは、
「それもそれで気味が悪いナリが、山本くんの言う通りナリ。当職は大丈夫ナリ」と笑って山岡を更に絶望させた。
「……そうですか」
「気をつけていってらっしゃーい」
「はいナリ」
早く出てけ早く出てけと念じながらデスクの下で足をぶらぶらさせる。身支度を終えたデブは無情にも外へ出て行ってしまった。二人っきりっすね山岡さぁん、俺が声をかけると彼は肩をびくっとさせた。
「嫌ならあんたも出てけばいいのに。あいつが帰るまで勝手に外に出てたらいいじゃないですか」
「僕には仕事がある」
「真面目っすね。どうせ今からセックスするんだから今やってもやらなくても同じでしょ」
彼のデスクに近づき、腕を掴んで無理やり立ち上がらせた。僕に触るな、と彼は声を震わせる。
「じゃあ昨日の夜、あいつと何してたか教えてくれたら今日は何もしないであげますね」
山岡は俺の手を振り払い、距離を取った。カマをかけたつもりだったのに、精一杯の怒りを込めて俺を睨むものだから分かってしまった。
正面から思い切り距離を詰めて奴を壁まで追い詰め、奴のネクタイを掴んで顔を引き寄せた。
「ホテル行ったんでしょ? どんなことしたか教えてくださいよ」
「黙れ」
「ふーん。よくまああんたも俺に犯されまくった薄汚い身体で自分の恋人と寝れますねぇ」
もはや視線と言葉でしか抵抗しなくなった山岡は、俺と戦っても勝てないと完全に理解したらしい。無駄な体力を消耗しないという意味では利口な判断だが、それじゃ俺が興奮しないんだよ。引っ張っていたネクタイを今度はするする解いた。
「ちょっと目を閉じててくださいね」
「何を……」
「目隠しするだけですよ」
後頭部のあたりできゅっと結んでやった。それから、戸惑っている山岡の膝を思い切り蹴飛ばした。うめき声を上げ、彼は壁に背中をこすりつけながら床に座り込んだ。
「あーあーあー、もうほんとに躾がなってないよなぁ」
脇腹を蹴り床に転がす。緊張した身体の上に伸し掛かって、「あいつとどんなふうにヤッたんですか」そう耳元で呟きながら奴の首を掴んだ。教えろよ淫売。あくまでだんまりを決め込んだこいつの唇に噛み付く。すると突然暴れだしたので首を掴んでいる手の力を強くしてやった。舌を絡め取る。唾液がこいつの頬を伝った。
「俺をあのデブだと思えばあんたも少しは楽しめるんじゃないかと思ったんだけど」
「……」
「いつもは優しい恋人が豹変して自分を犯そうとするのって、どうすかねぇ」
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