「恒心文庫:UNDER CONSTRUCTION」の版間の差分
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2021年5月10日 (月) 21:33時点における版
本文
私がこの法律事務所で働くことになったのには、何と言っても尊敬するHさんの誘いがあったからだ。
少し前の企業買収事件で氏の活躍をこの目で見た私にとって、これから先同じ職場で働けることは何よりの幸せである。
期待を胸に目的のビルに足を踏み入れる。案内状を頼りに目的の階を探すが、同じ名前の部屋が二つあるためどちらなのか少時迷ってしまった。
インターホンを押すと、「要件はなんですか?」忙しそうな、社会性のない幼い感じのする声が早口に尋ねたので、こちらも要件を述べると二つ返事に鍵を開けてくれた。
ただその声の裏で聞き覚えのある声色が何やら絶叫している気がしたが、きっと風がそうさせるのだと思い詮索は止すことにした。
エレベーターで3つ階を過ぎ、鈴の鳴る音と共にその部屋の扉を開けた。
「ああダメっ!出りゅ!出りゅよ!」
最初に聞こえたのは敬愛するHさんの発する嬌声だった。そして二番目には彼に向かってひたすら手淫を施す男の涼しげな声だった。
「あ、ようこそいらっしゃいました。今お茶を用意させます。」
見ると奥から、目のハイライトが消え、脳の機能を意図的に停止させているように見える女性が湯呑を片手にこちらに向かい、無言で手近なサイドテーブルを指差している。
私は目の前で起きている事変をなるべく避けるようにしてサイドテーブルへ向かい、腰を下ろした。
私はほぼ反射神経に従うような形で彼に尋ねた。「あの、何をなさっているんで?」
「ああ、今父を妊娠させていまして。」
天地の引っ繰り返る幻覚に耐えながら、脳内でまず最初の疑問を整理した。
どうも彼はHさんの息子なようだ。氏の業績を知っている私としてはまるで信じられない話だったが、やはり客観的な事実として信用するしかなかった。これがかねがね氏のおっしゃっていたT氏だそうである。
次にこちらの観点からはどうしても解決できない問題について尋ねることにした。
「お父様を妊娠させているというのはどういうことですか?男性は普通妊娠することなどないはずですが。」
するとT氏はおよそ慣れた質問であるかのようにふっと笑みを浮かべ、何か諭すような口調でこちらに語りかけた。
「いやあYさん、そういう旧時代的な考えはもうやめにしませんか。なぜ男が子を持ってはいけないのでしょう。あなたは理由を考えたことがあるでしょうか?
そう、そこに理由はないのです。当職は幾度も同じことを尋ねられ、このように聞き返しましたが、何一つ論理的な説明は得られなかった。そこで当職は確信したんです。男が子を孕まない必然性はないんだと。
いや、むしろ男は積極的に子を孕んでいかなければない。子を産むのが女のみの使命などと言ったら、それこそ性差別になるでしょう。男女共同参画社会を目指す我ら日本人にとって、男は積極的に子を孕むべきじゃあないでしょうか。
そういう性差を撤廃する一環として、父に子を持たせるようにしているのです。一法律家としてそれくらいはしなくてはね。」
一文字一文字についておよそ理解の追いつかない理論をまくしたてられ、私の脳は既に限界寸前であった。そうすると次に人が取るのは、強引な納得である。
そうだ、きっとそういうものなのだろう。きっと今までの自分が知らなかっただけで、これからの社会というのは男の懐妊こそがスタンダードになっていくんだ。
そう結論づけて私の中での議論は終結させ、今は目の前の光景を見つめることに注力した。
そう結論づけて私の中での議論は終結させ、今は目の前の光景を見つめることに注力した。
目の前ではH氏の肛門目がけ、Tが笑顔で腰を打ち込み続けていた。尻から子宮に精子が届くものなんだろうか。そんな全くもって無意味な疑問を浮かべては捨てていると、突如としてTの動きが断続的になった。
どうも彼は精を出し終えたようだ。と今度は見る見るうちにH氏の腹がぽっこりと膨れ上がり、新たな生命が形として急速に出来上がっていくのが見えた。なるほど感動的である。
しかし、これはおよそ社会常識としてそうなように、既に齢60に達しようかという体に命二つはさすがに荷が重い。H氏の表情は次第に苦悶の様相を呈し始め、体が激しく痙攣していくのが分かった。
びたん、びたんと巨体が打ち付けられるのと同時に、床に溜まった内容を想像したくもない何かしらの液体が飛沫をあげて降り注ぐ。幾許か自分のスーツに着弾していることはあえて無視するようにした。
「ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!(ブチブチブチブチチッッッ!!!!!ブブッ!!!!!ブゥッ!!!!!)」
果たせるかな、Hの耳を劈くような奇声と共に彼の肛門から真っ赤な血と共にどろりとした肉片が飛び出してきた。それが先ほどまで彼の胎内ですくすくと成長していた生命の残骸であることは誰の目にも明らかであった。
瞬時に目を覆えるような判断力は既に私の中から抜け落ちていた。ここに来てからは体感時間は3倍になっているようなのに対して、脳の動きは3分の1程度まで落ち込んでおり、その差は9倍ほどもあった。
目の前の男はこの惨状にも涼しげな顔で、何やら独り言を話し始めた。
「参ったなあもう5回連続でこれだ。やはり父で試すのは無理があったかなあ。まあしかしこれはこれでもうけものだ。何しろほんのちょっとした労働でそれなりの量の食肉が手に入ったわけだ。
こういう時のためにとっておいた分を使って今日の昼飯としましょうか。高度情報社会でシステマナイズされた今の時代、これくらい思考を切り替えないとやっていけませんな、ハッハッハ」
男は床に散らばった肉塊を手で集めて掬い上げると、おもむろに奥の調理場へ向かい、コンロの火を入れ始めた。しばらくバリエーションに富んだ効果音が聞こえると、男は大きめの丼を持って出てきた。
そこには湯気を立てて輝く肉丼があった。出所のわからない白身がかかっていたが、それがなんであるか類推するのは止すことにした。
「ああこれはうまそうだ。Yさんの分もありますがどうします?遠くからお越しで腹も減っているでしょう。」
確かに腹は減っていたが、どちらかといえばこのまま餓死してしまいたい気分であったので、そのまま押し黙っていることにした。
「まあ食べたくなったら一声かけてくださいな。しかしこれは何丼と呼ぶべきなんでしょうなあ。一見すると親子丼だが、しかしこれを親子丼と呼ぶには問題がある。
まず肉と白身は出所が同じだから親子ではない。いうなれば子子丼だろうか。いや、精子を子供とするか否かは重要な問題だ。
ここで染色体数を考えてみよう。ヒトは2つで1対の染色体を持つから2nだが、一方で精子は片方をほどいて生成されるからn、ヒトと精子は根本的に違う生物といえるだろう」
「さらに言えば肉の方も問題だ。法律家としては特にこちらを話題としたい。胎児は人に分類されるのか?昭和7年の判例で言えば胎児というのは法律上の権利を持たないとされている。ということは社会通念上胎児は人ではないということだろうか?
だがしかし出生した時点で法定代理人を持つ権利が存在するという解釈も存在するし、判例自体に対する反対意見も根強くある。そうするとこの胎児は子になるのかならないのか。そうだ、Y君はT大卒のエリートだそうじゃないか。君はどう思うかね?」
私は自分の頭蓋の中で何かが溶けていくのを感じた。奥を見ると女性がパソコンに向かってひたすら嘔吐している。もう半分くらい溶けだしただろうか。だんだん自分の見ているものの形が分からなくなってきた。自分は何故ここに来たのか。目の前の男は誰か。奥で気絶する老人は何者だ。何かが近づいてくる。何かを振りかざす。目の前が黒でいっぱいになった。
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