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「恒心文庫:八神外野手が異世界でなんJの王になるようです」の版間の差分

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2020年12月26日 (土) 09:06時点における版

本文

「異世界に行きたいンゴねぇ……」
安物の文庫本をパタりと閉じ、誰に対して向けられたのでもない言葉を口にした。
異世界もの。最近ライトノベルではそういうのが流行っているらしい。
何の取り柄もない主人公がひょんなことから異世界におもむき、
こちらの世界の知識を利用して大活躍、ついでにロリで美少女で処女の女の子を何人もゲットする
……といったような、非常にわかりやすい願望充足型の物語だ。
努力はしたくない。しかし周囲からチヤホヤされたい。
だったら自分より劣った人間しかいない世界に行けばいいではないか。そういうことだ。
自己同一性を保持したまま生まれ変わり願望を満たす。非常に都合のいいストーリーである。

生まれ変わり願望。しかしその言葉は、自分にとっては別の意味を持っていた。
インターネット上の掲示板で固有の名を語り、自分を騙った。
ありもしない偽りの自分を作り出し、周囲を見下した。
掲示板には自分より劣った人間しかいない。自分で自分を偽ったことも忘れ、そう信じ込んだ。
そうすれば満たされた。満たされたと思っていた。その結果どうなった。
特定されて炎上。
止むことのない中傷。
弁護士に相談しましょう。
そして今に至る。大金はたいて弁護士を雇ったはいいが、騒ぎは鎮火どころかさらに燃える。
大学では自分を探しまわる連中に追いかけられ、自宅には不審者が次々と訪れ。
自分を探し出せないと知ると、攻撃者はその矛先を家族へと向けた。
父は車を壊された。母は売春婦に仕立て上げられた。
もうこの炎上は永遠に止むことはない。自分は一生、彼らから逃げ続けなければならないのだ。
頬に水滴が伝った。
「異世界に行きたいンゴねぇ……」
安物の文庫本をパラパラと捲りながら、もう一度同じ言葉を口にした。
紙の上では、主人公が小学生レベルの知識を偉そうに講釈垂れていた。

「異世界に行きたいナリか?」
どうにも意識がはっきりしない。きっと酒を呑んで床に着いたからに違いない。
最近はどうにも上手く眠れず、アルコールの力を借りてようやく入眠できるとった有様だ。
それもこれも全ては……
「異世界に行きたいナリか?」
もう一度同じ言葉を耳にし、重い頭を振り向けると、懐かしい姿が目に映った。
弁護士唐澤貴洋弁護士。
特定、炎上、中傷と絶望のまっただ中にいた自分に救いの手を差し伸べてくれた人物。
そしてどん底から更に下へと突き落とした男。
彼に対する評価は難しい。一般論を持ち出すならば、炎上を更に加熱させたとして非難されるべきだろう。
しかし一度は自分を救うべく動いてくれたことは確かだ。
炎上を激化させたことだって、彼がネット炎上というものをいまいち理解していなかった、
つまり能力不足に起因する問題であって、決して悪意があったわけではない。
無能であることは非難されるべきかもしれない。
しかしその、無謀な案件にすら挑む精神はむしろ評価されるべきだ。
いや、これは自分に対する言い訳だろう。
自分が彼を嫌いになれない理由。
法テラスから紹介され、当時五反田にあった事務所に足を運び、初めて目にしたあの衝撃。歓喜。ときめき。
甘い痛みはずっと自分の心を支配した。何度も自殺を考えながらも思いとどまったのは、
この胸に淡く灯る炎だけは、何の罪もないこの想いだけは、せめて長生きしてほしいと思ったからだ。
からさん……

「異世界に行きたいナリか?」
三たび同じ言葉を投げかけられ、相変わらずふわふわした意識ながらもふと我に返る。
ここは自分の部屋だ。誰かを通すにしたって、家族が自分に確認を取るはず。
なぜ彼がここにいいる?
そして何と言った? 異世界に行きたい?
「そう難しいことではないナリよエヴェレットの多世界解釈によればこの世界いやこの世界を含む複数の世界は重ね合わせの状態であるナリ量子の重ね合わせがマクロたる我々が認識しうる世界にも同じように作用しているという言説ナリねあるいは例え話を持ち出すならば箱の中の猫を観察している我々自身が重ね合わせの状態にあるからこそ猫の重ね合わせ状態がマクロ的に観測できないということナリ今この瞬間にも世界は無数に確率論的分岐を続けているということナリよ」
つまり、どういうことだ。
「君は異世界に行くことができる……」
ああ、そうか。これは夢だ。寝る前にわざとらしいほどの願望従属型の小説もどきを読んだせいで、
こんなあからさまな願望従属型の夢を見ているのだ。

「長谷川君。君はどんな異世界に行きたいナリか?」
4度目の問いを耳にし、思わず自嘲がこぼれる。異世界。これはきっとそういう夢なのだ。
竜や魔法が飛び交う幻想の地? それとも銀河帝国同士が覇権を争う遠い宇宙?
夢の中ならばどこへでも行けるだろう。何でさえも誰でさえも自分の思い通りになるだろう。
そしてその傲慢さが何をもたらした。
ネット上の掲示板ですら、そんな小さな小さな世界ですら満足な人間関係を築けなかった人間が。
自分の思い通りの世界だって? 思い上がりは甚だしい。何も学んでいないのか。長谷川亮太。
それでも。
それでもこれが自分の夢ならば、ほんのささやかな願望一つ、小さな願い一つだけなら。
誰が許すとかじゃない、自分で自分を許せるなら、たった一つの思いだけなら。

「ワイはただ、ワイが炎上していない夢を見たいンゴ」

「●はい。」
手短にそう告げると、先生は顔を90度傾けた。
これは弁護士唐澤貴洋弁護士が本気を出したときのしるしだ。
先生はこうやって幾多の人間と一羽のダチョウを葬り、いくつもの都市を灰に変えた。
いや、これはなんJラー達のネタだったか?
既に意識が混濁してきた。もう何秒かすれば意識を失い倒れるだろう。
次に目を覚ますのはこの世界だろうか。それとも夢の中だろうか。
せめていい夢を。ただそう願って瞳を閉じた。

「長谷川君。君は生まれ変わるナリよ。新しい君に」

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